第4話 嶺林の地
では、どうぞ
本州からの開拓団が向かった先のひとつが、後に嶺林国と呼ばれることになる、内陸部の地域であった。
この地域は南部の海湾国とは異なり、海に面していない。山々に囲まれた盆地状の地形が広がり、夏は比較的温暖であるものの冬の寒さは海岸部よりも一段と厳しい。当時の入植者たちにとってこの内陸への入植は海湾国での沿岸入植以上に過酷な条件を伴うものであった。
なぜ開拓団の一部があえてこの内陸の地を目指したのか。これについては、いくつかの理由が考えられている。
第一に、海湾国周辺の沿岸部はすでに統治機構の中心地として、また残留ロシア人たちの生活圏としてある程度の人口を抱えており、新たな大規模入植を受け入れる余地が限られていたという単純な土地事情がある。
第二に、当時の統治機構の調査によって、この内陸部に、農耕に適した土壌、また豊富な森林資源が存在することが、すでにある程度把握されていたという事情がある。「嶺林」という地名そのものが、後年、この山々(嶺)と森林(林)に由来して定められたものであり、この土地の地理的特徴を、そのまま反映したものとなっている。
初代を含む、最初期の入植者たちがこの地に到着したのは、明治五年の初夏であったと、嶺林国に残る最古の土地台帳の記録から推定される。
彼らを待っていたのは、文字通り、何もない土地であった。先住民の集落がいくつか点在していたほかは、人の手の入っていない原生林と、開墾されていない荒野が広がっていた。
最初の数年間の開拓の様子について、当時の入植者の一人が遺した断片的な記録が残されている。これは、初代と同じ集団に属していたと考えられる人物の手記であり、本書ではこの手記を初代自身の体験に近いものとして参照しながら記述を進めていきたい。
「到着せしは、すでに夏の盛りなれど、地はいまだ固く、木の根、深く張りて、鍬の入ること容易ならず。皆、慣れぬ農具を手に、日々、土と格闘するばかりなり」
士族出身の入植者たちの多くは、それまでの人生において、本格的な農作業の経験を持たなかった。武士という身分の喪失は、彼らから生計の手段だけでなく、それまで培ってきた技能の多くをも、無価値なものに変えてしまっていた。彼らは今、まったく新しい技能を、ゼロから身につけなければならなかったのである。
この困難を多少なりとも和らげたのが、第二話で触れた、残留ロシア人たちとの協力関係であった。記録によれば、ロシア統治時代から農業を営んでいた一部のロシア人が、嶺林国における初期の開拓に協力し、この土地の気候に適した作物の選定や、栽培の技術について、助言を行っていたことが確認されている。
最初の冬を越すことができるかどうかは、この時期の入植者たちにとって、文字通り生死を分ける問題であった。記録によれば、明治五年から六年にかけての最初の冬、嶺林国における入植者の中から、複数の死者が出ている。死因の多くは、栄養不足と、極寒の気候による衰弱であったと推定される。
この最初の冬を、初代がどのように過ごしたのか。直接の記録は残っていないが、彼が生き延び、後にこの地に根を下ろしたという事実そのものが、何よりの証言と言えるだろう。
明治六年以降、徐々に開墾が進み、嶺林国における集落は、少しずつその輪郭を整えていくことになる。最初の数年で開かれた農地は、主に大麦や蕎麦といった、寒冷な気候でも比較的育てやすい作物を中心としていた。これに加え、森林資源を活用した木材業も、この時期から徐々に発展していくこととなる。
そして、この地に根を下ろした入植者たちが、やがてもうひとつの、想像もしていなかった可能性に出会うことになる。それが、地中に眠っていた、鉱物資源の存在であった。
どうでしたか?
感想・評価して下さると作者のモチベーションが上がります!
誤字があれば教えてください
それでは、また~




