その十 走馬灯
第一話
従三位 中納言 源 朝臣 淳明 卿、陰陽師 菅原 馨子に生霊を調伏させたる語
その十 走馬灯
宵闇の中に馨子は寝転がっておりました。
なぜかわかりました、自分は走馬灯を見ているのだ、と。
子供の頃に見たものがパッパッと瞬き、崖から落ちた記憶が見えました。
雨はないのに雷が鳴っていて、知らない老人が助けてくれた記憶。
老人は立派な衣冠束帯姿で、冠に梅の枝を刺していました。
梅の紅が美しかった記憶。
今年も都には帰れない、と母が泣いている記憶。
もう二十年以上、留め置かれたまま。
ここは貧しい下の下国。
除目(人事)では毎回、適任者はいないから新任はなし、ただ留任が決まったと通達が来るばかり。
ここの国司になりたい人間はいないのさ。みんな有力貴族に付け届けをして指名を逃れるんだ。
父が愚痴っていた記憶。
海が逆巻くのが見えた記憶。
不思議な姿をしたモノたちの後について行った記憶。
近所のおばあちゃんの頭に乗っている変なモノを面白がって取ったら、後ですごく感謝された記憶。
僧都が急に、おかしいと言い出した記憶。
女がこんな才能を持っているのは道理が通らぬ。
女の子というものは衣装に埋もれるほどに小さく可愛らしくあるべきところを、見よ、あの女の背の高いこと。
この女は物の怪の類に違いない。
気味の悪い妖術使いめ!
薬師如来にお願いをした記憶。
どうかわたしを京へ、早く上らせてください。そして、もうここに戻らなくてすむようにしてください。
一月後、突然、京の陰陽師がやってきた記憶。
京へ行く日、振り返るとあの薬師如来がぽつんと立っていた記憶。
「走馬灯を見ているということは、僕、死ぬんだ。実感わかないけど」
馨子はちょっとだけ泣きました。
そのままぼんやりしていたら、
「冥きより 冥き途にぞ たどりこし 今ひとたびの 逢ふこともがな」
(歌意:暗い道からさらに暗い道へとたどり来たのです。あなたにもう一度お会いしたいと願って)
遠くから声がうっすらと聞こえてきました。そして、
「ねえ、目を開けて」
はっきりした声がかかりました。
「は?」
なんと、馨子のそばに綺麗な女君が座っているではありませんか。
葵紋の綾織の上品な衣をまとった、右頬、口角の隣に、チャーミングなホクロのある女君です。
「ちょっと身体を貸してくださらないかしら。そうしたら、あなたを元の世界へ戻して差し上げるわ」
「身体を? 貸す?」
意味がわからず戸惑っていると、
「馨子さん!」
淳明さまの声が遠くに聞こえました。
「淳明さま?」
「じゃ、お借りするわね」
女君が言うと、パンっと身体が弾けたような感覚がして、
「馨子さん!」
自分を呼ぶ声が鮮やかに耳に響き、渾身の力で目を開くと、そこは馨子にはひたすらまばゆく、そしてすぐそばに淳明さまと猫の姿がありました。
戻ったの? と馨子は思いました。ところがいざ動こうと思うと体が泥のように重いのです。
「馨子さん?」
体は重いのに、なぜか馨子の口だけがなめらかに開きました。
「いいえ、希子です、淳明さま」
淳明さまがはっと息を呑みました。
そしてみるみる苦しげに顔をしかめ、ああ、とうめき声をもらし、目を強く閉じました。
次の瞬間、馨子は突然ぐらりと目が回るような感覚に襲われ、やっとの思いで眩暈を堪えていると、なんと自分は思い切り淳明さまにかき抱かれているではありませんか。
えー、えー、えー! 待て待て! と、焦っても体は重いままです。
「ありがとうございました。では、約束は果たしましたよ」
さっき出会った口角の右隣にチャーミングなホクロのある女君が、心残りを微笑みに紛らせ、淳明さまの肩に軽く手を触れて、
「おすこやかに」
ささやくと、流れる雲間に月が隠れるように消えたのでした。
「……あ、あ、うう、ぼ……ぼく」
頑張って口を開くと、今度こそ自分の声が出せました。
身体と同じくらい口も思うように動かず、かすれた声しか出ませんでしたが、とにかくそれは自分の声でした。
「よかった、馨子さん、大丈夫ですか?」
馨子は瞬きました。
淳明さまの顔に、さっき見えた苦渋はありません。馨子が無事に戻った安堵だけです。
あの女君は、夢だったのでしょうか。
「起きあがれますか?」
自力で身を起こせるか試そうとしましたが、すぐに力が抜けてしまい、馨子は目を閉じて息を吐きました。
「だめ、みたい」
「当たり前だ。一度魂を遊離させた体をすぐに取り戻せるものか。馨子、無茶にも程がある」
猫が叱りつけました。
「はい。ごめんなさい。師匠」
馨子はゆっくりあたりを見ました。
今はほのぼのと白んできた東の空の山ぎわに、うっすらと紫色に染まった雲がたなびいている、そんなふうに夜が明けようという頃でしょう。
朝の早い鳥たちの啼き交わす声が聞こえてまいります。
みすぼらしい家ではなく宮中で鳴くのこそふさわしいと、さる女房も申しておりました鶯の囀りも鮮やかに聞こえました。
「あの女童は怨霊だったのでしょう? 切り捨てるべきだったでしょうに、なぜあの時、自分の身を危うくしてまで邪魔をしたのですか?」
淳明さまが苦々しく訊ねました。
「申し訳ありません。淳明さまに、自分の母親を切らせるわけにはいかないと思って」
「母だと?」
「はい。あの怨霊は、淳明さまのお母さまの生霊。最初は確信がなかったんです。だから言えませんでした。たぶん今もこの建物の床下に伏籠があると思います。ずいぶん古くなっていると思うけど。それを開けると、小鳥の死骸がまだ多分あるはずですから、それをあなたのお母さまにお知らせして、供養してもらってください。それでこの邸に怨霊は出なくなるでしょう」
「母が、生霊になっていたのか?」
「心残りだったんだと思います。この建物を壊して建て直すと言われて、はっきりとは覚えていないながら記憶の底に眠っていた想い出に胸を痛めたんです。小さい頃に大事な小鳥を自分だけの秘密にしておきたくて隠したけれど、そのまま忘れてしまっていた。自分はあの小鳥を殺してしまったんだ、と。建物が壊されれば、きっとあの小鳥はもう一度お母さまの心の中で殺されてしまう。だから止めたかった」
「では、わたしは、母に刃をむけたのか」
「そうじゃなくて、お母さまは生霊になって、ここで女童の頃を生き直していたのです。淳明さまが立ち切ろうとしたのは、このままでは本当に怨霊になってしまうお母さまの後悔です」
その時、また、鶯の啼き声がひときわ美しく響きました。
「今度、母を連れてきて、供養していただこう」
と淳明さまは言いました。
「そうしてください」
答えて馨子は目を閉じました。




