第2話 未公開の次話
翌朝、目が覚めて最初にしたことは、枕元のスマートフォンを手探りすることだった。
アラームより先に、昨夜の感想欄を開いている。暗い画面の中に、見慣れない名前が静かに残っていた。
星屑の観測者
それを確かめただけで、胸がすこし落ち着いた。夢ではなかったのだ。夜の勢いで都合のいい記憶を捏造したのでもない。確かに誰かが自分の文章を読み、言葉を返してきた。
寝癖のついた前髪を押さえながら、もう一度感想の本文を読み返す。
なくしたものではなく、なかったことにされそうなもの。
昨夜はこの一文で息が詰まった。朝の光の下で読んでも、同じところで目が止まる。
自分の書いたものの意味を、他人の言葉で教えられることがある。そんな当たり前のようで信じていなかったことが本当に起きて、身体のどこかがまだ追いついていない。
階下から母の声がした。
「栞、起きてるなら早く。パン焦げるよ」
「……うん」
返事をしてから、ようやくベッドを出た。
洗面所の鏡の中の自分は、いつも通りだった。少し寝不足の顔。結びきれていない髪。眼鏡をかける前の、曖昧な輪郭。
でも眼鏡をかけた瞬間、世界がぴたりと合焦する感覚と一緒に、昨夜の感想が胸の内へ戻ってくる。
今日は、少しだけ背筋を伸ばしていられる気がした。
朝の教室は、相変わらずざわついていた。
四月の終わり。クラス替えの緊張は薄れ始めているのに、完全には馴染みきっていない空気がまだ漂っている。誰と誰が近いか、冗談の境界線はどこか、そういう輪郭が日ごとに固定されていく時期だ。
栞は自分の席に座り、鞄から教科書を出すふりをしながら、机の奥に小さなメモ帳を滑り込ませた。
昨夜の続きは、少ししか書けなかった。それでも書き出しの一文は残っている。
傘の骨がひっくり返る音は、思っていたより軽い。
使うかどうかも分からない断片。ノートに清書するには柔らかすぎて、捨てるには早すぎる。そういう言葉ばかりがメモ帳の中では増えていく。
ホームルームぎりぎりで、隣の列から椅子を引く音がした。
「おはよ、尾崎」
顔を上げると、橋田掛がこちらを見ていた。
橋田はいつも、誰にでも同じ温度で話しかける。距離感がうまい、と言えば聞こえはいい。栞からすると、境界線を涼しい顔で越えてくる人、という印象のほうが強かった。
「……おはよう」
「珍しく機嫌よさそう」
「そう?」
「うん。なんか昨日、いいことあった?」
心臓が一拍分だけ速まる。
顔に出るようなことはしていないはずだ。それでも図星を突かれた気がして、栞は反射で視線を逸らした。
「別に、普通」
「ふーん」
橋田はそれ以上追及しなかったが、まるで納得していない声で軽く笑った。
「まあ、普通の顔してるやつほど普通じゃないんだよな、大体」
軽口だろう。深い意味はない。
それでも栞は、机の奥のメモ帳を意識してしまう。誰にも見せるつもりのない断片が、すぐそこに隠れている。
授業が始まってしまえば、時間はどうにか過ぎていった。
現代文の小テスト。数学の板書。英語のペア読み。どれもいつも通りだ。いつも通りなのに、ふとした隙間にスマートフォンの通知を確かめたくなる。さすがに授業中は見ないが、休み時間のたびに意識がそちらへ寄った。
もう一通、来ているかもしれない。
一度そういう期待を知ると、今まで平気だった空白が少し形を変える。
昼休み、栞は弁当を持って図書室へ向かった。
図書室は校舎の端にあり、昼でも空気がわずかにひんやりしている。人はいるが騒がしくはない。話し声もページをめくる音も、ここでは全部が角を丸くされて届く。
窓際に近い席が空いていた。
腰を下ろし、弁当を食べ終えるとすぐにメモ帳を開く。昼休みの残り時間は短い。短いからこそ、まとまりきらない断片を書くのに向いている。
昨日の一文の下に、細い字で続きを置いていく。
風に煽られた黒い布が、一瞬だけ空を向いた。
持ち主は怒るより先に驚いたような顔をして、それから笑った。
笑ったから、余計に主人公は何も言えなくなった。
そこまで書いたところで、机の向こう側に影が落ちた。
「やっぱり書いてる」
