第1話 渡航
では、どうぞ
明治二年九月、委任統治の正式な決定を受け、榎本武揚以下、旧幕府方の主要人物たちは、ようやく赦免の身となった。
だが、彼らに与えられたのは、安穏な余生ではなかった。むしろ、それまでとは異なる種類の困難、すなわち何もないところからひとつの統治機構を築き上げるという、未知の事業が待ち受けていた。
最初の渡航団が箱館を出航したのは、明治二年十月のことであったと、当時の記録に残されている。榎本自身は事後処理や、新政府との連絡調整のためしばらく本州に留まることとなり、現地への先発隊を率いたのは、榎本の側近の一人である文官出身の人物であった。
この先発隊の規模は、決して大きなものではなかった。記録に残る限り、文官、技術者、そして護衛の役を兼ねた旧幕府方の兵士を合わせて、おおむね百五十名程度であったとされる。これに、すでに第一章で触れた戊辰戦争の最中から北方領土との往来に関わっていた少数の先遣者たちが合流することとなった。
彼らが目にした現地の様子は、後年残された複数の日記や書簡から、ある程度の輪郭を窺うことができる。
先発隊の一員であった、ある技術者の日記には、次のような記述がある。
「上陸せしに、見渡す限り、人の手の入りたる気配少なし。露領の頃の建物、幾棟か残れるも、いずれも朽ちかけ、住む者とてなし。ただ、寒風の音のみ、耳に残る」
この記述が示す通り、当時のこの地域は、ロシア統治時代の毛皮交易拠点としての機能こそ残っていたものの、本格的な開発の手はほとんど入っていない、未開の土地であった。露米会社の拠点であった集落は、すでに交易の縮小に伴い、大半の建物が放棄され、わずかに残留していたロシア人と、先住民の集落が点在するのみであった。
先発隊にとって、最初の数ヶ月は、まさに生存そのものとの戦いであった。冬の到来は早く、十一月にはすでに本格的な積雪が始まっていたと記録されている。食糧の確保、住居の整備、そして何よりも、極寒の気候への対応が、最優先の課題となった。
この時期の苦難について、先述の技術者の日記には、次のような一節も残されている。
「日々、雪と風との戦いなり。江戸にて聞きし北領の話、いかにも生易しきものと思いしが、実際にこの地に立ちてみれば、想像を遥かに超えたる厳しさあり。それでも、誰一人として、引き返さんと言う者なし。皆、すでに帰る場所を持たぬ身なればなり」
この最後の一文は、本書にとって、重要な示唆を含んでいる。先発隊を構成していた人々の多くは、戊辰戦争において、すでに自らの所属する藩、あるいは身分そのものを失っていた者たちであった。彼らにとって、この厳しい北の地は、選択肢のひとつではなく、ほとんど唯一残された行き先であったという事実である。
この感覚は、後に続くことになる、本格的な開拓団の人々の中にも、形を変えながら受け継がれていくことになる。
先発隊は、まず、露米会社の旧拠点であった集落を整備し、当面の統治の中心地として位置づけた。この地は、後に正式な行政区画が定められた際、南部、すなわち海湾国の中心地となる。不凍港としての価値を、すでにロシア統治時代から有していたこの地が、新たな統治の出発点として選ばれたのは、ある意味で必然であったと言える。
明治三年春、ようやく雪解けを迎えたこの地に、榎本武揚自身が、初めて足を踏み入れることとなった。
榎本がこの地に上陸した際の様子については、複数の証言が残されている。ある随行者の記録によれば、榎本は上陸後、しばらく無言のまま、周囲の景色を見渡していたという。そして、ようやく口を開き、次のように語ったと伝えられている。
「これより、我らの新たなる始まりである。江戸にて失いしものは、もはや取り戻せぬ。されど、この地において、何を築き、何を遺すかは、まだこれからのことである」
この言葉が、その後三十数年にわたって続くことになる、長い委任統治の時代の、最初の一歩となった。
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