第3話 傘の骨
朝、カーテンの隙間から見えた空は、まだ降っていないのに雨の気配がした。
薄い灰色の雲が低く広がり、遠くの建物の輪郭がいつもより曖昧に見える。昨夜なかなか眠れなかったせいで目の奥がすこし重い。けれど起き上がった瞬間、栞の頭に浮かんだのは天気ではなく、白い画面に残っていたあの一行だった。
傘みたいに。
たった一行の感想が、朝の体温にまで溶け込んでいるようで居心地が悪い。
枕元のスマートフォンを手に取り、通知欄を確かめる。何も増えていない。新着も、フォローも。
何もないことにほっとしたのか、物足りなかったのか、自分でもよく分からないままベッドを出た。
朝食の席で母がテレビの朝のニュース番組を見ながら言った。
「今日、雨降るのかな」
「夕方から崩れるって」
栞は食パンをちぎりながら、天気アプリの画面に並ぶ傘マークを見た。午後三時、四時、五時。小さなアイコンなのに、妙に存在感がある。
「折り畳み持って行きなさいよ」
「……うん」
鞄に入っている傘の重さを思い出す。たったそれだけのことなのに、今日一日じゅう傘を意識してしまいそうだった。
登校途中、風はまだ弱かった。交差点の信号待ちで前の女子生徒の髪が少しだけ揺れる程度の、平凡な朝だ。なのに、平凡であればあるほど、そこへ小説の断片が重なったときの違和感は尖る。
傘の骨がひっくり返る音は、思っていたより軽い。
頭の中で、自分の一文が再生される。書いたものを覚えているだけだ。当然のこと。なのに今日は、それが記憶ではなく予告に聞こえた。
教室に入ると、窓側で空模様の話をしている声が耳に入った。
「帰り部活あるのに最悪」
「風も強くなるってさ」
その何気ない会話さえ、栞には角が立って聞こえる。
席につき、鞄を机の横にかけ、教科書を出すついでにメモ帳が奥にあることを確かめる。ただの紙の束だ。それなのに今は、秘密というより火種を持ち歩いている心地だった。
「おはよ」
橋田の声が横から落ちてきた。今日は寝癖が少し残っている。
「……おはよう」
「顔色悪くない?」
「そっちこそ」
「あ、ひど」
橋田は笑って自分の席に鞄を置き、窓の外を見て「ほんとに降るのかな」と気楽に言った。
「折り畳みある?」
「ある」
「えらい。俺、朝見たら壊れててさ。安物だし、傘を買いなおすか迷ったんだけど、いけるかなって」
栞は反射的に顔を上げた。
「……傘、壊れてたの?」
「骨一本曲がってた。前から怪しかったんだよね」
それだけの話だ。安い傘なら珍しくもない。
なのに胸の奥で、何かが引っかかる感触が消えなかった。
「一応持ってきたけど、買いなおせば良かったかなあ」
橋田はそう呟いて、すぐに別の友達へ話しかけに行った。
ホームルームが始まっても、栞の意識は何度もそちらへ引き戻された。壊れかけの傘。風。夕方からの雨。材料はいくらでも揃っている。だからこそ、まだ何も起きていない段階で怯えるのは馬鹿みたいだと思う。
なのに授業ノートの隅に、気がつけば細い字で書いてしまう。
怒るより先に驚いたような顔。それから笑った。
書いた途端、自分で嫌になる。確かめたいのか避けたいのか、もう分からない。
昼休み、図書室のいつもの席に座り、弁当を食べ終えるとすぐメモ帳を開いた。傘の場面だけ、昨夜から何度も反芻しているせいで輪郭がやけにはっきりしている。主人公は言葉をかけられない。壊れた傘より、そのあとに笑われたことのほうで口をつぐんでしまう。
そういう感情の順番なら、たぶん自分には書ける。
ページの上に、少しずつ文字を置いていく。
風に煽られた黒い布が、一瞬だけ空を向いた。
持ち主は怒るより先に目を丸くして、それから困ったみたいに笑った。
笑われた方ではなく、笑った本人のほうが、たぶん少しだけ傷ついている。
最後の一文はすんなり出た。出すぎて、かえって嫌な気がする。
「また書いてる」
橋田が向かいに座りながら、文庫本を机に置いた。昨日と同じ流れだ。
「……静かにして」
「してるじゃん」
「そういう意味じゃなくて」
橋田は笑いつつ、大人しく本を開いた。数分、ページをめくる音だけが続く。その静けさに安心しかけたころ、不意に言った。
「今日、ほんとに降りそうだよね」
栞は顔を上げないまま「そうだね」と返した。
「さっきの傘の話。骨曲がってるやつ。次まで持てばいいやって思ってたけど、今になって不安になってきた」
「……買えば」
「やっぱそうすべき?」
「壊れてから困るでしょ」
「確かに」
橋田は本を閉じ、机に肘をつく。
「尾崎ってさ、たまに妙に予言っぽい言い方するよね」
一瞬、息が止まった。
「別に、予言なんかじゃない」
「分かってるよ。雰囲気の話」
軽い調子だった。冗談だ。深い意味はない。分かっているのに、今日はそれさえ聞き流しにくい。
栞はメモ帳を閉じ、時計を見るふりをした。時間の進みかたさえ、少しだけ信用できなくなっている。
午後の授業が始まるころ、窓の外がはっきり暗くなっていた。風が強まるたび校庭の木が斜めに揺れ、教室のガラスがかすかに鳴る。
五時間目の終わりごろ、ついに雨が降り出した。細い筋が窓を流れ始め、あっという間に本数を増やしていく。
教室のあちこちで「あー」「最悪」という声が上がる。その中に、橋田の「ほんとに来たな」と笑う声が混じった。
