第4話 眼鏡越しの既視感
夜の雨は、朝にはもうあがっていた。
けれど窓を開けたとき流れ込んできた空気はまだ湿っていて、街全体がうすい膜をまとっているように感じられた。濡れた手すり、鈍く光るアスファルト、電線に残った水滴。見慣れた景色なのに、今日は最初からどこか整いすぎている。
整いすぎている、という表現が正しいのかは分からない。ただ、眼鏡をかけた瞬間にすべてが定位置に収まる感覚が、いつもより一段強かった。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。裸眼の自分はやはりすこし頼りない。輪郭が甘く、寝不足で重い瞼も曖昧にぼやけている。その頼りなさに、今朝は妙な安堵を覚えた。
眼鏡をかけ直す。蛇口の銀色が、洗濯機の白が、自分の肩越しに見える廊下の壁が一斉に焦点を結ぶ。
その瞬間、胸の内側がわずかにひやりとした。見えるようになるというより、見なくていいところまで拾ってしまう感覚だった。
学校へ向かう道でも、その違和感は続いた。通学路の角にある古い自販機。色褪せた赤。受け皿に溜まった雨水。どれもどこかで書いたことのある景色みたいに目に入ってくる。
教室に入ると朝のざわめきが一斉に落ちてきた。窓際で昨夜のドラマの話をしている声、前の席で提出物の期限に悲鳴を上げている声。ありふれた音の塊だ。
なのに、担任が出席簿をめくった角度を見たとき、肩に微かな震えが走った。
知っている。
記憶にあるわけではない。夢で見たのでもない。ただその動き、その横で白いチョークの粉がわずかに舞う感じまで、自分の中に先に置かれていたもののように思えた。
栞はそっと眼鏡のつるに触れた。外してしまおうかと一瞬考え、授業開始前に目立つからやめた。席について教科書を開き、活字を追うふりをする。
午前中、特に一時間目は驚くほど長かった。教師が振り返るたびその角度に既視感がまとわりつく。
隣の席の女子が髪を耳にかける仕草にも、前の男子が椅子を鳴らして伸びをするタイミングにも、透明な下書きが重なっているみたいだった。
休み時間、人の少ない廊下に出た。窓際まで行き、誰も居ないのを確かめてから眼鏡を外す。
世界が甘く溶けた。校庭の輪郭はにじみ、遠くの生徒たちは色の塊になる。何かに見張られているような張り詰めがわずかに後退する。
小さく息が漏れた。
「尾崎、どうした」
背後からの声に反射で眼鏡をかけ直した。廊下の端から橋田が歩いてくる。
「いや、別に」
「別に、の顔じゃないけど」
数歩の距離で止まり、栞を少しだけのぞき込むように首を傾けた。
「具合悪い?」
「寝不足なだけ」
「それ、ここんとこ毎日じゃない?」
言っていない気がした。少なくとも声には出していない。
栞が沈黙すると、橋田はそれ以上追わず、牛乳パックのストローを指先でくるりと回した。
「まあ、昼休みに図書室来るなら席取っとく」
軽い声で去っていく。
昼休みの図書室。
ノートを開くと、罫線を見ているうちに呼吸が整ってくる。けれど今日は紙の白ささえ既視感を帯びていた。まだ書いていない文章の影が、うっすら浮かんでいるように思える。
「眼鏡、合ってないん?」
橋田が向かいから言った。
「え」
「さっきからずっと触ってる」
確かに何度も無意識にブリッジへ指をやっていた。
「……別に。普通」
橋田は納得しなさそうだったが追及しなかった。代わりに返却期限の本の話や図書委員会の配布物の話を取り留めなく口にする。
その雑談に紛れて、栞はもう一度試した。ノートへ視線を落としたまま、そっと眼鏡を外す。文字がにじむ。橋田の顔も窓の外も、輪郭がやわらかくほどける。
そして、図書室全体に薄く張っていた「どこかで書いた気がする」あの感覚が、わずかに後退した。
やっぱり。
眼鏡をかけ直す。焦点が戻る。同時に本棚の背表紙の並びが、窓辺の光が机にできた影が、一気に意味ありげに整列し始めた。
「どうした?」
橋田の声で我に返る。振り向いても後ろには誰もいない。
「……なんでもない」
橋田が先に席を立ち、栞だけが残った。ノートを閉じて鞄に戻そうとしたとき、返却カウンターの向こうに見慣れた横顔が見えた。
白石織
当番の腕章をつけて、返却本のバーコードを読み取っている。ピッという電子音が小さく響くたびに、図書室の静けさが逆に際立つ。教室で見るより少し静かな表情をしていた。
腕章の下に名札が見えた。しらいし、おり。唇の中でその音をなぞった瞬間、どこかで聞いたことのある響きがした。気のせいだろう。すぐに忘れた。
目が合った。白石は一拍だけ手を止め、それから何も言わずに作業に戻る。
ただそれだけだった。会話もない。名前を呼ばれたわけでもない。
なのに栞は、廊下に出てからもしばらく、白石がこちらを見た一瞬の目つきが気になっていた。
あの目は、何かを読み取ろうとしていた。ちょうど自分が感想欄の文字を読むときのように。
午後、さらに集中できなかった。些細なものほど既視感を連れてくる。世界のほうが先に下書きを持っていて、自分はそれを遅れてなぞっているだけみたいだった。
放課後、寄り道もせず帰った。部屋の机に荷物を置き、しばらくパソコンを開けなかった。
けれど夜になれば、やはり机に向かっている。
投稿画面ではなく、感想欄を開く。星屑の観測者。新着はまだない。安堵して、同時に通知を待っている自分がいる。
メモ帳へ一文打ち込んだ。
レンズ越しに見た世界だけが、少し早く形を知っている。
書いてから指が止まった。考えたというより、落ちてきた文だった。
眼鏡を外して机に置く。裸眼の画面はにじんで、打った一文さえ読めない。その曖昧さにわずかに救われた。
やがてスマートフォンが震えた。
新しい感想が一件。
星屑の観測者。
本文は一行だった。
『眼鏡は、見えるようにする道具ですが、見え過ぎるようにしてしまうこともあります』
呼吸が浅くなった。今日一日、自分が何をしていたのか。眼鏡を外したりかけたりして何を確かめていたのか。どこまでが文章に出ていてどこからが出ていないのか、もう境目が分からない。
机に置いた眼鏡のフレームに指を伸ばす。金属は、思っていたよりずっと冷たかった。




