その十一 さらば、馨子
第一話
従三位 中納言 源 朝臣 淳明 卿、陰陽師 菅原 馨子に生霊を調伏させたる語
その十一 さらば、馨子
「馨子、さらばだ」
三条院の怪異を解決して後日。
数日ぶりに馨子の邸にやってきた覆面作家の中原時実は、開口一番そう言い出しました。
「さらば? なにを言い出すかと思えば、もう! そんなことより時実、相談したいことがあるんだけど。バイトのこと」
馨子はいくつかアルバイトを持っておりました。貴族のパーティーに呼ばれるのもよい収入でしたが、地味ながら固定収入のあるバイトも侮りがたい仕事でございます。
例えば、御守りになる霊符、呪符や護符作り。何より具注暦と呼ばれるカレンダー兼日記帳作りです。
注文主個人個人のために作られた暦には、その人オリジナルの日々の吉凶、特に凶会日(最凶日)、方違のためのよい方位、洗髪の吉日、爪を切る吉日、さらに別料金で人との相性、ラッキーカラー、ラッキーグッズ、年に一度のスーパーラッキーデーマークが入っているスペシャル具注暦なのです。
「それを突然みんなキャンセルするって言ってきたんだよ」
「だろうな」
「困るよ。靭負尉なんて、よくあたるって口コミで広めてくれてて、そちらからの注文も増えてたところなのに。前々から呼ばれていたパーティーも全部来なくていいって使者が来ちゃって」
「馨子。たぶん俺たち、もう、金の心配はしなくていいぞ」
「え? だって、借金まだ返し終わってないよ」
「いや、あれは完済になっていると思う」
「完済? なんで? 時実に臨時特別収入でも入って、ぜんぶ払ってくれたとか? まさかね、そんな都合のいい話」
あはは、と笑うと、
「いや。もっと都合のいい話なんだ。実はな──」
「先日、邸の庭の手入れの前に吉凶を見てもらおうと陰陽師を呼んだら、大変すぐれた人物だったので、これからは我が家の専属にする」
「──と、 源淳明さまが宣言したんだ」
「何それ」
「馨子のことだ」
「えー! 強引! 第一、雇われてないよ! 相談も承諾もなしに発表する?」
「公卿だからな。上流階級あるあるだよ。馨子、なにかアプローチを受けてないのか?」
「あ、あ、アプローチ?」
そういえば、怪異を解決して帰宅した早朝、和歌が届きました。そう、鶯がどうしたこうしたという和歌でした。
とりあえずお礼状だな、と受け取っておいた馨子さんでした。
「なあ、馨子、知っているか、あの方の年収」
「知らない。知るわけないじゃん、他人の年収なんか」
「じゃあ、教えよう。従三位ってことは、たぶん十億はくだらないはずだ。さらに実入りのいい、いくつかの荘園(所領)から上がる収入はその倍はある」
「はぁ? すご。総額いくらになるのかな。それよりそんな大金どうやって使うのか、そちらの方が頭を悩ませそうな数字じゃない?」
「ぜんぜん実感がこもってないぞ」
「だって、実感なんてないもん」
「残念だが『本朝妖草子』も最終回だ。俺にも政治的野心はあるからな」
「え? なんで最終回なの?」
馨子としてはまったく頭が大混乱です。
「昨夜、淳明さまに呼び出されたよ。少納言局の少外記ですね。あなた、馨子さんの邸によく出入りしているようですが、どういったご関係か? と、尋問を受けた」
「なんで? それこそ、それがあの方とどんな関係よ」
「つまり。馨子に近づくなという意味だ」
馨子さん、絶句です。
「わたしの母と彼女の母が姉妹のよしみで借金返済の手伝いをしていたのです、と申し上げたら、それはこちらで処理すると言われた」
時実に事情を説明されて、淳明さまはずいぶん訝しまれたようでした。
「馨子さんはそれほど借金を抱えているのですか」
馨子がつましい生活を送っていたことは見て取れました。
邸には雨漏りの跡があり、御簾は長いこと取り替えられた様子もなく色が悪くなったまま。
あの女君の衣裳も、おそらくは母親か親族のお下がり。
「馨子が作った借金ではございません。実は、亡くなった師匠なのです」
と時実は申し上げました。
陰陽師というのは、学問の徒でもあらねばなりませんでした。
馨子の師は古今の書に目を通し、さらに大陸から渡ってくる書をも求めたのです。
師はそちらへの傾倒が激しい人でもあり、邸には蒐集した書物を収める立派な文殿(書物を収納するための建物)までありました。名付けて芸亭。
「なるほど。師は枕経藉書な方だったのですね」
と淳明さまが深くうなずかれ、時実は「ちんけな、なんちゃら」がなんなのかはわからないながら、「左様にございます」と神妙に答えました。
悪いことに、書を求めた時、師は金銭への注意がすっぽりと抜ける傾向がありました。
師があっけなく亡くなると、馨子には、師匠の邸と貴重な書物、そして膨大な借金が残されたのでございます。
年収十億超えの淳明さまにすれば、馨子には手に負えない借金も微々たる額でございました。キャッシュでオッケーのポケットマネー程度なのでございます。お釣りは取っておきなさい、程度なのでございます。
「ということで」
パンッと時実は叩いた両手を広げ、
「俺たちの借金は綺麗さっぱりなくなった」
「全部、淳明さまが払ってくださったの?」
「そう」
「この前の怨霊退治のお礼に? うわー、慈悲深ーい」
「馨子さあ、淳明さまが何者か、わかっているか?」
「も、もちろんよ。あの方はー、じゅ、従三位? の上流貴族でぇー」
「いや、そこではない。あの若さで従三位という位階の高さが何を意味するか、だ」
「えーっと」
「あの方は蔭子だ」
「お、んし?」
「貴族には蔭位というシステムがあるんだ。普通の律令官人は俺のように最低クラスの位階から出世の道を歩むもの。ちなみに、俺は地下の正七位上だ」
陰陽師は地下の従七位上でございます。
「しかし、父祖の位が高いとその子供は最初からそれだけ高い位階を授けられる」
「えーっと、じゃ、じゃあ、淳明さまのお父さんって、相当、位の高い人って事?」
馨子はおそるおそる訊ねました。
「そうだ。これより上はいない。帝だ」
*枕経藉書
経を枕にし書を藉く。
経書が枕に、書物が敷物になるくらい、部屋いっぱい書物を所有するほどの読書好き。