帰りのホームルームが終わる頃には、雨脚はむしろ強くなっていた。
昇降口は傘を開く生徒たちで混み合っている。
湿った空気、濡れた制服のにおい、床に弾ける水滴の音。
栞は人の流れから少し離れた場所で、折り畳み傘を袋から出した。
そのとき、すぐ前のほうで「あ」と短い声がした。
顔を上げる。
橋田だった。
傘を開いた瞬間に風を受けた。
黒い布がばさりと逆向きにめくれ、骨が音を立てて反り返る。
ひっくり返るその一拍前から、栞にはもう見えていた気がした。
傘の骨がひっくり返る音は、思っていたより軽い。
頭の中の文章と、目の前の現実が、ほとんど同時に重なった。
橋田は怒るより先に目を丸くした。壊れた傘を見下ろし、それから困ったように笑った。
「うわ、まじか」
その言い方さえ、なぜか想像に近い。
周囲の何人かが笑い、「買えばよかったじゃん」と声をかける。橋田も苦笑して「ほんとそれ」と返す。
誰も深刻には受け取っていない。傘が一本壊れただけだ。よくある小さな不運。
けれど栞だけが、そこから足を動かせなかった。
現実感がないのではない。むしろ逆だった。床に弾ける雨粒も、外から吹き込む風の冷たさも、橋田の声の高さも、全部が嫌になるほど具体的だ。具体的なのに、その全部に自分の書いた一文が薄く重なっている。
偶然だと言い聞かせるための言葉が、胸の中でうまく形にならない。
「尾崎?」
名前を呼ばれて、はっとした。橋田が壊れた傘を片手にこちらを見ている。
「大丈夫? 顔、白くない?」
「……平気。ちょっとびっくりしただけ」
嘘ではない。けれど、何にびっくりしたのかは説明できない。
橋田は数秒だけ迷う顔をしてから、「先帰れる?」と聞いた。
「うん」
「そっか。俺、コンビニで傘買って帰る」
笑う。さっきと同じ、困ったみたいな笑い方だった。その笑い方が小説の中の誰かではなく、橋田自身のものだとはっきり分かるから、余計にたまらない。
栞は外へ出た。折り畳み傘を広げても、横殴りの雨で制服の裾がすぐに湿った。足元の水たまりは灰色の空を映し、踏むたびに輪が崩れる。
学校から駅までの短い道のりが、今日は妙に長かった。
自分の書いたことに現実が似た。ただそれだけのはずなのに、その「だけ」が大きすぎる。
もし先に書いたから起きたのだとしたら。もし起きるものを先に拾ってしまっただけだとしたら。
どちらにしても、胸の底が冷える。
家に着くころには靴下まで濡れていた。母はまだ帰っておらず、家の中は静かだった。着替えて髪を拭いて机の前に座る。いつもの流れなのに、ノートパソコンに手を伸ばすのが重い。
今日は書かないほうが良いのかもしれない。
そう思う。思うのに、書かなければ落ち着かない。
不安なときほど言葉に逃げる癖が自分にはあると、栞は知っていた。
結局パソコンを開いた。管理画面を表示する。昨日の感想は残っている。新しい通知はまだない。
下書き画面を開き、傘の場面を少し直そうとした。けれど手を入れようとすると指が止まる。現実に似てしまった後で修正すると、まるで現実のほうを原稿に合わせにいくみたいで、嫌だった。
馬鹿らしいと分かっていても、修正することさえためらう。
しばらくして、画面の右上に小さな数字が出た。新着一件。
喉が詰まる。感想欄を開くまでの数秒で、口の中がひどく乾いた。
星屑の観測者
名前を見ただけで、嬉しさより先に身構えてしまう。
本文は短かった。
『今日の話は、少し現実に近すぎたかもしれません。
でも、あなたはまだ軽い方を書いている』
指先から熱が引いた。
今日の話。今日、まだ何も公開していない。更新もしていない。書きかけの下書きに触れただけだ。
なのにこの言葉は、昼のメモ帳の続きと、放課後の出来事の両方を見渡しているかのように置かれていた。
あなたはまだ軽い方を書いている。
その一文の意味を考えようとして、やめた。考えた先に行きたくなかった。
軽い方というなら、重い方とは何だ。傘一本では済まないことか。もっとはっきり何かが壊れることか。誰かが笑えない顔をすることか。
そんな想像が、言葉の隙間から勝手に染み出してくる。
画面を閉じようとして、できなかった。白い背景に黒い文字。その単純な組み合わせが、今夜はやけに冷たく光っている。
たった一人の読者がいることを、あれほど嬉しいと思ったばかりなのに。同じ相手の言葉が、今は自分の部屋の鍵穴を内側から覗かれているみたいだった。
窓の外で風がまた強く鳴り、雨粒がガラスに当たって細く散る。その音の軽さまで、放課後の昇降口で聞いたものに似ている気がした。
返信欄を開いては閉じる。何を書けばいいのか分からない。ありがとうございます、と書くには怖い。どういう意味ですか、と聞くには自分の怯えを差し出しすぎる。
結局何も送れないまま、カーソルだけが白い枠の中で点滅している。
時計の針がゆっくりと動く。夜が深くなるにつれ、雨の音だけが大きくなっていく。
まだ軽い方を書いている。
その一行が、警告なのか、忠告なのか、ただの感想なのか――判断できないまま、栞はゆっくりとノートパソコンを閉じた。
閉じた天板の反射に自分の顔が映り、ふいに嫌な考えが胸をよぎる。
この続きを、私は今夜も書くのだろうか。
怖いのに、どこかでもう次の一文を探し始めている自分がいる。
雨はしばらくやみそうになかった。