栞は反射でメモ帳を閉じた。
顔を上げると、橋田が文庫本を片手に立っている。
「……なに」
「なに、って。席空いてる?」
「空いてるけど」
「じゃ、座る」
許可を取る体裁だけ整えて、向かいに腰を下ろした。借りてきたらしい文庫本を机に置きながら、ちらりと栞の手元を見る。
「昨日も書いてたよな。ノートとかメモとか。勉強じゃないやつ」
「別に」
「別に、って本当に便利な言葉だよな」
からかう調子ではあるが、声の大きさが図書室の限度を守っているのが唯一の救いだった。けれど、分かることと気楽でいられることは別だ。
栞はメモ帳の表紙を押さえたまま、言葉を選ぶ。
「……思いついたことを忘れないようにしてるだけ」
「小説?」
あまりにまっすぐ言われて、答えに詰まった。否定するのは簡単だ。でも変に強く否定すれば不自然になる。
「違う」
半分だけ本当の返事をした。忘れないようにしているのは嘘ではない。それが小説の断片だとは言わないだけだ。
橋田は「そっか」と言いながらも、全く信じていない顔をしている。
「でもさ、尾崎って授業中よりそういう時のほうが生き生きしてない?」
「どういう意味」
「目の温度が違う。書いてる時だけ、ちゃんと自分の場所にいるっていうか」
栞は眉をひそめた。言い方が雑だと思った。雑なのに、胸の奥の柔らかいところに触れてしまう。書いているときの自分のほうが、学校にいる自分より少しましだと、自分でも薄々知っているからだ。
「……橋田くん、本読まないタイプかと思ってた」
「読むよ。読むけど、感想はあんまり言えない」
「言えないのに、人には聞くんだ」
「聞きたくなるやつには聞く」
その返しがあまりに自然で、栞はそれ以上言葉を続けられなかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。橋田は立ち上がり、机の上の文庫本をひらひらさせた。
「図書委員の仕事、放課後あるから。またここ来る?」
「来るかも」
「じゃ、その時居たらおすすめ教えて」
去っていく背中を見送りながら、栞はようやく息をついた。
メモ帳を開き直す。さっきまで自然に繋がっていた文章の流れが途切れてしまっていた。
持ち主は怒るより先に驚いたような顔をして、それから笑った。
そこから先が出てこない。
代わりに、橋田の「目の温度が違う」という言い回しだけが、奇妙な残像として頭に張り付いていた。
放課後、図書室には行かなかった。
行けば橋田がいる気がしたし、その予感はたぶん当たる。代わりにまっすぐ帰宅して、制服のまま部屋のベッドに倒れ込んだ。
スマートフォンの通知欄は増えていない。
少しだけ安心して、同じくらい少しだけ落ち込む。昨夜は特別だったのだと、自分で自分に言い聞かせるには十分な静けさだった。
夕食を終え、風呂に入り、家の気配が寝静まっていくのをやり過ごしてから、栞はまた机に向かった。
昨日の感想には返信済み。今夜は、昨夜書き足した分を整えて投稿する番だ。
ただし傘の場面はまだ出さない。
あの断片はもう少し先に回したかった。理由はうまく説明できない。物語の中に置くにはまだ早い、という感覚だけがある。
だから今夜公開するのはその前段にあたる短い一話だ。階段の踊り場。足音。上にも下にも行ききれない時間。主人公が何かを言いそびれたまま、風の気配だけを先に受け取る場面。
投稿ボタンを押したあと、すぐに感想欄は開かなかった。
期待している自分がみっともないし、昨夜の続きを当然のように待つのも違う。
それでも十分ほどして、結局サイトを開いてしまう。
通知が、来ていた。
胸の内側がじわりと熱くなる。昨夜と同じ名前を見つけた瞬間、嬉しさが先に来る。来るのに、その下にひんやりした何かが混じった。早い。公開からまだ十分も経っていない。
星屑の観測者
呼吸を整えてから本文を開いた。
『踊り場の場面、とてもよかったです。
上にも下にも行けるのに、どちらにも行ききれない時間の長さが、よく分かりました。
主人公は、何かを失う前よりも、形が変わってしまう前の気配に敏感ですね。
次は外側から形を壊される場面が来そうです。
