錬金術師の初作戦はどうやら前途多難なようで
夜の帳が下りた公爵邸は、まるで氷海へと沈みゆく霊廟のように静まり返っていた。
暖炉の松薪は燃え尽き、灰の下で数片の赤黒い炭が細々と息をつないでいる。時折パチリと爆ぜる微かな音も、重厚なベルベットのカーテンと羊毛の絨毯に瞬く間に吸い殺されていく。
窓の外では北境の吹き荒ぶ寒風が、三重の防御魔法陣で補強されたステンドグラスを叩きつけ、邸宅の内部と外の生気を冷酷に隔絶していた。
ここには、普通の貴族邸にあるべき宴の喧騒や使用人たちの慌ただしい足音はない。長い廊下には十歩ごとに微弱なエーテル壁灯が灯り、その青白い光が冷たい大理石の床に落ちて、強張り引き伸ばされた光斑を落としている。
空気には奇妙な匂いが混じり合っていた。高価なシダーウッドの香、巡回する騎士たちの甲冑に塗られた乾ききらない防錆油、そして日毎に石の隙間へと染み込んでいった安眠草の残り香。
主寝室の豪奢さは、息が詰まるほどだった。天蓋付き四柱ベッドの周りに垂れ下がる深紫色のカーテンは、まるで檻の鉄格子のようにも見える。
ルシアは過剰なまでに柔らかい羽毛布団の中に横たわり、目を固く閉じ、睡眠薬に抑えつけられたかのような重く滞った呼吸を演じ続けていた。
だが、その眠れるような平穏の皮膜の奥底で、錬金術の回路は彼女の血管と神経の隅々でとっくに音もなく駆動していた。
布団の深みで、手のひらほどの機械梟刻刻が冷たい真鍮の翼を収め、胸の奥に極限まで微縮されたゼンマイ歯車をほぼゼロデシベルの頻度で噛み合わせている。
寝室のわずかな空気の揺らぎ、窓の外を行き交う警備兵の規則正しい軍靴の音、結界の縁に走る極微の乱れ——それらすべてを冷徹なデータへと変換し、覚醒した彼女の神経へと静かに打ち込んでいた。
ルシアが意識を取り戻してから、すでに数分が経過していた。
彼女は慎重に両瞼を閉ざしたまま、薬物に麻痺したふりをして緩慢な呼息を保ち、全神経を両耳へと集中させていた。
この公爵邸は実に厄介な立地に建っている。昼間の陽光があるうちはまだ温もりを感じられるが、高標高に位置するため、ひとたび夜を迎えれば極端に気温が急降下するのだ。
北境の極寒に凍てついたような公爵邸の静寂の奥から、肉を裂く鈍い音と、激しい刃打ちの音がかすかに伝わってきた。
それは通常の護衛による訓練などではない。剥き出しの殺意が交錯する命懸けの死闘の余波が分厚い石壁を伝い、彼女のうなじに鳥肌を立てさせた。
錬金術を用いて自保の切り札をかき集めてきたとはいえ、こと「実戦経験」について言えば——厳密に誇れる履歷など、前世で高位の火球術に胸を貫かれた臨死体験くらいのものだ。
あの一撃の拡散熱、筋肉が炭化する焦燥の悪臭、高熱で神経が引き裂かれる激痛の感触なら、論文のような詳細なレポートを何万字でも書けるだろう。だがそれ以外、命の奪い合いに対する理解など無いに等しかった。
前世の公爵邸での三年間、彼女は一体何度、知らぬ間に薬で昏睡させられていたのだろうか。
当時の彼女の頭には、カリーナの重圧を分かち合いたい、ルーカスを立派に教育したい、そしてあの高嶺の花をいつか手にしたいという分不相応で哀れな妄想しかなかった。
自己陶酔に浸るあまり、あまりにも多くの致命的な綻びを見落としていたのだ。
