第10話 五稜郭
では、どうぞ
明治二年四月、新政府軍は乙部に上陸し、蝦夷地における最終的な軍事行動を開始した。
新政府軍は青森に集結させていた約八千の兵力を複数の経路から蝦夷地へと送り込んだ。これに対し、榎本政権側の兵力は、当初の二千数百名から、現地での徴募などを経てもなお、新政府軍を大きく下回るものであった。
四月から五月にかけて、二股口、矢不来、木古内など、各地で激しい戦闘が繰り広げられた。これらの戦闘の詳細な経過については、すでに数多くの先行研究が存在しており、本書では繰り返さない。総じて言えば、榎本政権軍は、各地で善戦しながらも、兵力と装備の差を覆すには至らず、徐々に防衛線を後退させていくことになる。
五月十一日、新政府軍はついに箱館市街への総攻撃を開始した。この日の戦闘で、新選組副長として知られた土方歳三が、一本木関門付近において戦死している。
箱館市街が陥落した後、榎本政権の残存兵力は、五稜郭、および弁天台場の二箇所に立てこもり、最後の抵抗を続けることとなった。
ここで、本書が特に注目したいのは、この五稜郭における籠城戦の最中、榎本武揚を中心とする政権中枢において、改めて交わされたとされる、ある議論についてである。
この議論の存在は、後年榎本家に伝わった文書群の中から発見された当時の側近の一人による覚書によって、その一端を窺うことができる。覚書の記主は明らかではないが文体や内容から榎本に近い立場にあった文官であろうと推定されている。
覚書には、次のような記述がある。
「五月十三日夜、総裁殿、近侍の者数名を召され、評議あり。曰く、この城、遠からず陥落は必定なり。さりとて、すべてを失うにはあらず。かの北の地に遺したる者ども、書付ども、必ずや残さるべし、と」
この記述が示すのは、籠城戦の最終局面において、榎本がすでに五稜郭の陥落を見越し、それでもなお、北方の新領土に関する記録と、現地に既に派遣されていた人員(前話までに述べた、文官たちや、初期に渡航していた一部の関係者)については、何らかの形で存続させたいという意志を、明確に示していたという事実である。
この時点で、北方の新領土には、すでにごく少数ながら日本人の駐在者が存在していたと考えられる。これは、第九話で触れた、箱館・新領土間の船舶往来の記録とも符合する。
覚書はさらに、次のように続く。
「総裁殿また曰く、我ら、たとひこの地に屍を晒すとも、かの北の地に蒔きたる種子だけは、誰ぞの手によりて、育てられねばならぬ。これ、我らが最後の願いなり、と」
この一節について、後世の歴史家の間では、その史料的価値をめぐって議論が分かれている。覚書そのものの成立年代、また、これが実際に榎本本人の発言を正確に記録したものか、あるいは後年の脚色を含むものかについては、現時点でも確たる結論は出ていない。
しかし、本書では、この一節を、単なる伝承としてではなく、ある程度の歴史的真実を含むものとして扱いたいと考える。なぜなら、この後の経緯、すなわち、降伏後の榎本らの処遇、そして北方の新領土が辿ることになる「委任統治」という特異な道筋を踏まえると、この時期にすでに、こうした構想の萌芽が存在していたと考える方が、その後の展開との整合性が取れるからである。
五月十五日、弁天台場が降伏した。
五稜郭に籠城する榎本らの兵力は、もはや組織的な抵抗を続けることが不可能な状況に追い込まれていた。
そして五月十八日、榎本武揚は、ついに五稜郭の開城を決意する。
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