第9話 打ち明ける
泣き疲れて眠ったのは明け方近かったと思う。目が覚めても、昨夜の感想は薄まっていなかった。
止めることは選べます。
でも、消えたものは戻せないかもしれない。
脅された、と言い切れたらまだ楽だった。あの一文には誰かを傷つけようとする熱がない。もう知っている事実を静かに置いたみたいな冷たさだけがあった。
学校へ向かう途中、スマートフォンを開いた。通知は増えていない。
昨夜、何かを決めたはずだった。もう一人では抱えきれない。でも誰に、どこまで話せるのか。
休み時間、橋田が廊下から顔をのぞかせた。
「尾崎。今日の図書当番手伝ってくれる?」
いつもなら軽く断るか理由を聞く。けれど今日は、橋田の顔を見た瞬間に昨夜の結論が浮かんだ。
「……うん。いいよ」
橋田のほうが驚いた顔をした。
* * *
昼休みの図書室は静かだった。橋田がカウンターで本のバーコードを読み、最後の一冊を棚車に戻す。
「ありがと。助かった」
「別に」
栞は窓際の机に座った。ノートを出すふりをする。一文字も書けない。
橋田が向かいに腰を下ろした。少し距離を残して座る。
「昨日、更新した?」
声は軽かったが、目だけすこし真剣だった。
「……してない」
「そっか」
喉の奥が痛んだ。
「なんで知ってるの」
「お前、更新した日の翌朝って少しだけ表情が違うから」
否定しかけて、やめた。できる自信がない。
「尾崎」
いつもより低い声。
「ここ数日、ずっと変だろ」
栞は目を伏せた。言ってしまえば壊れる。黙っていても崩れていく。
「……信じなくていいから」
前置きした時点でもう半分は話していた。
橋田はすぐに返事をしなかった。急かすでもなく促すでもなく、静かに待っていた。
「変な感想が来るの」
自分の声が思ったより平坦で驚いた。
そこから先は、順序がばらばらのまま出た。最初は普通の感想だったこと。「傘みたいに」を境に変わったこと。下書きにしか書いていないはずの場面に触れられたこと。書いた翌日に似た形で出来事が起きたこと。同じ名前のまま、途中で文体が入れ替わったように見えること。削除した問いに返信が来たこと。
並べてみると、自分でもどれが一番怖いのか分からなかった。話す順に驚いたり恐れたりしている自分がいて、それを橋田が黙って聞いている。
話し終わるのに、そう時間はかからなかった。
「……全部は分かんない」
橋田が言った。
栞は肩を固くする。やっぱりそうだ。信じなくていいと言ったのは自分なのに、線を引かれるのは痛い。
「でも」
顔を上げると、橋田はまっ直ぐこちらを見ていた。
「お前が本気で困ってるのは分かる」
予想していたどんな慰めより、その一言が深く届いた。
「尾崎がここまで口に出すの、相当だろ」
返事をしようとしてできなかった。喉の奥に柔らかいものが詰まる。
「見せられる範囲でいい。感想、最初から一緒に見てもいい?」
迷った。感想欄を見せるのは裸になるようなものだ。けれどここで引いたら、また一人に戻る。
「……放課後なら」
* * *
放課後、図書室の隅に残った。橋田が鍵を返しに行く間、スマートフォンの画面を何度も開いては閉じた。
戻ってきた橋田は缶のカフェオレを二本持っていた。
「自販機まだ動いてた」
一本を受け取り、自分で操作しながら横から見せる形にした。
最初の感想から順に追う。
「このへんは普通だよね」というと、橋田はうなずいた。
「ちゃんと作品の感想って感じ」
「でも途中から」
問題の一文までスクロールする。
傘みたいに。
橋田の表情が変わった。
「これだけ?」
「これだけ。この時点で傘の話はまだ出してなかった。下書きにだけあった」
橋田は考え込んだ。すぐに結論を出さないところがありがたかった。
二人で文体の違いを見比べた。主語、距離の取り方、語尾の柔らかさ。
橋田は専門家ではないのに、「こっちはちゃんと読んでから話してる。こっちは見ながら話してる感じ」と言った。