現代社会で果てしない残業に削られ、寝返りを打つだけで目を覚ますほどの浅眠だった社畜が、この危険に満ちた異世界に来てから「毎晩朝まで熟睡できる」などということがあり得るだろうか。
今思えば、失笑してしまうほど皮肉な話だ。カリーナは最初から、彼女の食事や香に微量の安眠毒を混ぜていたのだ。
理由は至極単純だ。公爵邸は政争の嵐の中心であり、刺客や死士の襲撃など日常茶飯事に過ぎない。腕力もない平民の家庭教師がパニックを起こして逃げ惑えば、人質になるか、近衛騎士団の足を引っ張る邪魔者になるのがオチだからだ。
彼女を完全に眠らせ、一番安全な物置部屋に放り込んでおくことこそ、あの冷酷な女大公にとって最も効率的な処理だった。
空気の中に、ごく微かな鉄錆の匂いが滲み始めた。
ルシアの骨の髄にまで刻まれた匂いだ。前世でこの匂いに親しんだのは己の血を流し尽くしたからだが、今夜の血煙はおそらく、カリーナの佩刀から絶え間なく滴り落ちているものだろう。
帝国の北境を統括し、死線の中で武名を轟かせた女武神が、奥殿に忍び込んできた程度の刺客に討ち取られるなど、それこそ滑稽な冗談に過ぎない。
カリーナが外周で足止めされている今、内殿の結界には一時的な魔力の空白が生じていた。
(……この混乱に乗じて、窓から逃げ出してしまうべきか?)
その考えが脳裏を掠めた瞬間、軽薄な笑みを帯びた柔らかな声が、何の前触れもなく薄暗い寝室に響き渡り、彼女の擬態を粉々に打ち砕いた。
「公爵邸の貴賓様は、眠ったふりをしながら外の殺し合いを盗み聞きするような臆病者だったわけ? お堅い家庭教師の面構えをしてる割に、腹の底じゃ随分と小賢しいことを考えてるじゃない」
ルシアの心臓がわずかに跳ねたが、神経は乱れなかった。
悲鳴を上げることもなく、彼女は静かに、緩やかに瞼を持ち上げた。
窓枠が無音のまま細く開かれ、雪片を交えた夜風が室内に吹き込んでいた。逆光の窓枠の上に、深灰色のフード付き風衣をまとった女刺客が気だるげに腰掛けている。
指先で蝉の羽のように薄い漆黒の短刃を弄びながら、ベッドの上のカナリアを興味深そうに見下ろしていた。
布団の下で、ルシアは脱力させた左手を密かに動かし、シーツの奥にある機械の歯車へと錬金術の回路を忍ばせた。
しかし、その表情は退勤時間を待つだけのような冷淡さを崩さない。
「しがない週給雇いの家庭教師ですから。雇用契約に、雇用主の巻き添えを食らうリスクまで負うなんて条項はありませんよ。命を賭ける義理がどこにあります?」
貰った給金の分だけ働き、それ以上の献身など命の無駄遣いに過ぎない。他人のために我が身を焼き尽くす安っぽい熱血など、前世に置いてきた。今世では爪の先ほども味わいたくはない。
だが、窓枠の女刺客はその率直な自嘲に刃を収めはしなかった。それどころか、指先の短刃が鋭い残影を描き、瞳の奥のからかいは隠しようのない冷酷な殺意へと塗り固められていく。
どうやら、この深閨に踏み込んできた招かれざる客は、生かして帰す気など微塵もないらしかった。
「あの冷血な公爵様、アンタのことをずいぶん気に入ってるみたいじゃないの。なら、手足の筋でも切り落として、引きずって連れて行けば、いい脅しの交渉材料になるんじゃない?」
女刺客の軽薄な台詞が落ち切る前に、その周囲で耳を劈く風切り音が爆発した。暴風がカーテンを瞬時に引き裂き、女の姿は肉眼では追えない灰色の残影と化して、ルシアの喉元へと一直線に短刃を突き出す!
