第5話 同じ棚の人
翌朝の教室の光は、やけに白かった。
雨に洗われたせいか、机も黒板の縁もいつもより輪郭を強くしている。栞は鞄を置きながら眼鏡の位置を直した。整いすぎた景色が、まだ胸を落ち着かなくさせる。
ホームルーム前、担任が教壇に立って文化祭の連絡を始めた。
「今年はクラスごとの展示とは別に、有志企画も募集する。文芸系は図書委員と合同で小さめの展示をするらしいぞ。興味ある人は今週中に、白石に声をかけておけ」
白石、という名前に教室の空気が微かに動いた。
前の席の女子が振り返り、「織ちゃん、またやるの?」
窓際の白石織は肩をすくめて笑った。
「今年は小さいやつ。展示と冊子だけ。読んだ人が足を止められる形にしたくて」
その言い方がいかにも慣れていて、栞は目を伏せた。言葉の出し方に無駄がない。誰かに向けて何かを見せることに慣れた人の空気がある。
読まれる人。見つけられる人。自分とは別の種類の人間だと思った。
休み時間、橋田が机の横に来た。
「文化祭、図書委員のとこ手伝うんなら、お前も出せば?」
「何を」
「小説。書いてるだろ」
目だけが妙にまっすぐだった。
栞はノートを閉じる。
「書いてない」
「嘘つくとき早口になるの、もうバレてるよ」
腹が立つ。見透かされた気がして「別に」とだけ返した。橋田は深追いせず、文化祭の募集プリントを机の端に置いて去る。
白い紙に「有志文芸展示」、下に小さく「代表 白石織」とあった。
昼休み、図書室へ逃げた。
ノートを開いても、今日は下書きの続きが出てこなかった。代わりに昨夜の感想が白く明滅する。
眼鏡は、見え過ぎるようにしてしまうこともあります。
返却カウンターのほうで電子音が鳴った。昨日と同じ位置に、白石が立っている。
「その癖、前から?」
不意に声をかけられて顔を上げた。
「え」
「眼鏡触るの。考えてるとき、よくやってるよね」
耳まで熱くなった。昨日の一瞬の目つきの意味が、今さらつながる。あのとき既に、白石はこちらの仕草を見ていたのだ。
「……癖ってほどじゃ」
「ふうん」
白石はそれ以上追及しなかった。手慣れた手つきで返却処理を続ける。
「文化祭、出さないの?」
自然な調子で聞かれ、返事に詰まった。
「出すもの、無いし」
「あるでしょ。今、何か書こうとしてた顔してた」
橋田とは踏み込み方が違う。橋田は勘の良さで境界を越えてくる。白石は目の前の人間の表情を素材として読んでしまう。
「書いても、別に」
白石は少し笑った。
「別に、ね。分かるよ。出したところで誰が読むかなんて分かんないし」
栞は思わず顔を上げた。
白石はカウンター脇に本を積みながら続けた。
「読まれるって思ってるより運が大きいし。上手いだけじゃ全然足りない。逆に読まれたら読まれたで、面倒なことも増える」
教室での明るい声より、少し低かった。
「……面倒って」
「期待されること。次も同じテイストを求められること。自分でも、前の自分をなぞるのが一番うまくなっちゃう感じ」
返却処理の手が一瞬止まった。
「それで読まれてるなら、まだいいじゃんって思われるけどね」
栞はそのとき初めて、白石のことを「自分とは無縁の人」とだけでは見られなくなった。
帰ろうとしたとき、「尾崎さん」と呼び止められた。白石が薄いノートを差し出す。
「急にごめん。これ、見てもらえる?」
文化祭展示用の企画メモと、書きかけの短い文章。冒頭だけ。整っていて、最初から読みやすい形で生まれてきたかのようだった。
二、三行読んで、違和感を覚えた。文章の運びはうまいのに、行間がどこか滑らかすぎる。手を伸ばせばするりと抜けてしまう膜みたいで、引っかかりがない。
「……上手い」
「ありがと」
「でも」
迷って、言葉が止まった。
「でも?」
「……綺麗すぎる、かも」
失礼だと自分でも思った。けれど白石は少し目を見開いて、ふっと笑う。
「やっぱり書く人だ」
栞が黙ると、白石はノートを閉じた。
「そういうこと言ってくれる人、居ないんだよね。読みやすいとか続き気になるとかは来るけど、綺麗すぎるって言われたの初めて」
そこでわずかに声を落とした。
「私ね、最近分かんなくなることがあって」
「何が」
「自分が書いた文なのか、先に読者が欲しがった形をなぞっただけなのか」
栞は息を飲んだ。
「感想って嬉しいでしょ。数字も増えたら嬉しい。だから次も、その次もって考えるんだけど、そのうち書きたいから書いてるのか、前に読まれた形を繰り返してるだけなのか分かんなくなる」
白石は一度だけ目を伏せた。
「たまに、書いたはずの一文の感触だけ残ってて、いつ書いたか思い出せないこともあるし」
その一言で、栞の手が冷たくなった。
「それ……」
白石はすぐに笑い、「変だよね」と軽く片づけた。
「寝不足だと思う。投稿してる人、だいたいみんな寝不足だから」
目の奥だけが笑っていなかった。
「じゃあまた」と去っていく背中を見送りながら、栞は白石の言葉を反芻していた。
自分が書いた文なのか、読者が欲しがった形なのか。
栞にとっては問いの形がすこし違う。自分が書いたから起きるのか。起きるものを先に拾ってしまっているのか。
帰宅してパソコンを開く。下書きの続きを打とうとして、カーソルを見つめた。今日はうまく入れない。白石の横顔が浮かぶ。整っていて、でもどこか擦り減った表情。
メモ欄に一行だけ打った。
気づくと、下書きに予定にない場面が混じっていた。
カウンターの向こう側に見慣れた横顔が見える。
そんな一文が、いつの間にか画面に残っている。プロットにはない場面だ。消そうとして、指が止まった。
消すと何かが途切れる気がして、そのままにした。
読まれた言葉は、誰のものになるのだろう。
夜十時を回ったころ、スマートフォンが震えた。
新しい感想が一件。
星屑の観測者。
『今日、あなたは自分に似た影を見たのだと思います』
画面を持つ手に力が入りすぎた。白石と話したことは一文字も書いていない。
続きがある。
『書くのが好きだから書く人と、書かないと消えてしまう人は、似ているようで全く違います』
白石が言いかけてやめた輪郭を、感想欄が平然と書き留めていた。直接「あなたは後者だ」とは書いていない。でも一行目の「似た影」が白石を指しているなら、後者の暗い方が自分だと分かる。
前の感想より、一段だけ近い。
けれどまだ比喩の膜がある。「傘みたいに」と同じ種類の、触れそうで触れない距離。
その距離感が、嬉しいのか怖いのか、もう栞には判別できなかった。




