第10話(最終話)続きを待っています
カーソルは最後の一行の先で静かに点滅していた。
橋田に打ち明けた夜から、部屋の空気の密度がすこし変わっていた。怖さは消えていない。
感想欄の向こう側にいる《《何か》》も、《《書けば現実がにじむ》》あの感覚も、まだ説明はつかない。
ただ、それを知っているのが自分だけではないと思えたことで、指先は昨夜より確かに動いた。
最後まで書くべきこと。ただし、失われたものを完全に取り戻す結末にはしないことと、一人で決めないこと。
二つは違う言葉だが、栞の中では同じ方向を指していた。全部じゃなくていい。ひとりじゃなくていい。
栞は画面の中の主人公を見つめた。ここまで自分の痛みを借りて歩かせてきた少女は、最後の扉の前で立ち止まっている。
取り戻すのではなく、残っていたと知るために。全部は戻らなくても、消えきらなかったと書くために。
そう決めると、肩の余計な力がすこし抜けた。
キーボードに指を置く。
主人公は扉を開けない。代わりに扉の前にしゃがみ込み、床に刻まれた細い傷へ指先を触れる。誰かが確かにそこにいた証拠。声も姿も戻らない。けれどその傷は、世界が全部を持ち去れなかったことを示している。
主人公はそこでようやく泣く。喪失を取り戻せないまま、自分が忘れていなかったことだけは守れたのだと知って泣く。
文章は昨夜よりずっと静かに進んだ。言い切りたくなる場所で言い切らず、説明したくなる仕掛けをあえて言葉の手前で止めた。代わりに手触りだけ残す。冷たい金属。古い紙の端。呼びかけに返らなかった空気の重さ。
書きながら何度か眼鏡を外した。裸眼の画面は白い塊にしか見えない。けれど今夜は、外してもかけ直しても、背後の気配は現れなかった。
すこし寂しい、と思った。
その感情に気づいて自分でおかしくなる。怖がっていたくせに、いなくなることを想像すると胸の奥が冷える。
書き終えたのは午前一時を過ぎた頃だった。
投稿ボタンを前に、しばらく動けなかった。
これを押せば終わる。
マウスを握る手がじんわり湿っている。
まばたきをひとつして、クリックした。
投稿しました。
たったそれだけの文字なのに、胸の奥で何かが静かに着地した。
すぐに感想欄は開かなかった。ノートパソコンを閉じ、机に突っ伏して呼吸だけを繰り返した。
布団に入ると、珍しくすぐに眠れた。
* * *
翌朝、世界は拍子抜けするくらい普通だった。
洗面台で眼鏡をかける。レンズの向こうの自分は少しむくんだ顔をしているだけだ。廊下も窓も靴箱も、ただの学校の朝に戻っている。
教室の扉を開けた瞬間、胸の奥で小さく身構えた。でもそこにも異変はなかった。
窓際の橋田が軽く手を挙げた。
「おはよう」
「おはよう」
それだけで張りつめていたものがすこしほどけた。
ただ、完全には戻っていない気もした。
廊下の窓ガラスに映る自分の顔が、前より少しだけ輪郭が薄い。すれ違った同級生の笑い声が、ほんの半拍遅れて耳に届く。ひとつひとつは気のせいで済む程度の違和感だ。でもその「気のせい」が前より多い。
書いていた頃にはなかった揺れが、まだ残っている。更新を止めた二日間で失ったものが、全部は戻っていないのかもしれない。
放課後の図書室で、橋田は本を返却台に置きながら聞いた。
「で。書けた?」
栞はうなずいた。
「……書けた」
「そっか」
良かったな、とも、見せて、とも言わない。
ただ肩の力を抜いて笑った。
「じゃあ今日は少しまともな顔してる」
「昨日までがひどかったみたいに言わないで」
「ひどかったよ」
むっとした。でもその軽さに救われる。
スマートフォンを開き、作品ページを確認した。通知がいくつか増えていた。短い感想。読み終えましたという報告。最終話がよかったという一言。今まで黙っていたらしいアカウントからの初めての言葉もある。
読者は思っていたよりいたのかもしれない。黙ったまま最後まで見ていた人がいたのかもしれない。
その一方で、栞の指はどうしてもある名前を探していた。
星屑の観測者。
どこにもなかった。
最終回の感想欄を上から下まで見ても、通知一覧を遡っても見つからない。最初からあの場所にだけ現れる約束だった存在が、役目を終えて静かに席を立ったみたいだった。
それでいいのだと思う。
それでも、画面を消したあとしばらく親指を動かせなかった。
* * *
翌日の昼休み、図書室へ向かう途中の廊下で、白石織とすれ違った。
いつもなら軽く会釈して通り過ぎる距離だった。けれど今日は、白石のほうが一歩だけ横にずれて、栞の行く先を半分塞ぐ位置に立った。
「尾崎さん」