「見ながら」
「うん。文の向こうからじゃなくて、もっと近い場所から」
まさに栞が感じていたことだった。自分の中だけにあった輪郭を別の口から言われると、それだけで現実味が増す。
「あとさ」
橋田が感想欄から目を離した。
「これ、未来を当ててるっていうより、起こることの形だけ先に触ってる感じしない? 傘が壊れるとか具体的な出来事じゃなくて、外から何かが崩れるとか、そういう輪郭」
「……私、拾ってるのかな。書いてるんじゃなくて」
橋田はすぐに答えなかった。軽く否定されるほうが楽だったのに。
「拾ってる、か。もしくは、ほどける前の形を先に見てるとか」
胸に静かに刺さった。ほどける前の形。それなら書くことで現実を作っていたのではなく、消える前の輪郭を留めていたことになる。
「じゃあ、やっぱり書いたほうがいいのかな」
橋田はカフェオレを一口飲んでから、少し困ったように笑った。
「そこは俺が決めることじゃないだろ」
「……そうだけど」
「でも止めて楽になってる顔じゃないし」
「書くと怖い」
「うん」
「止めても怖い」
「うん」
「じゃあどうすればいいの」
ようやく漏れた本音に、橋田はすこし黙った。それから言った。
「一人で決めないことじゃない?」
正しい答えではなかった。隣に椅子をもう一脚置くみたいな言い方だった。
それから橋田は少しだけ視線を落とした。
「……俺も、なんていうか」
言葉を探すように間が空いた。
「……聞くくらいしか、できないけど」
栞は顔を上げた。橋田がそんなふうに口ごもるのは初めてだった。
その不器用な言い方が、栞には逆にありがたかった。完璧に理解してくれる人より、分からないまま隣にいようとする人のほうが、今は信じられる気がした。
何も返せなかった。ただ、缶を両手で包み直した。まだすこし温かかった。
* * *
家に帰っても、放課後の会話は身体の中に残っていた。救われたというほど軽くはない。けれど一人で抱えていた塊に別の手が触れた。その事実だけで、部屋の静けさの質がすこし変わる。
ノートパソコンを開く。白い画面。感想欄をもう一度開き、下書き欄に移る。投稿停止のまま止まっていた最新話の下にカーソルを置いた。
もう一度、自分で確かめたい。
数分後、短い地の文が落ちた。主人公が失くしたものを探すのではなく、かすかな痕跡を数えながら前に進む場面。何度も書いてきたのに、今夜は初めて意味を知ったような一文だった。
スマートフォンが震えた。今日まだ投稿はしていない。なのに通知がある。
星屑の観測者。
今度の感想はこれまでで一番長かった。
『読まれることと、見つけられることは少し違います。
あなたはずっと、前者だけを怖がってきました。
けれど本当に恐れていたのは、書いたはずのものが、誰にも触れられないまま薄くなることだったのでしょう。
あなたの手のひらで温まりかけているものは、まだ形を持たない何かです。
だから、全部を言い切る必要はありません。
この物語を、どうか置いたままにしないでください。
ただし、失われたものを完全に取り戻す結末にはしないでください。
戻らなかったものの痕跡が、まだここにあると分かる程度でいい。
あなたは結局、重い方を書かずに済みました。それでよかったのだと思います。
それで、十分です。
今夜は、ひとりではありませんでしたね』
栞はスマートフォンを強く握った。放課後の図書室。缶の温かさ。橋田の声。
見られている。でもそれだけではない。向こう側は、栞が誰かに打ち明けたことまで知っていた。
恐ろしい。同時にほんのすこし救いにも感じてしまう自分がいる。
全部は分からない。誰が読んでいるのかも、なぜ自分なのかも。
それでも今は、書くしかない気がした。取り戻すのではなく、残っていたと知るために。
栞は深く息を吸い、次の一文を打ち始めた。
その夜、主人公はようやく、自分の物語を誰かに話した。




