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本朝妖草子  作者: 朝霧露風
第一話 従三位 中納言 源 朝臣 淳明 卿、陰陽師 菅原馨子に生霊を調伏させたる語
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その七 結界越え

第一話

従三位(じゅさんみ) 中納言(ちゅうなごん) 源(みなもとの) 朝臣(あそん) 淳明(あつあきら) 卿(きょう)、陰陽師 菅原(すがわらの) 馨子(かおるこ)に生霊(いきすだま)を調伏(ちょうぶく)させたる語(こと)


その七 結界越え

 「来た」

 突然、結界としておかれた式札たちがふるふるっと震えました。

 陰陽師・馨子(かおるこ)が素早く視線を投げた先は、西南の方角。見れば式札たちの動きもそちらの方角に置かれたものが一番大きいようでした。

「淳明(あつあきら)さまはこの結界から出ないでください」

「しかし」

「相手は怨霊です。僕は仕事だから身の処し方はわかっています。でもあなたは危険です」

 陰陽師は仕事となればピンと気が張り、きりりとした空気をまといました。

「勾陳(こうちん)、天空(てんくう)、太裳(たいもう)、貴人(きじん)はこの場の結界を保って、淳明さまをお守りして。あとは僕と一緒に」

 たちまち式札たちがフォーメーションを変えます。結界は四枚の札が四方に配して小さくなり、他の札は馨子の手の中に収まりました。

「行ってきます」

 馨子は立ち上がり、軽々と結界を踏み越えました。小麻呂と呼ばれていた猫も、馨子と一緒に結界を越えてゆきます。

 とたん、馨子の後ろ姿が陽炎(かげろう)のように、あるかなきかにほのめいたように淳明さまには見えたのでございましょう。

「馨子さん!」

 思わず腰を浮かせると、式札たちがわらっと立ち上がりました。結界を越えることへの警告です。

 しかし淳明さまは広くはない結界を、膝立ちからの一歩で踏み出してしまったのでした。

 その一歩で。

 淳明さまの視界ががらりと色を変えたのです。

 確かに夜空に浮かぶ月のさやかな刻限だったはずのそこが、まるで真昼を思わせるまばゆいばかりの光にあふれ、古くなった柱も朽ちゆくままだった建物も、すっかり新築の姿で真新しい木の香を振りまいているのです。

 庭は雑草を刈りとって土塊だらけだったというのに、池には満々と水が張られ、いっせいに初夏が巡ってきたかのような濃い緑で埋め尽くされておりました。

 みっしりと咲き競う花々の彩りの壮絶なこと。

 むっとする草いきれ。

 甘いほどの花の香り。

 濃厚な夏の匂いが満ちていました。

 淳明さまはその圧倒的なまぶしさに眩暈(めまい)を覚えて立ちくらみました。

「淳明さま」

 馨子が戻ってきました。

「結界、越えたのですね」

「申し訳ない、思わず」

「ここは怨霊の領域です。元の世界と重なってはいるけれど、次元が違う。悪いけど、覚悟してもらいますよ。一応全力は尽くしますが、僕にはまだあなたの身まで守りきれる自信はありません。物語の主人公とは違うので」

「仕方がありません。いざという時はわたしにかまわず。わたしにはこれがある」

 淳明さまは腰に手をやりました。そこには立派な太刀がありました。貴族も帯剣する時は帯剣しているのです。

 馨子はきゅっと唇を引き結んで、首を振りました。

「その太刀は絶対に振るっちゃだめです。振るったら淳明さまは後悔します」

 今度こそ言うこと聞いてもらいますからね、と念を押され、淳明さまはいぶかしみながらも陰陽師の顔に何かを読み取ったのでしょう。

「わかりました」

 とうなずきました。


 小麻呂と呼ばれていた猫は、元の世界と強くつながっているのでした。そのため、猫の歩いた跡だけは、元の世界が姿を見せているのです。

 密集するように葉をふくらませる草花の中にそこだけ枯れたように土があらわれ、馨子は踏み誤らぬよう歩き、淳明さまも馨子に続きました。

「鳥が多い」

 馨子が立ち止まり、空を見上げました。

 抜けるような青空がそこにありました。いつも見ている空よりもいっそう深く高く見えました。多くの小鳥が囀りを上げて飛び交っています。

「し」

 唇に人差し指を当てて、馨子が何かを言いかけた淳明さまを制しました。

 庭にうずくまる何かがいます。

「あれが怨霊か」

 ゆらゆらと調子を取って揺れています。それがふいっと立ち上がると、それはあきらかにかわいらしい童女の姿を取ったのです。

「そうです。小麻呂、お願い」

 小麻呂はやる気がまったくないらしく、尻尾をくるっと振ると、座って前足の毛繕いを始めました。

「パーティの時は姿を消すのに、こういう時の留守番は嫌がるよね。うーんと、それじゃあ」

 馨子は淳明さまを振り返りました。

「太刀をお借りしてもいいですか」

「太刀を?」

「はい。抜き身でお願いします」

 淳明さまはよかろう、と、抜刀して、陰陽師に渡しました。

「これが僕にできる最後の手段ですからね」

「馨子、それはまずい」

 足下にいた猫が言葉を発しました。人間の言葉です。淳明さまはぎょっとしました。

「小麻呂が嫌なら仕方ないでしょ。あとは、あの怨霊が僕の手に負えることを祈るだけ」

 馨子は、ずんっと淳明さまの足下にその太刀を突き立てました。

 とたんに、その辺りの草がもろもろと枯れはじめました。かわりに現実で見ていた土塊が姿をあらわし、夏に輝く庭を浸食してゆきます。

 それはちょうど淳明さまが立つ場所を土塊で満たしたところで、姿を大きくするのを止めました。

「結界ですか」

「そうです。怨霊の世界で結界を張るのも大変なんですからね。くれぐれも、出ないでください。すぐ戻ります」

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