錬金回路の励起によって加速したルシアの思考は、確かに神がかった反応を見せた。しかし——過酷な鍛錬など一度も経験したことのないこの社畜の肉体は、過負荷で回転する頭脳に何一つ追いついていなかった。
脳内シミュレーションでは、前世のアクション映画のエージェントのように、仰向けの状態からしなやかに両脚を跳ね上げ、両手でシーツを鋭く突き放して華麗な「ライジング立ち」を決め、戦術的ディスタンスを稼ぐはずだった。
しかし現実は無情だ。彼女の体幹は哀れなほど脆弱で、腰に力を込めた瞬間にあっけなく力が抜けた。
「ドスッ!」と間抜けな鈍音が響く。
彼女は滑稽なほど不恰好に、毛布ごとゴロゴロとベッドの縁から転がり落ち、柔らかい脇腹をもろに大理石の床へ叩きつけた。激しい痛みにルシアは息を呑み、涙が滲むほどの激痛と己の不甲斐なさに心の中で罵詈雑言を叫んだ。
だが、プライドを痛めている猶予はない。
床に転がった刹那、ルシアの瞳に鋭い光が宿り、神経と直結した指先の錬金回路が一斉に点灯した。
——出番よ、刻刻!
ベッドの柱の陰に潜んでいた機械梟は、ルシアの声など待たず、胸中の微小歯車から金切り声を思わせる高周波を噴き上げた。
女刺客が疾走する軌道上に急制動をかけ、極限まで小型化された魔動力コアを中心に、虚空へと不可視の指向性耐衝撃力場を幾重にも展開する。
超高速で突っ込んできた女刺客は、何もない空間に突如として障壁が立ち上がるとは夢にも思っていなかった。超音速の推進力は、コンマ数秒のうちにそっくりそのまま彼女自身へと跳ね返された。
バキッ——!
耳障りな鼻骨の粉砕音が寝室に木霊した。
宙に鮮血の放物線を描きながら、女刺客はまるで暴走トラックに正面から轢かれたかのように、突撃時以上の猛烈な勢いで吹き飛んだ。
背後の高級ウォールナット製クローゼットを派手にぶち破り、木屑と衣服が嵐のように舞い散る。
その瞬間、脇腹を押さえて床からよろよろと起き上がったルシアの脳裏を、第一世の記憶がよぎった。夜中の峠道でアクセル全開にしてカーブを曲がりきれず、対向車線の大型ダンプに正面衝突した暴走族の凄惨な現場だ。
……痛い。見ているだけでこちらの鼻の奥までツンとしてくる。
「ゲホッ……この……小賢しい真似を……ッ!」
瓦礫と化したクローゼットの中から、女刺客は血まみれになった顔面を手で押さえ、木屑を払いながらよろめき立ち上がった。
凄まじい一撃だった。この魔力至上主義の世界において、戦士も魔術師もエレメントの障壁や闘気の爆発といった、分かりやすい光と波動を伴う戦闘スタイルに慣れきっている。
一方で錬金術師など、薄暗い部屋で薬を調合するばかりで戦う力など持たず、騎士に守られるべき「脆弱なマスコット」に過ぎないのだ。
誰が予想できただろうか。おもちゃのような鉄の鳥に高度な錬金回路の魔動力炉を仕込み、瞬時の防壁として顔面を叩き割ってくるような外道がいるなどと。
世間が錬金術に対して無知だからこそ、ルシアのような非力な凡人にも、格上を相手にダメージを交換する勝機が生まれる。
相手が自分の切り札と戦術メカニズムを理解していない限り、たとえ先手を取られようとも、後攻捲りを得意とする彼女の盤面支配は揺るがない。
女刺客は砕けた歯の混じった血を吐き捨て、目の前の華奢な少女を射殺さんばかりに睨みつけた。
今、ルシアは左手を水平に掲げ、手のひらを上に向けていた。
深褐色の型押しハードゴートスキン(山羊皮)で装幀され、古い羊皮紙を綴じ込んだ重厚な錬金手札が、彼女の手のひらから三寸ほど浮遊した状態で静かに開かれている。