傘みたいに』
最後の一行で、思考が静止した。
傘みたいに。
視線がそこに縫い止められたまま、動かない。心臓が大きくではなく、細かく速く打ち始める。
傘
その単語は、今夜投稿した本文には一度も出てこない。
階段も風もある。けれど傘はない。公開していない。昼休みにメモ帳へ書いただけだ。昨夜の書き出しにも置いたが、サイトには上げていない。橋田の前で慌ててメモ帳を閉じたときも、表紙しか見えていないはずだ。
なのに、感想欄の向こう側にいる誰かは、まるでその続きを知っているかのように書いている。
偶然。そう考えるのが一番自然だ。風の次に傘を連想するのは珍しくない。踊り場から外へという流れで雨を想像する人だっているだろう。言い訳はいくらでも作れる。
けれど、言い訳をひとつ組み立てるたびに、背中の内側がすこしずつ冷えていった。
栞は作品管理画面を開いた。公開話数の一覧。予約投稿。下書き保存。確認するまでもないことを、確認せずにはいられない。
傘の場面は下書きのまま保存されていた。保存日時は今日の昼休み。公開設定はしていない。タイトルすら仮のまま。自分しか知らない断片のはずだ。
手のひらに、薄く汗がにじんだ。
どうして。
昨夜と同じ問いが、今度は驚きではなく、もっと底の深い不安を引き連れてくる。
ちゃんと読まれたことは嬉しかった。救われたと言ってもいい。けれど、読まれていないはずのものに触れられるのは、まるで話が違う。
感想欄を閉じて、もう一度開く。文字は変わらない。「傘みたいに」という一行は、最初からそこに収まっていた言葉のような顔で白い画面に佇んでいる。
部屋は静かだった。窓の外に街灯の薄い光があって、カーテンの端だけがわずかに揺れている。
そのとき、ふいに昼の図書室を思い出した。橋田が立っていた位置。机に落ちた影。メモ帳を閉じる前、ページの端に書いた単語が見えていた可能性。
でも見えたとしても一文字か二文字だ。そもそも橋田があの感想主だという根拠はどこにもない。文体も雰囲気も違いすぎる。
栞は眼鏡を外し、眉間を押さえた。裸眼のまま画面を見ると、文字がにじむ。にじんでくれたほうが、あの一行も偶然のシミに見えるかと期待した。
けれど眼鏡をかけ直してピントが合った瞬間、その一文だけがかえって鮮やかに浮かび上がる。
傘みたいに。
窓の外で風が鳴った。昨夜と似た、けれど少し乾いた音だった。
栞は無意識に机の端のメモ帳を引き寄せ、自分の字を確かめる。
傘の骨がひっくり返る音は、思っていたより軽い。
確かにここにある。昼休みに書いた、自分だけの一文。サイトにはない。送ってもいない。
返信欄を開くことも閉じることもできないまま、白い画面を見つめ続けた。
嬉しかったはずなのに。救われたはずなのに。その同じ相手の言葉が、今は薄い刃みたいに静かに光って見える。
時計の針が、微かな音を立てて零時をまたいだ。
その表示を見て、栞は反射的に下書き画面を閉じ、感想欄のページも閉じた。ノートパソコンの天板を半分下ろして、手を止める。暗くなりかけた画面に自分の顔がぼんやり映り、その奥に部屋の本棚が、カーテンの影が、見慣れた夜がある。
なのに今夜はどれも少しずつ、自分の生活ではなく、誰かに読まれている場面の背景みたいに見えた。
考えすぎだ。ちゃんと眠れば、明日の朝には笑い話にできるかもしれない。
そう思い込もうとして、栞はメモ帳を閉じた。表紙の角が、指先にひどく冷たかった。
ベッドへ向かう前、スマートフォンが小さく震えた。新しい通知ではない。日付が変わったことで表示が切り替わっただけの、微かな動きだった。
それなのに肩が跳ね、数秒遅れてから画面を確認する。
何も増えていない。何も増えていないのに、しばらく目が離せなかった。
もし次の通知が来たら。もしそこに、まだ書いていない続きを示す言葉があったら。
その想像だけで、手のひらが汗ばむ。
それでも同時に、確かめたがっている自分がいた。
読まれている。でも、何をどこまで読まれているのかが分からない。
その曖昧さが、夜更けの部屋を、昨日とは違う質の静けさで満たしていた。




