表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/10

第9話 打ち明ける

泣き疲れて眠ったのは明け方近かったと思う。目が覚めても、昨夜の感想は薄まっていなかった。


止めることは選べます。


でも、消えたものは戻せないかもしれない。


脅された、と言い切れたらまだ楽だった。あの一文には誰かを傷つけようとする熱がない。もう知っている事実を静かに置いたみたいな冷たさだけがあった。


学校へ向かう途中、スマートフォンを開いた。通知は増えていない。


昨夜、何かを決めたはずだった。もう一人では抱えきれない。でも誰に、どこまで話せるのか。


休み時間、橋田が廊下から顔をのぞかせた。


「尾崎。今日の図書当番手伝ってくれる?」


いつもなら軽く断るか理由を聞く。けれど今日は、橋田の顔を見た瞬間に昨夜の結論が浮かんだ。


「……うん。いいよ」


橋田のほうが驚いた顔をした。


* * *


昼休みの図書室は静かだった。橋田がカウンターで本のバーコードを読み、最後の一冊を棚車に戻す。


「ありがと。助かった」


「別に」


栞は窓際の机に座った。ノートを出すふりをする。一文字も書けない。


橋田が向かいに腰を下ろした。少し距離を残して座る。


「昨日、更新した?」


声は軽かったが、目だけすこし真剣だった。


「……してない」


「そっか」


のどの奥が痛んだ。


「なんで知ってるの」


「お前、更新した日の翌朝って少しだけ表情が違うから」


否定しかけて、やめた。できる自信がない。


「尾崎」


いつもより低い声。


「ここ数日、ずっと変だろ」


栞は目を伏せた。言ってしまえば壊れる。黙っていても崩れていく。


「……信じなくていいから」


前置きした時点でもう半分は話していた。


橋田はすぐに返事をしなかった。急かすでもなくうながすでもなく、静かに待っていた。


「変な感想が来るの」


自分の声が思ったより平坦で驚いた。


そこから先は、順序がばらばらのまま出た。最初は普通の感想だったこと。「傘みたいに」を境に変わったこと。下書きにしか書いていないはずの場面に触れられたこと。書いた翌日に似た形で出来事が起きたこと。同じ名前のまま、途中で文体が入れ替わったように見えること。削除した問いに返信が来たこと。


