第1話 新たな道
では、どうぞ
明治四十年四月、北氷道が正式に明治政府の地方行政区分として発足したその日のことを記した記録は奇妙なほど少ない。
本書がこれまで繰り返し述べてきた通り、この移行は現地に住む人々の日常において、ほとんど目に見える変化を伴わないものであった。統治の主体が委任統治機構から正式な道庁へと変わったところで、嶺林国で農地を耕す者、鉱山で働く者、海湾国で漁に出る者にとってその日の暮らしが前日までと劇的に異なるわけではなかったのである。
それでも、この制度移行は長期的に見れば、北氷道という土地のあり方を確実に変えていくことになる。
最も大きな変化は、北氷道がもはや「特殊な辺境」ではなく、本州の他の道府県と、制度上ほぼ同列の存在として扱われるようになったことである。これにより、これまで委任統治機構が独自に運用してきた税制、土地制度、教育制度の多くが、本州の制度に段階的に統一されていくこととなった。
明治四十年代を通じて進められたこの制度統一の作業は、決して摩擦のないものではなかった。特に、土地所有をめぐる制度については委任統治期に独自の形で発展してきた慣習—特に、鉱業権をめぐる取り扱い—と、本州の鉱業法との間にいくつかの齟齬が生じている。これらの齟齬は明治四十二年から四十三年にかけて内務省と道庁との間の協議を通じて、徐々に調整されていった。
この時期、初代の家系における二代目はすでに四十代に差し掛かり、嶺林金山における中核的な技師としての地位を確立していた。彼の名は、当時の鉱山関係の記録の中に複数箇所確認することができる。明治四十一年に作成された嶺林金山の操業報告書には、彼が「採掘主任」としての役職にあったことが記されている。
二代目の家庭については、本書ですでに触れた通り、明治二十年代から三十年代にかけて複数の子をもうけている。この子供たちのうち本書において「三代目」として登場することになる人物は明治二十八年、すなわち日露戦争が開戦したまさにその翌年に生まれたと戸籍記録から確認されている。
日露戦争という、北氷道の戦略的価値を改めて世に知らしめることになった戦争の渦中に生を受け、彼が物心つく頃にはすでに北氷道は、明治政府の正式な版図として新たな歩みを始めていた。彼の人生は、いわば北氷道という土地が、辺境の入植地から、国家の一部として確立されていく過程と軌を一にして展開していくことになる。
三代目の幼少期について、現存する記録は決して多くない。だが、後年彼自身が周囲の人々に語ったとされる断片的な思い出話がいくつか聞き書きの形で残されている。これらの聞き書きの多くは彼の晩年、すなわち本書冒頭で触れた私自身が彼と過ごしたごくわずかな時間の中で語られたものである。
彼は、幼い頃の嶺林国の冬の厳しさについて、よくこう語っていた。
「雪が積もると、外で遊ぶことなぞできぬ。家の中で、祖父(初代)が、若い頃の話をよくしてくれたものだ。江戸の話、戦の話、そして初めてこの地に降り立った時の話を」
もしこの回想が正確であるならば、初代は、晩年に至るまで自らの来し方を、孫である三代目に語り続けていたことになる。没落した武士が、すべてを失ったと思われたあの戊辰の年から、四十年近くの歳月を経て、今や孫に囲まれ、自らの半生を語る老人として、その生涯の終盤を迎えつつあった。初代が没した明治四十三年頃、三代目はすでに十五歳になっており、祖父の語る江戸の記憶を、十分に理解できる年齢にあった。
明治四十三年頃、初代はついにその生涯を閉じたと、嶺林国の寺院に残された過去帳から確認することができる。享年は、おおむね七十前後であったと推定される。
彼の墓は、現在も嶺林国の小さな寺院に残されている。墓石には、戒名とともにごく簡素な俗名のみが刻まれており、彼がかつて武士であったことを示す記載は、どこにも見当たらない。
ある没落士族の四十数年にわたる見知らぬ北の地での生涯は、こうして、静かに幕を閉じた。だが、彼が遺したものは決して小さくはなかった。彼の子が、孫が、そしてやがてその先の世代が、この北の大地に根を下ろし、国家全体の運命とより深く結びついていくことになる、その最初の一歩を、彼は確かに踏み出していたのである。
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