第6話 文体のずれ
その夜、栞は一文字も投稿できなかった。
画面の前に座り、下書き欄を開き、カーソルが白い余白で点滅するのを見ていた。いつもならその小さな明滅に急かされるように一文目が出てくる。けれど今日は、白石との会話と夜の感想が重なって喉のあたりで引っかかっていた。
今日、あなたは自分に似た影を見たのだと思います。
書くのが好きだから書く人と、書かないと消えてしまう人は、似ているようで全く違います。
白石が言葉にしなかった輪郭を、感想欄が書き留めていた。
栞は画面を閉じかけて、やめた。代わりに自分の作品ページを開く。最新話ではなく第一話まで遡り、感想を古い順に並べた。
最初の頃は数えるほどしかない。「雰囲気が好きです」「続き気になります」という短いものばかりで、栞は丁寧に返信していた。
その中に、最初の『星屑の観測者』がある。
主人公が探しているのは、なくしたものではなく、最初から「なかったこと」にされそうなものなんですね。
初めて読んだ夜と同じところで指が止まった。けれど今日は別のことが目に付いた。そこではずっと「主人公」「話」「描写」と、人ではなく作品を向いた言葉が選ばれている。「場面」「言葉」という距離の取り方も、後の感想によく出てくる。
次の感想も、その次も同じだった。
けれどある一文を境に、手触りが変わる。
傘みたいに。
それより前の感想は、作品を遠くから見渡していた。「主人公」「場面」「たぶん」「かもしれない」。どれも距離のある言葉だ。
それより後の感想は、栞自身を見ている。「あなた」「今日」「まだ」「見えている」。距離が消えている。読んだのではなく、その場にいた人のように書かれていた。
投稿時間にも差があった。前の感想は更新から数時間後か翌朝に届くことが多い。最近の感想は更新直後に来る。読んだのではなく、その場にいたかのように。
同じ名前のまま、途中で誰かが入れ替わっている。
その考えが形になった瞬間、背中の奥がぞわりとした。アカウントの乗っ取りとかではなく、もっと説明のつかない交代。ひとつの窓の向こうに立つ影だけが、いつの間にか差し替わっている感覚。
自分の中で、ぼんやりと整理してみた。書けば現実がそちらに寄ってくる。書かなければ自分の方が薄くなる。そして、まだ書いていないものまで先に拾われる。三つとも同じ根から出ているのか、別の現象が重なっているだけなのか、分からない。分からないが、どれも「書く」という行為を軸にしている。
ノートを閉じた。深夜だった。冷蔵庫の低い音だけが廊下から聞こえる。
翌朝、昨夜の見立てを反芻して自分で気味が悪くなる。頭の中でつけた区別が、一晩明けても元には戻らなかった。
昼休み、図書室でノートを開いていると向かいから影が落ちた。
「今日も推理してる顔」
橋田だった。
「してない」
「してるやつほどそう言う」
笑いながらストローを刺し、栞の手元をちらりと見た。スマートフォンの画面に感想欄が開いているのが目に入ったらしい。
「なにそれ。感想、読み返してる?」
「……なんで分かるの」
「それっぽかっただけ。図書室でその顔してるとき、大体文章のこと考えてるし」
反論できない。橋田はすこし声を落とした。
「でも分かる。読み返すと同じ人なのに別人みたいなときあるよな」
栞は顔を上げた。
「……あるの」
「あるある。昨日の自分が書いたやつなのに、なんでこんな他人みたいなんだろって」
「そういう意味じゃなくて」
「あ、違った?」
橋田は悪びれずに笑い、すこし声を落とした。
「でも相手の文もそういうことあるだろ。読むタイミングで、同じ言葉でも違う人みたいに見えるとか」
曖昧な言葉だった。なのに自分が恐れているものの輪郭にすこし似ていて、余計に息が詰まった。
返却カウンターで電子音が鳴った。白石が当番の腕章をつけて近くの棚の前に立っている。こちらを見ているわけではない。けれど栞が目を向けた瞬間、白石はふと手を止めて言った。
「感想って、急に近くなりすぎると怖いよね」
返事を失った。
白石は手元の本を揃えたまま、こちらを見ずに続けた。
「作品を読んでるのか、書いてる人の呼吸を読んでるのか、分かんなくなる時あるから」
それだけ言って作業に戻った。
橋田が小さく「何それ」と呟いたが、栞は笑えなかった。一日のうちに三方向から同じ輪郭をなぞられた気がした。
帰宅してすぐ、制服のまま机に向かった。パソコンを開き、下書きではなく感想一覧に戻る。
星屑の観測者。ずっと同じ名前。けれど今はその名前が仮面のように見えた。
投稿もしない、下書きにも残さないメモ欄へ一行だけ打った。
あなたは、いつから違うんですか。
送る先はない。書いただけだ。数秒見つめてから削除した。メモ欄ごと閉じた。どこにも届かないはずの問い。
――閉じたつもりだった。
それなのに、スマートフォンが震えたのはその直後だった。
新しい感想が一件。
星屑の観測者。
本文はこれまでで一番短かった。
『やっと、違いに気づいたのですね』
その下にもう一行。
『前のひとは、もう少し遠くから読んでいました』
栞は呼吸を忘れた。
削除したはずの問いに、答えが返っている。
部屋の静けさが急に深くなる。車の音もテレビの音も全部が遠ざかって、机の上の白い画面だけが残った。
感想欄は、読者の声が届く場所だと思っていた。けれど今は、向こう側からこちらを覗き返すための窓に見えた。