ルシアの指先は強い青光を放つ紙面に触れていないが、その細い左手首の周囲には、ダイヤのような五つの高純度魔力水晶が規則正しいリズムで緩やかに旋回していた。
「……まともな魔法詠唱じゃないね。からくりの類で動かす術式コアかい?」
女刺客の殺意に満ちた目が細められ、荒い呼吸の中に警戒の色が濃くなる。
「手首の周りを回ってる水晶……それがそのボロ本から術式を撃ち出すエネルギー源ってわけだ?」
ルシアは無表情を貫き、青白い顔には眉ひとつ動かさず、まるで相手の推測を肯定するかのように佇んでいた。
女刺客の読みはおおむね正しい。ルシアの肉体に宿る魔力の絶対量は涙が出るほど乏しく、手札に刻まれた規格外の錬金術式を自前の魔力だけで乱発すれば、二回も持たずに魔力枯渇でショック死するのが関の山だ。
だからこそ、彼女は社畜の「節約と事前予算化」の習性を極限まで研ぎ澄ませた。孤独な不眠の夜を幾度となく重ね、微弱な魔力を限界まで圧縮し、マガジンに弾丸を込めるように「高密度魔力バッテリー」としてこの五つの水晶へと凝縮しておいたのだ。
実戦においては、魔力水晶を一つ消費することをコストとして、手札から無詠唱で術式を発動し、強力な術を瞬時に成立させることができる。
女刺客はそれ以上の無謀な突進をやめ、重心を低く落として手負いの獣のように影の中を旋回し始めた。
戦況は完全な膠着状態へと陥る。
ルシアの心拍数は一分間に百四十を超えていた。表面上は彫像のように冷静を装いながら、脳内では前世のあらゆるゲーム理論をフル回転させていた。
相手の次なる物理的軌道と隠し技を完璧に先読みしなければならない。脇腹を打っただけで悲鳴を上げているこの脆弱な身体では、相手の刃がかすっただけでも致命傷になりかねないのだから。
一方、女刺客は影の中から、ルシアの手首を回る水晶が突如として五つから六つへと増えた異変を凝視していた。
そして、冷徹な金属光を放ちながら少女の傍らを静かに旋回する奇妙な機械梟。次の突撃で、あの奇怪なカナリアの「射程限界」と「魔力水晶の装填速度」を暴き出さねばならない。
互いの思惑が交錯する中、情報格差を巡る命懸けの盤上遊戯が、荒れ果てた主寝室で火蓋を切ろうとしていた。
女刺客は暗がりの中で目を眇めた。鼻柱に走る激痛に耐え、顎を伝って血が滴り落ちていながらも、その瞳の残虐さは次第に貪欲と興奮の熱に呑まれつつあった。
彼女は目の前の黒髪の少女の底をすっかり見透かしていた。
ルシアがベッドから転がり落ちたあの無様な動きは嘘をつかない。強張った手足、頼りない重心——近接戦闘の訓練など一度も受けたことのない典型的な素人の肉体だ。そして何より、この世界の残酷な「魔力天賦論」がその根拠だった。
生まれ持った魔力回路には、生まれながらにして優劣の烙印が刻まれている。天賦の才を持つ者は太く純粋な単一の主幹回路を持ち、高圧の奔流のごとく魔力を解き放って、一騎当千の魔導騎士や典範法師として君臨する。
一方で才能に恵まれず、先天回路の細い劣等者は、魔力至上主義の世界で生き残るため、過酷な鍛錬の末に体内に歪な第二の補助回路を無理やり削り出すしかない。
だが、「二重回路」は両立の天才などではなく、上限を塞がれた出来損ないの証だ。
人体の許容量には限界がある。体内で二つの回路がせめぎ合えば、魔力の分散と神経の摩耗を引き起こし、単一回路のように極致へ至ることは決して叶わない。
それゆえ、錬金術師は帝国の階級社会において侮蔑の対象となってきた。
錬金術師のみならず、第二回路を通じて自然に力を乞う精霊術師、煩雑な手引きを要する呪文師、糸と金属を弄ぶ人形師、そして陣列の計算に明け暮れる結界術師——天賦の劣等生である二重回路の持ち主たちは、揃って表舞台に立てぬ補助職や工匠の枠に押し込められている。
