第7話 書かない夜
夜の十時半だった。
いつもなら推敲に入っている時間だ。投稿画面を開き、改行の位置を直したり、最後の一文だけ何度も触ったりしている時間。
今夜は机の前に座っていない。
ベッドの端で、スマートフォンを握ったまま時計ばかり見ていた。
やっと、違いに気づいたのですね。
前のひとは、もう少し遠くから読んでいました。
昨夜の感想が、まだ瞼の裏に貼りついている。削除したはずの問いに返事が来た。
あれは、もう普通の読者ではない。
作品の外にいる誰かですらなく、もっと別の位置から、栞の書くことそのものを見ている何か。
画面をつければまた書きたくなる。書けば、また感想が来る。来れば、さらに現実がこちらに寄ってくるかもしれない。
だったら、書かなければいい。
その結論は怖いほど簡単に出た。
簡単に出たことが、怖かった。
書くことはずっと当たり前だった。小学校の頃からノートに何かを書き続けていて、中学からはスマートフォンのメモアプリに移り、高校になってから初めてカクヨムに投稿した。書く、という行為がなかった一日を、栞はほとんど思い出せない。
それを、止める。
言葉にすると単純だ。
ただしない、だけのことだ。
書かない、投稿しない、画面を開かない。
それだけ。
なのに、胸のどこかが「そんなことができるのか」とまだ信じていなかった。
ノートパソコンは机の上で閉じたままだ。電源すら入れていない。黒い天板が、部屋の蛍光灯の光を鈍く返している。
カクヨムのプロフィールページをスマートフォンで開く。最終更新日は昨日のまま。毎日続けていた連載日数など、どこにも表示されない。それでも栞の中では、今日を越えたら一本切れる線があった。
更新を続けていた間、それがどれだけ自分を支えていたか、止めようとして初めて分かる。毎日何かを書いて、整えて、投稿ボタンを押す。その一連の動作が夜の輪郭を作っていた。終わりの時間を決めて、眠りに落ちる前の儀式のように。それがなければ今夜は何で終わればいいのか、まだ分からない。
十一時を過ぎた。
栞はようやくベッドの端から動き、机の椅子に座り直した。
ノートパソコンは閉じたまま。触れれば開いてしまう気がして、両手は膝の上で組んだままにしておく。
代わりにスマートフォンを開いた。投稿画面には今日まだ何も載せていない。下書きは一話分溜まっている。昨日整えたばかりで、公開設定に切り替えるだけで投稿できる状態だ。
指が勝手に公開ボタンへ向かおうとして、止まる。
止めて、また向かって、また止まる。
「公開に進む」の文字を見つめていると、なぜかその文字の輪郭がすこしずつぼやけてくる気がした。眼鏡を外してはいない。なのに見えにくい。自分の視界の問題ではなく、画面の側が揺れているみたいだ。
一度、試しに投稿画面を閉じた。閉じた瞬間、指先がわずかに軽くなる。
もう一度開く。公開に進むボタンが同じ場所にある。
二、三回繰り返した。閉じて、開いて、閉じて、開いて、閉じる。
その間、栞は自分が何をしているのか半分分かっていなかった。
何かを書くわけでも消すわけでもない。ただ、同じ画面を開いたり閉じたりしているだけだ。数年前の受験勉強で、苦手な科目の参考書だけ何度も鞄に入れて取り出していた夜があった。あのときと同じだ。向き合うべきものから逃げるのに、完全に手を離すこともできない。
十一時半を過ぎた。
指が勝手に公開に進むボタンへ向かおうとする。タイトルだけでも、白紙でもいい、何か上げてしまえば間に合う。
でも投稿した先に、あの感想が来ると想像すると、呼吸が薄くなった。
投稿すれば覗かれる。投稿しなければ覗かれない。
そう思いたかった。
零時をまたぐ。日付が変わる。
それだけだった。部屋の空気が変わるわけでも音がするわけでもない。スマートフォンの時刻表示が一日先へ進んで、栞はそれを見つめたまま、ひどく遅れて息を吐いた。
更新しなかった。自分で止めた。
その事実が、静かな痛みとして胸に沈んでいく。
同時に、かすかな安堵もあった。今夜は何も書かなかった。何も送らなかった。感想欄には何も届かない。そう思うと、胸の奥で張り詰めていた何かが、糸一本分だけ緩んだ。
でも糸一本分だけだ。それ以上は緩まなかった。
スマートフォンの画面を消した。部屋が少し暗くなる。窓の外に街灯の光がある。遠くで車の音がして、また静かになった。
廊下で物音がした。
ドアの隙間から光が差している。栞はそのまま動かずにいた。足音が近づいて、台所の方へ向かっていく。蛇口の音。冷蔵庫の開く音。
しばらくして、足音がドアの前で止まった。
ノックではなかった。ただ、止まった。
「眠れないの」
母の声は低く、小さかった。問いかけというより、確認に近い声だった。
「うん、ちょっと」
栞も小さく返した。それだけだった。
足音が遠ざかる。また台所へ戻る音。カップの触れる音がして、それからドアの前にまた止まる気配があった。
ドアが少し開いて、温かいマグカップが床に置かれた。
「おやすみ」
それだけ言って、母は寝室へ戻っていった。
栞はマグカップを拾い上げた。ほうじ茶の匂いがした。両手で包むと、じわりと温かかった。
何も聞かれなかった。何も話さなかった。それなのに、胸の奥のどこかが、さっきより少しだけ緩んでいた。
ベッドに入っても眠れず、何度も寝返りを打った。書きかけの次話の断片が浮かぶたびに、その続きを先回りされる想像がまとわりつく。
書かなければ何も起きない。
そう信じて、ようやく目を閉じた。




