第9話 蝦夷地へ
では、どうぞ
明治元年(慶応四年九月、改元により明治元年となる)十月、榎本武揚率いる艦隊は、ついに蝦夷地箱館へと至った。
艦隊を構成していたのは、開陽丸を旗艦とする八隻の軍艦であり、これに乗り組んでいた将兵は、おおむね二千数百名と伝えられている。この中には、新選組副長として知られる土方歳三、また、フランス軍事顧問団の一部であったジュール・ブリュネをはじめとする数名のフランス人士官も含まれていた。これらの経過は、すでに広く知られているものであり、本書で改めて詳述する必要はないだろう。
箱館に上陸した榎本らは、当地を実効支配していた新政府の箱館府を攻略し、十月末までに五稜郭を中心とする蝦夷地の主要地域を制圧した。十二月には、蝦夷地における新政権の樹立を宣言し、いわゆる蝦夷共和国、あるいは蝦夷島政権と呼ばれる体制が、ここに成立することとなる。
この政権において、榎本は総裁に選出された。
ここで、本書の主題に関わる重要な事実について述べておかなければならない。すなわち、この蝦夷地における政権樹立と、すでに買収されていた北米の領土、後の北氷道との関係についてである。
榎本自身、そして彼に同行していたアラスカ買収交渉に関わった文官たちは、この蝦夷地での新政権樹立を単なる軍事的拠点の確保としてではなく、より広い構想の中に位置づけていたと考えられる。すなわち、蝦夷地と、その先にある北米の新領土とをひとつの連続した版図として捉え、本州における旧幕府方の劣勢をこの北方の広がりによって補おうとする発想である。
この壮大な北進策の構想を直接的に裏付ける一次史料は、現時点では発見されていない。だが、状況証拠はいくつか存在する。
第一に、蝦夷共和国の成立後、榎本政権は箱館港を拠点として、北米の新領土との間で、限定的ながら船舶の往来を開始していたことが、当時箱館に滞在していた外国人商人の記録から確認されている。アメリカ人商人の一人は、本国への書簡の中で、次のように記している。
「箱館の新政権は、北の新領土との連絡を、すでに開始している様子である。これがいかなる目的によるものか、当地の外国人の間でも、様々な憶測が飛び交っている」
第二に、後年発見された榎本家伝来の文書の中に、この時期に作成されたと見られる、北米領土の暫定統治に関する覚書の断片が含まれている。この覚書には、現地における行政組織の基本方針、また、本州からの移民受け入れの可能性についての言及があり、すでにこの段階で、榎本らが北米領土の本格的な統治体制構築を視野に入れていたことを示している。
しかし、この構想が、この時点で具体的に実行に移されることはなかった。理由は単純である。蝦夷地そのものの防衛が、新政府軍の追撃によって、にわかに切迫した課題となったためである。
明治二年三月、新政府軍は艦隊を率いて宮古湾に侵攻し、いわゆる宮古湾海戦が発生する。この海戦における旧幕府方の敗北を皮切りに、新政府軍は四月、蝦夷地への本格的な上陸作戦を開始した。
この時期、榎本政権内部では、戦況の悪化に伴い、ある重要な議論が交わされていたことが、複数の関係者の手記から確認されている。それは、もし蝦夷地での抗戦が困難になった場合、政権中枢、あるいは少なくともその記録と人材の一部を、北米の領土へと移すべきではないか、という議論である。
この議論を最も強く主張していたのが、土方歳三であったとする説と、文官の一人であったとする説とがあり、現時点では定説を見ていない。いずれにせよ、この議論は、最終的に実行に移されることはなかった。新政府軍の進撃は、議論が結論を見出すよりも早く、榎本政権の防衛線を突き崩していったのである。
五月、新政府軍は箱館に迫り、戦いの舞台は、ついに五稜郭へと収斂していくことになる。
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