純粋な破壊力でねじ伏せる単一回路の怪物たちの前では、彼らの成長限界はあまりにも低く、常に頭を押さえつけられてきたのだ。
だというのに、目の前に立つ社畜の疲労感を漂わせたこの少女は、世間が欠陥と見做す二重回路を駆使して、背筋が凍るほどの冷徹なプレッシャーを放っている。
女刺客は指の背で口元の血糊を乱暴に拭い、血に染まった刃先を弄んで冷たい弧を描かせた。その口元が、狂気じみた尖った笑みへと吊り上がる。
「へぇ……生きてて初めてお目にかかったよ、こんな骨のある錬金術師なんてさ」
身を低く沈め、暗闇の中で肉食獣のような光を宿した瞳で、ねっとりと、獲物を嬲り殺すような声音を漏らす。
「ねえ、もっとアタシと遊んでよ。おもちゃの鉄の鳥でアタシの鼻をへし折るような『マスコット』なんて……滅多に拝めるもんじゃないからさぁ。今すぐあっさり首を掻っ切っちゃうなんて、勿体なさすぎて死んでも死にきれないよ」
「……イカれてる」
ルシアは小さく毒づき、微かに眉をひそめた。
純粋な殺戮の衝動や命を捨てる覚悟だけで言えば、長距離走すら息切れするこの脆弱な身では、己の血を舐めて笑うような破滅者には到底敵わない。
だが、「リソースの交換」と「後攻捲り」を骨の髄まで叩き込んできたカードゲーマーとして、狂気などなくても勝負を制することはできる。必要なのは、コンマ秒単位の正確なカウンターだけだ。
刺客の殺気立つ視線を受けながら、ルシアの手首を回る菱形の結晶のうち二つが、唐突に眩い光を放った。
パキィン。
高密度の魔力を蓄えた二つの水晶が無音で破砕し、細かな蛍光の粉末へと弾け飛ぶ。暴走する魔力は彼女の神経中枢を通ることなく、直下に浮かぶ深褐色の錬金手札へと乱暴に吸い込まれていった。
その瞬間、ルシアを中心とした数メートルの空間で、目に見えるほどの激しい大気の歪みと微小な空間崩壊が巻き起こり、暖炉の微かな炎すら奇妙な軌道を描いて屈折した。
だが、わずか半秒後、その不気味な異象は幻であったかのようにピタリと収まり、室内には再び息の詰まるような静寂が戻る。
浮遊する手札は複雑な幾何学模様が刻まれた頁へとめくられ、羊皮紙の上に淡い魔力の残滓が妖しく明滅していた。
女刺客の足が止まり、瞳の奥に極限の警戒を走らせてさらに身を屈めた。目の前の空間の変質は察知できたが、目に見える防護障壁も、具現化した属性のチャージ痕跡もない。未知こそが、暗殺者にとって最大の脅威だ。
彼女には知る由もなかった。ルシアが自分の足元に、互いに噛み合う二つの「トラップ術式」をすでに敷設し終えていたことを。
獲物がこのマークされた領域に再び足を踏み入れた瞬間、不可逆の連鎖が炸裂する。
本来、ルシアの手札には狭い室内で微小な真空崩壊を引き起こす必殺の術式も用意されていた。だが、水晶が砕け散る刹那の閃きの中で、その冷徹で功利的な脳髄が損得勘定を弾き出したのだ。
殺してしまえば、せいぜい公爵邸の兵士に片付けさせるだけの無用な死体に過ぎない。だが、奥殿への潜入に成功した刺客を生け捕りにできれば——カリーナとの交渉材料にするにせよ、「内通の嫌疑」を晴らすにせよ、あるいは黒幕の情報を吐かせるにせよ、得られる純利益はただ鬱憤を晴らすよりも遥かに高い。
罠は、音もなく張られた。
手札を支えるルシアの左腕は微動だにせず、蒼白な顔には何の隙も見当たらない。ただ冷淡に、どこか見下すような冷徹な眼差しで、向かい合う血に飢えた獣の次なる跳躍を静かに待ち構えていた。