声は小さかった。授業の合間の廊下のざわめきにほとんど混じってしまう音量だった。
栞は足を止める。
「読んだよ」
それだけだった。
何を、とは言わなかった。連載のどの部分か、いつ読んだのか、どこで見つけたのか。白石は一切説明しない。
なのに栞には、それで伝わった。
「……ありがと」
自分でも驚くほど自然に、そう返せた。
白石は小さく笑った。どこか疲れた顔の笑い方で、けれど嫌な疲れ方ではなかった。
「最後のやつ、好き。全部取り戻さないところ」
栞は何か言おうとして、言葉が出てこないことに気づいた。
「読まれることと、見つけられることは、違うんだって。最近やっと分かった」
その言い方が、どこかで聞いた響きをしていた気がして、栞は思わず白石の顔を見た。けれど白石はもう視線を逸らしていて、その横顔から続きは読み取れなかった。
白石もそれ以上は続けなかった。ただ、ほんの一瞬だけ、いつかの図書室のカウンターで見せた目つきをもう一度見せた。何かを読み取ろうとする目。けれど今日は、読み取った何かを胸に収めてしまった後の目でもあった。
「じゃあね」
白石は横にずれた一歩を、そのまま廊下の向こうへ送り出すように歩いていく。
栞は去っていく背中を見送った。
白石の机の上には、昨日まで見えていた企画メモのノートが置かれていた。今日はそれが見当たらなかった気がした。あるいは、自分の見間違いかもしれない。
確かめようとは思わなかった。
白石が何をどこまで読んだのか、白石自身もまた画面の向こうの誰かを知っているのか、それとも本当にただの同級生として連載を偶然見つけただけなのか。全部は分からない。
分からないままで、いい気がした。
書く人間が二人、廊下ですれ違った。それだけのことだ。それだけのことが、今の栞には十分に意味を持つ。
* * *
数日が過ぎた。
授業を受け、図書室に寄り、帰宅してもノートだけは開く。世界はもう前みたいには揺れなかった。眼鏡はただの眼鏡に戻り、景色を正しい輪郭に整えている。
なのに完全に終わったとは言い切れなかった。たまに、ほんの一瞬だけ、教室の隅に自分の知らない影が差す気がする。通知の来ないスマートフォンを見て、何か忘れているような感覚がよぎる。
日常は戻った。でも、前と同じ日常ではない。書くことの意味を知ってしまったあとの日常は、同じ明るさでも少しだけ奥行きが違う。
金曜日の放課後。図書室の奥の席で、栞は連載一覧をぼんやり見返していた。第一話から最終話まで並んだタイトル。
一覧の一番下まで辿り着き、何気なく古い投稿日へ目を戻したとき、見慣れない一行があった。
日付は連載を始めるよりも前のものになっている。そんな表示が出るはずはない。古い投稿の下、余白に近い場所に、文字だけが静かに浮いていた。
続きを待っています。
栞の喉がかすかに鳴った。
タップしても反応はない。アカウント名もない。画面を閉じて開き直すと、もうそこには何もなかった。
見間違いだったのかもしれない。あるいは、そういうことにしておきたいだけかもしれない。
胸の奥へ落ちてきたのは、細くてあたたかい実感だった。
終わっていないのかもしれない。いや、あの連載はちゃんと終えた。でも終わったものの向こうに、まだ言葉の届く場所があるのかもしれない。
栞はバッグから新しいノートを取り出した。まだ何も書いていない、表紙の硬いノート。開くと紙の匂いがすこし強い。最初のページでペンを止めた。何を書くかは決まっていない。決まっていないのに、空白が怖くなかった。
返却カウンターのほうから足音が近づいた。
「また書くん?」
橋田だった。
栞は視線を上げた。
「うん」
「今度はどんな話」
窓から差し込む夕方の光が机の端で白く伸びている。眼鏡のレンズにその色が淡く乗って、すぐに消えた。
まだ分からないことは多い。感想欄の向こうにいたものも、自分が何を拾っていたのかも、全部に説明はついていない。
けれど分からないままでも、次の一文は書ける。
なかったことにされる前に、触れたと書き留めるために。
栞は小さく笑った。
「まだ、どこの現実か分からない話」
橋田は一瞬だけ目を丸くして、声を立てずに笑う。
「それ、タイトル?」
「違う」
「じゃあ、最初の一文か」
栞は答えなかった。
代わりにノートの一行目へペン先を置く。白い紙に黒い線が落ちる。たったそれだけで、胸にあった静けさが空白ではなく余白に変わっていく。
図書室の外では、下校のチャイムが鳴り始めていた。
その音を聞きながら、栞は新しい物語の最初の一文を書いた。
『感想欄にだけ現れるひと』




