第13話 委任統治の終わり
では、どうぞ
日露戦争の終結は北氷道にとって、三十数年にわたって続いてきた委任統治体制に終止符を打つ契機となった。
なぜ、この時期が統治の転換点として選ばれたのか。これについてはいくつかの要因が重なっていたと本書では考えている。
第一に、日露戦争を通じて北氷道が国家の安全保障上無視できない戦略的価値を有することが、改めて明確になったことである。これまで見てきた通り、海湾国の海軍拠点、そして嶺林国の資源は、限定的ながらも戦争遂行に実質的な貢献を果たした。この事実は、明治政府内部に北氷道をもはや「半ば独立した統治機構に委ねられたままの辺境」としてではなく国家の中核的な戦略資産として正式に位置づけ直すべきだという認識を強く根付かせることとなった。
第二に、これまで委任統治を牽引してきた人物たちの世代的な限界である。榎本武揚は、この時期すでに七十代に達しており、また西郷隆盛も同様に高齢に差し掛かっていた。彼らが築き上げてきた統治体制を、次の世代へとどのような形で引き継ぐかという課題が現実的な検討課題として浮上していた。
第三に、これも見過ごせない要因として北氷道社会そのものの成熟がある。最初期の入植者たちの子の世代(二代目)が、すでに社会の中核を担うようになり、本州生まれの世代とはまた異なる、北氷道独自のアイデンティティを持つ住民層が、形成されつつあった。彼らにとってもはや「委任統治」という暫定的・例外的な体制よりも、本州の他地域と同様の正規の行政区分のもとに置かれることの方が、自然な要請として受け止められるようになっていた。
明治三十九年、政府は、北氷道の正式な行政区分への編入に関する検討を、本格的に開始した。この検討の中心となったのは、当時、内務省に新設された北方領土編入準備委員会である。
この委員会における議論の記録は、断片的ながら国立公文書館に保管されている。議論の主な論点は、北氷道を北海道に準じる「道」として位置づけるか、それとも、より独立性の高い特別な統治形態を維持するかという点にあった。
最終的に採用されたのは、北氷道を、北海道に類する「道」として位置づけ、その内部を、南部・中部・北部、それぞれ海湾国・嶺林国・極北国という、三つの「国」に区分するという制度であった。これは、本書がこれまで繰り返し言及してきた行政区分そのものであり、この明治四十年前後の制度設計に、その直接の起源を持つものである。
この編入にあたり、特筆すべき点がある。それは、これまで委任統治を担ってきた人材の多くがそのまま、新たな正規の行政機構の中に引き継がれる形で登用されたという事実である。
榎本武揚自身は、この時期すでに高齢であったこともあり、新設された行政機構の名誉職的な地位に就いたのち、まもなく現役を退いている。だが、彼のもとで実務を担ってきた、数多くの文官・技術者たちは、そのまま新たな道庁、各国庁の職員として、引き続きその任にあたることとなった。これが、本書の冒頭で触れた「円滑な引き渡し」という言葉の具体的な内実である。住民にとって、統治の主体が形式上変わったことを除けば、日々の生活、行政の実務において目に見える断絶は、ほとんど存在しなかったのである。
西郷隆盛もまたこの時期、治安維持の任を、次世代の人材に徐々に譲り渡しつつあった。彼が最終的にいつ、どのような形でその生涯を終えたのか、本書では深く立ち入らないが、少なくとも彼が城山で命を落とすことなくこの北の大地で新たな人生の後半を生きたという事実そのものが、本書にとって重要な意味を持っている。
明治四十年四月、北氷道は正式に、明治政府の地方行政区分として発足した。買収から数えて、実に四十年の歳月が流れていた。
私の家系の初代は、この制度移行の時、すでに六十代に達していたと推定される。彼がこの出来事をどのように受け止めたのか。だが本書では、ここでひとつの想像を許していただきたい。
禄を失い、すべてを失ったと思われたあの戊辰の年から四十年。一人の没落した武士が見知らぬ北の凍土に降り立ち、土を耕し、子をなし、孫の顔を見るに至るまでの歳月は、おそらく彼自身にとってさえひとつの長い夢のような道のりであったに違いない。
そして、この安定した北の大地で生まれ育つことになる三代目、私の祖父に当たる人物もまた、まさにこの時期、幼少期を過ごしていた。
第一章、第二章を通じて見てきた買収から委任統治の終わりまでの歩みは、ここに、ひとつの区切りを迎える。次章では、正式に日本の一地方となった北氷道がいかにして国家全体の運命とより深く、より不可分に結びついていくかを見ていくこととしたい。
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