第10話 対列強・対新政府外交
では、どうぞ
明治十年代を通じて、北氷道の委任統治機構は二つの異なる方向への外交的対応を同時に迫られることとなった。ひとつは、本州の明治政府との関係であり、もうひとつは欧米列強、とりわけ合衆国との関係である。
まず、明治政府との関係について述べておきたい。
すでに述べた通り、北氷道は形式上、明治政府の版図に属しながらも、実質的には榎本武揚らによる半ば独立した統治機構によって運営されていた。この特異な体制は明治政府にとって常に座りの悪いものであり続けた。
明治十年代、廃藩置県を経て、本州各地における中央集権的な統治体制が急速に整備されていく中で、北氷道のみが、旧幕府方残党による委任統治という、例外的な形態を維持し続けていることへの疑問が、政府部内、また一部の言論からも、繰り返し提起されている。
明治十四年、当時の参議の一人が、太政官に提出した上申書には、次のような一節がある。
「北氷の地、すでに我が版図に帰して十有余年。然るに、いまだ正規の地方行政の体を成さず、榎本以下の旧臣に委ねたるままなるは、国家統治の体裁として、いかがなものか」
この種の批判に対し、榎本らは繰り返し現地の特殊事情(厳しい気候、移民の継続的な受け入れ、先住民との関係、そして急速に拡大しつつある資源産業の管理)を理由になお一定期間の自治的な統治を継続する必要性を訴え続けている。
この主張を、明治政府が最終的に受け入れ続けた背景には、いくつかの実利的な理由があったと、本書では考えている。第一に、北氷道の統治が、政府の直接的な財政負担をほとんど伴わずに進められていたこと(統治機構は、鉱山収入などにより、おおむね自前で財政を賄っていた)。第二に、榎本らの統治が、これまで見てきた通り、おおむね順調に進展しており、これに代わる統治体制を、政府が一から構築する現実的な必要性が乏しかったこと。そして第三に、これは推測の域を出ないが、榎本という人物が、明治政府内部、特に開明派の官僚たちとの間に、すでに一定の信頼関係を築いていたことも、影響していたと考えられる。
もうひとつの外交課題が、合衆国をはじめとする列強との関係であった。
第一章で述べた通り、アラスカの買収交渉において、本来の有力な買い手であったのは合衆国であった。日本がこの土地を獲得したことについて、合衆国内には当初から複雑な感情が存在していたことが当時の合衆国議会における議論の記録から窺える。
明治十年代に入り、南北戦争後の混乱を脱した合衆国は国力の回復とともに、改めて対外政策、とりわけ太平洋方面への関心を強めていくことになる。この過程で、すでに日本の統治下にある北方の土地への関心が、合衆国内で再燃する局面も、たびたび見られた。
明治十六年、合衆国の有力紙のひとつが、「かつて我が国が獲得しうべきであった北の沃野は、いま、極東の一島国の手中にある」という趣旨の社説を掲載し、これが日本国内でも翻訳・紹介され、一定の話題を呼んだことが記録されている。
この時期、統治機構は、合衆国との間で、直接的な外交交渉を行う権限を有していなかった(これは明治政府の外務省が一元的に管轄する事項であった)。だが、現地レベルでの実務的な関係、特に、漁業権や、国境付近(英領カナダとの境界)をめぐる実務協議については、統治機構が、政府の監督のもとで、一定の役割を担っていたことが確認されている。
この時期の対列強外交において、特筆すべき出来事のひとつが、明治十八年に行われた、英領カナダとの境界確定交渉である。露領時代から、明確な境界画定がなされていなかった一部の地域について、日本側(統治機構及び外務省)と、英国側(カナダ総督府)との間で、実務的な交渉が行われ、最終的に、おおむね現在に至るまで維持されることになる境界線が確定している。
この境界確定は、決して大きな出来事として、当時の新聞などで広く報じられたわけではない。だが、本書の観点から見れば、これは北氷道という土地がもはや単なる「買収された土地」ではなく、国際法上明確な境界を持つひとつの確立した領土として国際社会の中に位置づけられたことを意味する重要な一歩であったと言える。
こうして、明治十年代の終わりまでに、北氷道は、対内的にも対外的にも、その存在を、揺るぎないものとして確立していくことになる。
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