第2話 露領からの引き継ぎ
では、どうぞ
委任統治の初期において、榎本らが直面した課題のひとつが、現地に残留していたロシア人住民、そして露米会社が有していた権益の扱いであった。
買収交渉の段階において、ロシア側は現地ロシア人入植者の財産権の保護と、一定期間の居住・営業の自由を、契約条件として強く求めていた。この条件は正式な契約書にも明記されており、新たな統治者となった日本側は、この約定を誠実に履行する義務を負っていた。
当時この地域に残留していたロシア人の数は複数の記録を突き合わせると、おおむね四百名から五百名程度であったと推定される。彼らの多くは、毛皮交易に従事していた商人、露米会社の元従業員、あるいは正教会の聖職者であった。
榎本は、この残留ロシア人たちとの関係構築を、統治初期における最重要課題のひとつと位置づけていた。これは、単に契約上の義務を果たすという以上の、実務的な理由によるものであった。すなわち、この厳しい気候と地理に不慣れな日本人入植者にとって、すでに数十年にわたってこの地で生活してきたロシア人たちの持つ知識と経験は、極めて貴重なものだったのである。
明治三年夏、榎本は残留ロシア人の代表者たちとの会談を持っている。この会談の記録は、当時の通訳を務めた人物の覚書として、断片的ながら現存している。
会談において、榎本は、現地ロシア人の財産権と信仰の自由を改めて保証する一方で、彼らの持つ農業・漁業・狩猟に関する知識を、新たな統治機構のもとで活用させてほしいと申し入れたとされる。これに対し、ロシア人代表者の一人——覚書には「ヴァシリー某」とのみ記される人物——は、次のように応じたと記録されている。
「我らはすでに、母国から見捨てられた身である。新たな統治者が、我らの生活を脅かさぬというのであれば、知り得る限りのことを、喜んで分かち合おう」
この発言が示すように、当時のロシア人残留者たちもまた、ある種の見捨てられた感覚を共有していた。本国ロシアにとって、この土地はすでに売却された、過去の領土に過ぎない。彼らの多くは本国に帰還する選択肢を持たないか、あるいはすでにこの地に深く根を下ろし、帰還を望まない者たちであった。
この共通の境遇が、日本側の入植者とロシア人残留者との間に、ある種の協力関係を築く土壌になったと、本書では考えている。もちろん、この関係が常に円滑であったわけではない。言語の壁、生活習慣の相違、そして何より、統治者と被統治者という非対称な関係性は、様々な軋轢の種を内包していた。だが、少なくとも初期の段階において、両者の間に、致命的な対立が生じた記録は見当たらない。
露米会社が有していた施設、交易ルート、そして何より、毛皮交易を通じて蓄積されてきた、現地の地理・資源に関する知識は、この後の統治機構の整備において、重要な基盤として活用されていくことになる。
特筆すべきは、正教会の扱いである。榎本は、現地に存在していた正教会の聖堂と、その活動を、引き続き認める方針を取った。これは、単なる宗教的寛容の表れというだけでなく、ロシア人住民、そして一部の改宗した先住民にとって、正教会が生活の中心としての機能を果たしていたことへの現実的な配慮であったと考えられる。
この方針は、後の明治政府による正式な編入後も、おおむね維持されることになる。北氷道に、現在もなお正教会の聖堂がいくつか残されているのは、この時期の決定に由来するものである。
もっとも、この「引き継ぎ」の過程が、すべての面において平和的であったわけではない。露米会社の旧資産をめぐっては、ロシア本国の債権者との間で、いくつかの法的な紛争が生じている。これらの紛争の多くは、明治四年から五年にかけて、外交ルートを通じた交渉によって、最終的に解決を見ているが、その詳細な経過については、本書の主題からはやや外れるため、ここでは深入りしない。
いずれにせよ、明治三年から四年にかけてのこの「引き継ぎ」の時期を経て、新たな統治機構は、ようやくその輪郭を整え始めることとなる。そして、この基盤の上に、いよいよ本州からの本格的な移民、すなわち開拓団の受け入れが始まっていく。
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