第8話 行政機構の整備
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委任統治が始まって十年余りが経過した明治十年代後半、統治機構はそれまでの場当たり的な対応から、より体系的な行政機構の構築へと軸足を移していくことになる。
この変化の背景には、いくつかの要因があった。第一に、入植者の数が当初の想定を上回るペースで増加し、より組織的な統治の必要性が高まっていたこと。第二に、嶺林国における鉱物資源の発見により、統治機構が扱うべき経済規模そのものが急速に拡大していたこと。そして第三に、これは本書独自の見解となるが、榎本武揚自身がこの統治事業を、単なる暫定的な避難先の経営としてではなく、より恒久的な制度として確立させようという意志をこの時期明確に固めつつあったことである。
明治十二年、統治機構は、それまでの直轄的な運営体制を改め、南部・中部・北部の三地域(後の海湾国・嶺林国・極北国)それぞれに、地方行政を担う出先機関を設置している。これは、後に正式な「国」として行政区分が確立される際の、直接の母体となるものである。
各地域の出先機関には、それぞれ、ある程度の独立した権限が与えられた。徴税、土地の分配、簡易な司法手続きなどが、各地域単位で処理されるようになり、これにより、それまで南部の中心地に一極集中していた行政負担が、ある程度分散されることとなった。
この行政機構整備の過程で、特に重要な役割を果たしたのが、戸籍・土地台帳制度の確立である。明治十三年から十四年にかけて、統治機構は本州の制度を参考にしつつ現地の事情に即した形での戸籍・土地台帳の整備を進めている。
この制度整備は、本書にとっても重要な意味を持っている。すなわち、この時期に作成された戸籍・土地台帳が、後年、初代をはじめとする入植者たちの足跡を辿る上での、基礎的な史料となっているからである。本書がこれまで参照してきた、入植年や居住地に関する記録の多くは、この明治十三年から十四年にかけて整備された制度のもとで作成された、初期の戸籍・土地台帳に由来するものである。
また、この時期、司法制度の整備も進められた。明治十四年、統治機構は、簡易裁判を担う機関を、各地域に設置している。当初この司法機関は、入植者間の土地・財産をめぐる紛争処理を主な役割としていたが、徐々により広範な事案を扱うようになっていった。
行政機構の整備と並行して、統治機構は教育制度の拡充にも力を入れている。明治十年代を通じて、入植者の子弟を対象とした初等教育機関が、各地域に順次設置された。これらの教育機関は、第七話で触れた、先住民向けの学校とは別系統のものであり、本州の学制を参考にした、より体系的なカリキュラムが導入されている。
二代目、すなわち初代の長男にあたる人物も、この時期に整備された教育機関で、初等教育を受けたと考えられる。彼の生年(明治七年前後)から逆算すると、明治十四年から十五年頃、嶺林国に新設された小学校に通い始めた可能性が高い。これは、彼が後に鉱業という、ある程度の専門知識を要する分野へと進んでいく上での、基礎的な素地を形成した時期であったと言えるだろう。
この行政機構の整備は、同時に、統治機構と、本州の明治政府との関係を、より緊密なものへと変えていく契機ともなった。
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