第8話 薄くなる
翌朝、目覚ましで起きた瞬間、胸へ来たのは安堵だった。
昨夜は更新しなかった。
新しい感想も来ていないはずだ。何も進めていないから、何も起きていないはず――。
枕元のスマートフォンを開く。通知欄は静かだった。
静かすぎて、逆に息が詰まる。
普段だって毎朝感想が届くわけではない。それなのに何もない画面を前にして、栞は初めて、自分がどれほどあの通知を待っていたのかを知った。
投稿して、確認する。誰も来ないかもしれないし、あの名前が静かにあるかもしれない。その曖昧な待ち時間まで含めて、もう日課になっていた。
洗面台で顔を洗う。眼鏡をかける前の自分は相変わらず曖昧にぼやけている。今日はその曖昧さがわずかにありがたかった。
でも眼鏡をかければ輪郭はすぐ戻る。
戻るのだが、昨日までとは様子が違った。今朝の景色はどこか一枚足りない気がする。食卓の味噌汁、母が畳んだ洗濯物、テレビのニュース。ちゃんとそこにあるのに、透明な膜を一枚隔てて見ているみたいに遠い。
通学路は湿った空気のままだった。街路樹の葉が光を鈍く跳ね返す。いつもの道なのに、今朝は一歩ごとに足音が足りない気がした。
昇降口で靴を履き替えているとき、隣の段に白石織が居た。
いつもなら会釈だけで通り過ぎる距離だ。けれど今朝は、白石のほうが先に口を開いた。
「昨日、なかったね」
低い、確認みたいな声だった。
栞は反射で視線を逸らした。
小さく息を吸う。何気ない一言のはずなのに、胸の奥でひとつ、冷たいピンが立った音がする。
「……今日は、まだ分からない」
自分でも曖昧な答えだと思った。
白石はそれ以上追わなかった。肩のストラップを直し、先に歩き出す。
「分からないのが正解のときもあるよ」
去り際にそう言い残していった。
栞はしばらく動けなかった。書かないという選択は、一人で閉じたつもりだった。でも誰かは見ていたし、誰かは数えてもいた。その事実が、昨夜の安堵を裏側から押し返してくる。
一時間目の現代文で、栞は数十秒だけ完全に意識を落としかけた。眠ったのではない。先生の声を聞いていたはずの時間が、綺麗に抜け落ちている。気づいたときにはページをめくる音だけが耳に残り、自分がどこを読んでいたか分からなくなっていた。
ノートを見返す。板書は一応写してあった。けれど途中の一行だけ、文章が不自然に途切れていた。
――雨の日の記憶は、骨だけ残る。
自分の字で書かれている。現代文の授業とは関係がない。しかもそこでペン先が止まっていた。
こんなこと、書いただろうか。
思い出そうとすると、前後だけが霧みたいに薄い。修正テープで消すこともできないまま、ノートを閉じた。
昼休み、図書室で橋田が片手を上げた。
「今日、顔やばい」
いつもの軽さだった。
「平気」
「その平気、信用してないからな」
笑い混じりの声に救われる気持ちと、触れてほしくない気持ちが同時にわく。
本棚の前に立ったとき、背後から橋田の声がした。
「そういえば昨日さ」
「ん?」
「お前、『書かない方が薄くなる気がする』って言ってたけど、あれ何の話?」
本を取り損ねた。
「……言ってない」
「え。図書室で聞いたと思ったんだけど」
「聞き間違い」
「かも。悪い」
橋田はあっさり引いた。けれど去り際にぽつりと言った。
「お前さ、思ってる以上に顔に出てるよ。自分じゃ隠してるつもりだろうけど」
その自然さがかえって怖い。
その言葉は、昨夜ベッドの中で考えたことに近かった。声に出してはいない。下書きにも打っていない。
帰宅して、制服のまま床に座り込んだ。
鞄からノートを出し、膝の上で開いた。白い余白にペン先を乗せる。
――止めれば戻ると思った。
そこで手が止まった。戻る。何が。どこへ。
夕食の席で交わした会話は、あとから思い返すと半分くらい輪郭がなかった。味噌汁がぬるかったこと、母がごみ出しの話をしたこと。断片だけ残って、自分が何を返したかだけが抜けている。
部屋に戻り、ノートを開いた。書きかけの一行のあとに、薄いインクの擦れが続いていた。自分では書いた覚えのない、消えかけの文字。
――でも、薄くなったのは
そこで途切れている。
自分で書いたのかもしれない。無意識にペンが動いたのかもしれない。でも思い出せない穴がすこしずつ増えていくことそのものが、何より怖かった。
それに、字のクセが少しだけ違う気がした。自分の癖を知っているのは自分だ。だから違うと言い切れる。けれど、だからこそ、似ている、とも言える。完全な他人の字なら、ここまで揺れない。
書かなければ何も起きないと思っていた。向こうから覗かれることもなくなると思った。
なのに実際には、止めてからのほうが景色も記憶も頼りなくなっている。
そのことを認めた瞬間、胸の奥で何かが音もなく崩れた。
* * *
夜十時。栞はとうとうパソコンを開いた。
投稿するためではない。自分の作品ページと下書きと感想欄が、ちゃんと存在しているか確かめるために。
サイトはいつも通りだった。タイトルも話数も変わっていない。
なのに画面の向こう側だけがひどく遠い。自分の文章なのに、手を離れて冷えた場所に置かれているようだった。
頬が熱くなった。気づいたとき、視界がにじんでいた。
毎日続けていたものを、自分で止めた。読まれなくても、誰も来なくても、更新することで繋いでいた細い線を自分の手で切った。途端に一日そのものが切れやすくなった気がする。
書くことは、誰かに見つけてもらうための習慣ではなかった。自分の見たものや感じたことを、なかったことにしないための留め具だったのかもしれない。
涙が止まらなくなった。
画面がにじむ。眼鏡を外しても拭いてかけ直しても、白さばかりが広がる。
そのとき、右上に新しい通知が現れた。
感想が一件。
見たくない。でも見なければもっと怖い。
星屑の観測者。
『止めることは選べます』
一行空いて。
『でも、消えたものは戻せないかもしれない』
栞は声を殺して泣いた。
脅しなのか警告なのか、ただの事実なのか分からない。でもその一文は今日一日、自分に起きていたことにぴたりと重なる。
止めたのは自分だ。なのに薄くなっていくのは自分のほうだった。
一人で抱えたままでは、もう駄目かもしれない。
その思いだけが、泣き疲れた胸の底に残った。




