その六 怨霊邸
第一話
従三位 中納言 源 朝臣 淳明 卿、陰陽師 菅原 馨子に生霊を調伏させたる語
その六 怨霊邸
「仕事柄、男君と一緒になるのは慣れっこです。あなたさえお気になさらないなら」
と馨子が言うので、一台の牛車に相乗りすることになりました。
乗車は後ろから、下車は前からが正しい牛車の乗り降りの仕方です。また、席順は前方が上席、後方が下席となります。そして牛車には乗る貴人があることを示して、衣裳を少し外に出してみせるのも、作法でございます。
馨子が牛車に乗ると同時に、一匹の、背中は黒、腹は白い猫が飛び乗ってきました。
「あ、小麻呂」
と馨子が抱き上げます。
「この子も連れて行っていいですか?」
よい、と淳明さまはうなずき、まじまじと猫をご覧になりました。
「猫を飼っているのですか。驚きました」
「この子、気がついたらうちにいたんです。それで、小麻呂と呼んでたら、なんだか懐かれちゃって」
猫は舶来の高級品、生きた宝飾品です。
主上(帝)の愛する御猫は、五位の官位をいただいているくらいですからね。よく、紐で遠くへ逃げないようにしているものなのですよ。
「そうですか。小麻呂、小麻呂」
淳明さまが手を出しながら呼んでみましたが、れろんれろんと背中の毛繕いなんかして、猫は知らん顔です。
牛車が三条院の邸に着いたのは、そろそろ夕暮れの色が京に落ちようかという頃でございました。
「ここです」
葎(雑草)だらけだったものを払われただけの門を宿守(建物の管理人)が開け、牛車を邸内に引き入れ、まず淳明さまが車を降ります。お供らは怨霊を怖がるので、全員、門外へ出させます。
続いて車を降りた馨子は、邸の奥へ目をやって首をかしげました。
「ずいぶん静かですね」
「大工たちは怨霊がいる邸を不吉がるので、しばらく休ませましたから」
「え? 大工って? パーティーじゃないんですか?」
「パーティー?」
「はい」
大まじめに馨子がうなずきました。
「怨霊の出る邸に客は招かれませんよ」
淳明さまも大まじめです。
「あれ?」
馨子はいよいよ首をかしげました。
「あの、ちょちょ、ちょっとお待ちを」
さっさと奥へ進む淳明さまを呼び止めます。
「はい?」
馨子はもう一度邸の様子をうかがい、やはり人の気配がないとわかると、
「どうやら本当にパーティーじゃないみたいですね」
「先ほどからあなたは何を言っておられるのか。パーティーだのなんだのと」
「あなたのお母上が陰陽師をお呼びなんでしょ?」
「そうです」
「だからてっきり、僕はパーティーに呼ばれたんだと」
「わたしは邸に怨霊が出るとお話ししたはずです」
「うんー」
馨子は額に手を当てて、
「えーっと、じゃあ、怨霊が出るっていうのは、本当の話?」
「当然でしょう。それ以外の用でわざわざ陰陽師を呼び立てたりはしません」
「あは。そう、そうですよね」
馨子は、ぷっと小さく声をもらしたかと思ったら、堪えきれなくなったのか、声をたてて笑いはじめました。
「あははは」
てっきりまたいつものごとく、と思いこんでちょっとした意趣返しのつもりで女装までしたというのに、ところが今度こそ陰陽師の自分に用があると言われては、今さら自分の突飛な思いつきがおかしくなってしまったのでしょう。
しかし淳明さまの方は何がなにやら。
「どうしたのですか、何がおかしいのでしょうか?」
「ううん。ごめんなさい。こういうのは初めてだから」
なんとか笑いを収めた馨子はようやく顔を上げ、
「ご自分でおっしゃったではありませんか、ありもしない妄言飛語だって」
いえ、 流言飛語、もしくは、妄言綺語、です。
「そうなんです。怨霊は、人がよく口に登らせるほどには姿をあらわしません。でも僕は毎晩引っ張りだこ」
「なぜです?」
「パーティーの余興にね、何か見せろって言われるんです。「地獄の業火にのたうち苦しめ」って決め台詞をポーズつけて叫んだりしたら大喜び。特にご婦人方に招かれることが多くて。てっきり今日もそうだと思ってしまって」
外出の機会があまりない上流貴族の女君たちは、夜通しのパーティーなどが気を晴らすのにちょうどいい催し物でしたし、男君をその目で見る絶好のチャンスでした。
身分の低い、けれど見目のよい陰陽師を侍らせることが最近流行っていると、そういえば淳明さまも耳にしたことがあります。
「では、怨霊退治など頼むのは筋違いだったでしょうか? 母がよい陰陽師がいるからと知り合いにあなたを勧められたらしいのですが、おそらくその方も例の草子を読まれてそうだと思いこまれたのでしょう」
「淳明さまは、ここの怨霊が恐くないのですか?」
「わたしは特に怨霊の気配は感じませんし、害はないですから」
「確かに、ここにいる怨霊に害意はないみたいですね」
「わかるのですか?」
「はい。それが仕事ですから」
この頃の邸は、中央に母屋と呼ばれるメインルームがあり、その周りをぐるりと廂の間(広い廊下)が取り囲み、さらにその外側を簀子(縁側)が囲む造りとなっております。
馨子は廂の間(広い廊下)で、式札を取り出すと、ふっと息を吹きかけ、ちゅうへ飛ばしました。
青龍
六合
勾陳
騰蛇
朱雀
大裳
白虎
大陰
天空
天后
玄武
貴人
式札たちがサラサラと飛び、東西南北も正確に、円に並びます。
「方位と呼応しているんです。念のための結界です。ここから出ちゃダメですからね」
馨子はすとんと結界の中に座りました。
「出てくるのを待つのですか?」
「はい。いくら害意はない相手でも、無理に引きずり出したりしたら機嫌を損ねてやっかいなことになりかねません」
「そうですか」
結界はそれほど広くはありませんでしたが少し距離を置いて二人座れるくらいはありましたので、淳明さまは結界の端へ寄って座りました。
陰陽師が連れてきた猫も、背中の黒い毛並みを艶々と波打たせてやってきました。四つの白い足先から、白雲の上を飛ぶ黒い龍のよう、とでも貴人が日記に記しそうです。
陰陽師は猫に、
「おとなしくしててよ」
と言い聞かせ、猫はふぅっと、まるでため息をついたような鳴き声を出して馨子の顔を見上げました。なにか思うところがある様子ですが、猫は人の言葉を話せませんからね。
邸は久しく人が住まなかったため、がらんとしています。欄干なども朽ちてきており、板張りの 簀子(縁側)も歩くとギシギシ鳴ります。庭に目をやれば手入れのないそこは実に荒れ果てていて、それもまた風情と言ってしまうには情緒のない様子です。
「いつのまに蓬がもととむすぼほれ」
などと淳明さまがつぶやかれました。古歌でございますよ。平安貴族はこのように、その場に相応しい古歌などをつぶやいてみせるものなのです。
そうして待ちくたびれてくると、さすがにこんな場所に座ったままじっと無言というのもどうかと、淳明さまは懐から横笛を取り出されました。この方は横笛の名手なのでございます。
「気晴らしに一曲」
静かな時間を楽の音で楽しむくらいは貴族のたしなみでございますからね。淳明さまのご自宅には、銘を持つたいへん上等な品がいくつかありますが、今は携帯用。
とは言え、春の夜、澄んだ美しい笛の音がはるか天にまで届いて、夜空に響き、星々を冴え渡らせるような、素晴らしい演奏でございました。




