その九 阿弥陀来迎
第一話
従三位 中納言 源 朝臣 淳明 卿、陰陽師 菅原 馨子に生霊を調伏させたる語
その九 阿弥陀来迎
「だめです、淳明さま!」
淳明さまの振るった太刀の下に、馨子の姿があらわれました。
はっと太刀に込めた力をとっさに止めるそれに変えても、すべて間に合いませんでした。
ざんっと手応えがあって、鈍く銀色に光る刃が馨子の肩に打ち下ろされていました。
「馨子さん!」
がらんと太刀を捨て、とっさに落ちていく馨子の体を受け止めようと、淳明さまは手を伸ばしました。ぐにゃりともたれてきた体は血も流さず、淳明さまに受け取られる寸前で光が散るように消えてしまいました。
「あ~、馨子ー! 馬鹿者ー! 天与の才を過信するなとあれほど言ったではないか!」
淳明さまが息をのんだまま、ぼうぜんと自分の手を見ておりますと、後ろで小麻呂の叫び声が上がりました。
振り返ると、十二単を着た馨子がさっきの場所に崩れたように身を伏せており、猫がその胸に飛び乗っております。
淳明さまは慌ててそちらに駆け寄りました。
「馨子さん?」
何が何やらわからないまま、淳明さまは馨子を見下ろしました。
「馨子さん!」
まぶたは開かれていても、瞳は硝子のように外の世界を映すだけです。横たわる馨子は、まったく意識をなくしているのです。
「馨子さん、死んではなりません!」
猫が耳をピクピクと振り、
「お、抜けたようだな」
きょろきょろとあたりを見回して言いました。
外はほんのり明るみが空ににじむ夜明け前で、うら寂れた三条院の邸には、もう怨霊の嘘の夏はありませんでした。
淳明さまもあたりを見まわしました。
式神も今は操る者をなくして式札に戻り、床に散らばる紙くずのようです。
「どうなったのですか」
「怨霊も驚いたのだろう。怨霊と言ってもあれは生霊だから、たぶん元の体に還ったのだ」
「そうですか。あー、ひとつ聞いてもよろしいか? 小麻呂さんは、猫なのに喋れるのですか?」
「そうだ」
猫はすんとしています。
「魔物? 物の怪?」
「違います。そのようなモノと一緒にせんでいただきたい。わたしは馨子の元師匠の陰陽師、その上の陰陽博士、家原道忠と申す。うかうかと死んでしもうて阿弥陀三尊が極楽浄土から迎えに来られた時に、待て、まだ早い、と申し上げたら、では転生を許す、とおっしゃられて猫の姿となってこの世に戻ったのです」
この時代、臨終の時には阿弥陀三尊が極楽浄土から煌びやかにお迎えに来るものだったのですよ。
「普段は猫の本能のままに生きておりますがな、このような緊急事態には、わたしが出てくることもある。
すまぬのう、馨子。わたしがお前を男の子と思いこんだばっかりに。死んでから気づいたよ。これほどの才にあふれた女の子だったとはなあ。お前は勉学に励むことなく、厳しく修行することなく、それだのに陰陽道を教えること瓶の水を移すがごとし。しかし、本当に術を使える陰陽師などそうはおらん。わたしとてもただの学問の徒に過ぎぬ。本当を言えば教えることなどほとんどなかった。どれほどお前に嫉妬したか。せっかく格別の計らいでこの世に蘇るならば術の一つも、と阿弥陀さまに願ったら、欲深い人間だと仰られてな。くださった術は童姿に化けることだけだった。童の時のわたしは陰陽道のことはなにもわからぬ本物の、年端もいかぬ童とは、阿弥陀さまもお人が悪い。なんとも歯痒いだけではないか」
「はあ」
師匠のそれなりに興味深い自分語りは一旦脇に置いて、そんなことより。
「それで、馨子さんは?」
元師匠陰陽博士で今は猫の小麻呂は、馨子の顔を覗きこみ唸りました。
「あなたはなんでもかんでも馨子の言ったことに背く」
「す、すみません。で、馨子さんはいったいどうなったのですか」
「体は乗っ取られても、心は明け渡していなかったのだ。だがあなたが太刀を振るったから、馨子は自分の体と心を切り離して止めに入った。体はここにある。一方、心は置いてきたままになった」
よく飲み込めないながら、淳明さまにも馨子が空恐ろしい技を使ったのだと了解できました。
「馨子さん、なぜ止めたのです。生霊であろうと怨霊となりはてるようなモノをかばうことはないでしょう。戻ってください! 馨子さん!」




