第3話 開拓団
では、どうぞ
明治四年、統治機構の基盤がある程度整ったことを受け、榎本らはいよいよ、本州からの本格的な移民受け入れに着手することとなった。
この移民募集は当初、東京の統治機構出先機関を通じて内々に進められた。対象として想定されたのは戊辰戦争によって禄を失った旧幕府方、とりわけ奥羽越列藩同盟に参加した諸藩の旧臣たちであった。
なぜ彼らが優先的な対象とされたのか。その理由はいくつか考えられる。第一に、彼らはすでに藩という所属を失い新政府のもとで新たな生活基盤を見出すことに、相応の困難を抱えていた。第二に、武士としての規律と、ある程度の教育水準を備えた彼らは、未開の土地における集団的な開拓事業の担い手として、適性があると見なされていた。
募集の告知文は、当時の様式に則った漢文調の文章で記されており、その一部が、後年発見された原本の写しから確認できる。
「北の新領土、いまだ開けざる沃野多し。志ある者、来たりて開拓に従事すべし。身分の如何を問わず、扶持米並びに当面の生活資材を給す」
この告知が、具体的にどの程度の規模で配布されたのか、正確な記録は残っていない。だが、当時の状況を考えれば、この募集が、行き場を失った旧幕府方の人々にとって、ひとつの希望として受け止められたであろうことは、想像に難くない。
冒頭で触れた、私自身の家系の初代にあたる人物も、この募集に応じた一人であった。
彼について、確実に分かっていることは、決して多くない。出身藩、そして戊辰戦争において、どの戦線で戦ったのかについては、後年の戸籍関係資料と、本家に伝わった断片的な口伝とを照らし合わせる限り、東北のある藩に属し、奥羽越列藩同盟の崩壊とともに、禄を失った下級武士であったと推定される。
彼がなぜこの募集に応じたのか。その直接的な動機を記した史料は残っていない。だが、当時同様の境遇にあった多くの武士たちが置かれていた状況を踏まえれば、ある程度の推測は可能である。
藩を失い、身分を失い、それまでの人生の基盤のすべてを失った者にとって、新政府の統治下に残ることは、必ずしも安住を意味しなかった。多くの旧藩士は、士族という新たな身分区分のもとに置かれはしたものの、実質的な生活基盤を欠いたまま、慣れない商業や農業への転身を余儀なくされていた。後年「士族の商法」として揶揄されることになる、この時期の旧武士階級の苦境は、よく知られている通りである。
そうした状況の中で、未開の北の地での開拓という選択肢は、ある種の人々にとって、むしろ積極的な意味を持つものとして映ったのではないか。そこには、すでに失われた旧来の身分秩序とは異なる、新たな出発の可能性があった。少なくとも、本書ではこの仮説を、初代の選択を理解するための、ひとつの手がかりとして提示しておきたい。
明治四年から五年にかけて、最初の本格的な開拓団が本州各地からこの地へと渡っていった。記録に残る限り、最初の数次の渡航で、合計しておよそ二千名前後の移民が、この地に入植したとされている。
彼らの渡航は、決して容易なものではなかった。当時の航路は、本州西岸、あるいは箱館を経由する、長く厳しい船旅であった。台風や悪天候による遭難の記録も、わずかながら残されている。さらに、ようやく現地に到着した後も、彼らを待っていたのは、すでに述べた通りの、厳しい気候と、未整備な生活基盤であった。
初代がどの渡航団に属していたか、正確な時期を特定することは、現存する史料からは難しい。ただ、後年、嶺林国の土地台帳に記録された入植年から逆算すると、おおむね明治五年前後、最初期の渡航団の一員であった可能性が高いと、私は推定している。
この移民の波は、その後も断続的に続いていくことになる。彼らがどのような土地に、どのような生活を築いていったのか。特に初代が根を下ろすことになる、中部嶺林国の開拓の様子について、より詳しく記したい。
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