並べてみると、自分でもどれが一番怖いのか分からなかった。話す順に驚いたり恐れたりしている自分がいて、それを橋田が黙って聞いている。


話し終わるのに、そう時間はかからなかった。


「……全部は分かんない」


橋田が言った。


栞は肩を固くする。やっぱりそうだ。信じなくていいと言ったのは自分なのに、線を引かれるのは痛い。


「でも」


顔を上げると、橋田はまっ直ぐこちらを見ていた。


「お前が本気で困ってるのは分かる」


予想していたどんな慰めより、その一言が深く届いた。


「尾崎がここまで口に出すの、相当だろ」


返事をしようとしてできなかった。喉の奥に柔らかいものが詰まる。


「見せられる範囲でいい。感想、最初から一緒に見てもいい?」


迷った。感想欄を見せるのは裸になるようなものだ。けれどここで引いたら、また一人に戻る。


「……放課後なら」


* * *


放課後、図書室の隅に残った。橋田が鍵を返しに行く間、スマートフォンの画面を何度も開いては閉じた。


戻ってきた橋田は缶のカフェオレを二本持っていた。


「自販機まだ動いてた」


一本を受け取り、自分で操作しながら横から見せる形にした。


最初の感想から順に追う。


「このへんは普通だよね」というと、橋田はうなずいた。


「ちゃんと作品の感想って感じ」


「でも途中から」


問題の一文までスクロールする。


傘みたいに。


橋田の表情が変わった。


「これだけ?」


「これだけ。この時点で傘の話はまだ出してなかった。下書きにだけあった」


橋田は考え込んだ。すぐに結論を出さないところがありがたかった。


二人で文体の違いを見比べた。主語、距離の取り方、語尾の柔らかさ。

橋田は専門家ではないのに、「こっちはちゃんと読んでから話してる。こっちは見ながら話してる感じ」と言った。


「見ながら」


「うん。文の向こうからじゃなくて、もっと近い場所から」


まさに栞が感じていたことだった。自分の中だけにあった輪郭を別の口から言われると、それだけで現実味が増す。


「あとさ」


橋田が感想欄から目を離した。


「これ、未来を当ててるっていうより、起こることの形だけ先に触ってる感じしない? 傘が壊れるとか具体的な出来事じゃなくて、外から何かが崩れるとか、そういう輪郭」


「……私、拾ってるのかな。書いてるんじゃなくて」


橋田はすぐに答えなかった。軽く否定されるほうが楽だったのに。


「拾ってる、か。もしくは、ほどける前の形を先に見てるとか」


胸に静かに刺さった。ほどける前の形。それなら書くことで現実を作っていたのではなく、消える前の輪郭を留めていたことになる。


「じゃあ、やっぱり書いたほうがいいのかな」


橋田はカフェオレを一口飲んでから、少し困ったように笑った。


「そこは俺が決めることじゃないだろ」


「……そうだけど」


「でも止めて楽になってる顔じゃないし」


「書くと怖い」


「うん」


「止めても怖い」


「うん」


「じゃあどうすればいいの」


ようやく漏れた本音に、橋田はすこし黙った。それから言った。


「一人で決めないことじゃない?」


正しい答えではなかった。隣に椅子をもう一脚置くみたいな言い方だった。


それから橋田は少しだけ視線を落とした。


「……俺も、なんていうか」


言葉を探すように間が空いた。


「……聞くくらいしか、できないけど」


栞は顔を上げた。橋田がそんなふうに口ごもるのは初めてだった。


その不器用な言い方が、栞には逆にありがたかった。完璧に理解してくれる人より、分からないまま隣にいようとする人のほうが、今は信じられる気がした。


何も返せなかった。ただ、缶を両手で包み直した。まだすこし温かかった。


* * *


家に帰っても、放課後の会話は身体の中に残っていた。救われたというほど軽くはない。けれど一人で抱えていた塊に別の手が触れた。その事実だけで、部屋の静けさの質がすこし変わる。


ノートパソコンを開く。白い画面。感想欄をもう一度開き、下書き欄に移る。投稿停止のまま止まっていた最新話の下にカーソルを置いた。


もう一度、自分で確かめたい。


数分後、短い地の文が落ちた。主人公が失くしたものを探すのではなく、かすかな痕跡を数えながら前に進む場面。何度も書いてきたのに、今夜は初めて意味を知ったような一文だった。


スマートフォンが震えた。今日まだ投稿はしていない。なのに通知がある。


星屑の観測者。


今度の感想はこれまでで一番長かった。


『読まれることと、見つけられることは少し違います。


あなたはずっと、前者だけを怖がってきました。


けれど本当に恐れていたのは、書いたはずのものが、誰にも触れられないまま薄くなることだったのでしょう。


あなたの手のひらで温まりかけているものは、まだ形を持たない何かです。


だから、全部を言い切る必要はありません。


この物語を、どうか置いたままにしないでください。


ただし、失われたものを完全に取り戻す結末にはしないでください。


戻らなかったものの痕跡が、まだここにあると分かる程度でいい。


あなたは結局、重い方を書かずに済みました。それでよかったのだと思います。


それで、十分です。


今夜は、ひとりではありませんでしたね』


栞はスマートフォンを強く握った。放課後の図書室。缶の温かさ。橋田の声。


見られている。でもそれだけではない。向こう側は、栞が誰かに打ち明けたことまで知っていた。


恐ろしい。同時にほんのすこし救いにも感じてしまう自分がいる。


全部は分からない。誰が読んでいるのかも、なぜ自分なのかも。


それでも今は、書くしかない気がした。取り戻すのではなく、残っていたと知るために。


栞は深く息を吸い、次の一文を打ち始めた。


その夜、主人公はようやく、自分の物語を誰かに話した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