第12話 日露の対立
では、どうぞ
明治三十年代に入り、極東の国際情勢は急速に緊迫の度を増していくことになる。中心にあったのは、満州、そして朝鮮半島をめぐる日本とロシアの対立であった。
この対立の経緯そのものについては、すでに広く知られている通りであり、本書で改めて詳述する必要はないだろう。だが、北氷道にとってこの対立の高まりは、ひとつの極めて特殊な意味を持つこととなった。それは、買収から三十年余りを経てなお、この土地の旧宗主国がロシアであるという、歴史的な事実そのものに由来する。
明治三十年代初頭、日露間の緊張が高まるにつれ、北氷道に対する世間の関心が、改めて高まりを見せ始めている。当時の本州の新聞には、北氷道の戦略的価値について論じる記事が、たびたび掲載されるようになった。
明治三十五年、ある全国紙に掲載された論説には、次のような一節がある。
「北氷の地、もと露領たりしこと、世人の知る所なり。今や日露の間、風雲急を告ぐるの折柄、かの北辺の地、いかなる役割を担うべきか、国家として深く考慮すべき時なり」
この論説が示唆する通り、北氷道は単なる経済的な資産としてだけでなく、対露戦略における地政学的な要衝としての価値をにわかに注目されることとなった。北氷道の地理的位置は、ロシア極東地域、特にシベリア東部やカムチャツカ半島と、北太平洋を挟んで近接しており、軍事的な観点からも、その重要性が見直され始めたのである。
この情勢を受け、明治政府はそれまで比較的緩やかな統制下に置いていた北氷道の統治体制について、ある種の方針転換を図ることとなる。明治三十六年政府は、北氷道の防衛体制強化を目的として、海軍の小規模な拠点を、南部海湾国に設置することを決定した。
これは、北氷道における本格的な軍事施設整備の最初の一歩であった。この拠点は、当初、補給・哨戒を主な任務とする小規模なものであったが、後の太平洋戦争期において、本書で繰り返し言及することになる、北方艦隊の前身としての性格を、すでにこの段階で帯び始めていたと言える。
この海軍拠点の設置にあたり、統治機構、特に治安維持を担っていた西郷隆盛とその一団が協力的な役割を果たしたことが当時の記録から確認されている。西郷自身、すでに七十代に差し掛かりつつあった時期であるが、彼の薫陶を受けた次世代の人材が、この新たな海軍拠点の整備と運営に、深く関与していくことになる。
明治三十七年二月、ついに日露戦争が開戦した。
この戦争において、北氷道が果たした役割は、本州における主戦場(満州・遼東半島、また日本海海戦に代表される海上戦闘)に比べれば、限定的なものであった。だが、海湾国の海軍拠点は、ロシア極東艦隊、特にウラジオストク方面から出撃する艦艇の動向を監視する、補助的な哨戒任務を担っていたことが、当時の海軍記録から確認されている。
また、この戦争期間中、嶺林国で産出される石炭が艦艇用燃料として一定量本州へと供給されていたことも記録に残っている。規模としては、決して大きなものではなかったが、これは、後の第一次世界大戦期において、より大規模な形で繰り返されることになる、北氷道の資源が国家の戦争遂行を支えるという構図の、最初の事例であったと言える。
明治三十八年九月、ポーツマス条約の締結をもって、日露戦争は終結した。この戦争の結果が、日本国内に複雑な反応(賠償金を得られなかったことへの不満から生じた、日比谷焼打事件に代表される世論の動揺)をもたらしたことは、広く知られている通りである。
だが、北氷道にとって、この戦争の終結は、もうひとつ、別の重要な意味を持つこととなった。
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