血染めに咲き誇る鮮やかな薔薇と、残酷なる砲撃
狂暴を極めた冷却白煙の帳は、未だ地底の底冷えする空気に溶け切っていなかった。
しかし、その不透明な白濁を乱暴に切り裂き、常軌を逸した質量を宿す影が這い出る。
刻刻の巨腕——地底平原を覆う万丈の天蓋すら完全に遮蔽せんばかりの黄銅の腕が、低く獰猛な歯車の唸りを撒き散らしながら、凄まじい勢いで濃霧を掻き毟るように探り出た。
ガガガガ、ギチチチチ——ッ!
重工業の極致とも言える不穏な機械音が、岩盤の奥深くまで共鳴する。
予備動作など存在しない。敵に態勢を整えるための猶予など、刹那の千分の一秒すら与えるつもりはなかった。
巨神の腕は、無数の反射鏡面と過剰なまでの重装甲板で隙間なく覆い尽くされている。
その二本の大腕は、神話の巨人が世界を握り潰すかのような、抗いようのない絶対的な運動エネルギーを孕み、中空へと一直線に射出された。
狙いは、血霧の粒子をかき集めてまさに肉体の再構成を完了したばかりの、あの忌まわしき堕天使。
それは魔術の儀礼などという生易しいものでは断じてない。
純粋なる機械の暴力、質量と動能の絶対行使、そして微視的破壊の法則によってのみ規定された、冷酷非情極まりない野蛮な処刑劇の幕開けであった。
バァンッ!
空気を圧搾する重低音とともに、刻刻の左右の鋼鉄掌が合わさり、堕天使の華麗なる漆黒の双翼と、大理石のように完璧な筋肉をたたえる両肩を、逃げ場のない檻のように万力で挟み込んだ。
次の瞬間、金属の鉤爪がその神造の肌に触れた刹那——
キィィィィィィィィィィン——————ッ!!
地底の空気を細断し、鼓膜を直接針で貫くような、異常なまでの超高周波共振音が十本の指関節の奥底から爆ぜた。
それこそが、ルシアの手によって刻刻の爪先へと組み込まれた極限の装甲破砕機構——每秒数百億回に達する分子間共振振動である。
如何なる硬度を誇る金属であろうと、如何なる神聖結界であろうと、この宇宙を構成する素粒子が電磁気力で結びついている限り、その結合周期を乱数で揺さぶれば物質は瓦解する。
神造の肉体が誇っていたはずの、絶対不可侵の抗性と高密度防護力場。それはこの微観の嵐の前にあっては、まるで数百年風雨に晒された朽ち木のように呆気なく脆かった。
天使の体表を薄く覆っていた防御魔力の膜は、接触した零点零一秒の後に粉砕された。
毎秒数百億回の超高速摩擦が巻き起こす局所的な超高温は、神聖な皮膚の表面を瞬時に炭化させ、青白い閃光のプラズマ電弧を円環状に撒き散らす。
プシューッ! ギギギギギッ!
内部の活塞と液圧シリンダーが、設計マージンの限界を越えて悲鳴のような高音を絞り出す。
刻刻の十指は、バターに焼けたナイフを突き立てるかの如き容易さでその神聖な肉を裂き、筋繊維を断ち割り、深々と侵入した。
指先は肋骨の隙間を潜り抜け、硬質な肩甲骨と脊柱の基部を鋼鉄のフックのように裏側からガッチリとロックする。
そして——逆方向への、純粋な牽引力の解放。
ベキィッ、メリメリメリ——ッ!!
人の耳朶をこれでもかと逆撫でする、湿った獣肉の引き裂き音と骨の折損音が、地底世界の静寂を乱暴に蹂躙した。
引き千切られる。整然とした切断ではない。野蛮極まりない張力によって、肉体が耐え切れずに破断しているのだ。
漆黒の羽を広げていた翼の付け根は、超高周波の振動に晒されて瞬時にミンチへと変わり、噴き出す金色の神血と赤黒い血漿を周囲へと撒き散らしながら、生きたまま骨ごと外側へと引き抜かれた。
左右の広背筋と大胸筋が、限界まで引き絞られた弓弦のように白く硬直した直後、繊維の束が一本、また一本と爆ぜるように断裂していく。
傷口からは、白く濁った神経束と、捩じ切られた白亜の脊椎骨の断面が、生々しい棘となって外気へと露出した。
堕天使はあまりの激痛に、叫び声を上げることすら許されない。
呼吸のための気管が、刻刻のもう片方の爪先によって無慈悲に圧殺されていたからだ。
巨神の加虐は、一ミリ秒の淀みもなく連撃へと移行する。
高周波で空気を焦がす鋼鉄の掌が、今度は仰向けに固定された天使の胸骨の中央へと叩きつけられた。五本の鉤爪が深く突き刺さり、熊手のように肋骨を内側から外側へと——力任せに引き裂く。
グチャアッ!
胸腔が、まるで無理やりこじ開けられた鋼鉄の扉のように両側へと跳ね上がった。
高圧排気バルブの轟音とともに、粉砕された胸骨の破片、千切れ飛ぶ肺と心臓の肉塊、そして光の粒子を高濃度に溶かし込んだ神血が、周囲の焦げた玄武岩の平原へと、血のスコールとなって狂乱の勢いで降り注ぐ。
それは、再生を誇る不死の存在に対する、最も冒涜的で徹底的な物理的解体。
神々しさを保っていた肉体は、超高周波振動爪の執拗な反復と蹂躙の前に、ピクピクと神経を痙攣させるだけの、床一面に散乱した肉片と骨の屑へと堕とされていった。
——しかし。
物理法則の適用が如何に暴虐極まりないものであろうと、因果律が清算する代償は、寸分の狂いもなく、冷酷に回帰する。
【受難同調】。
神話の時代より刻まれた、不条理にして無謬の防衛コード。
ドォォォォンッ! ガシャンッ! バリィィィンッ!
ルシアの全身を辛うじて包み込んでいた、幾重もの水銀偏折被膜。
その蜂の巣状に展開された幾何学鏡面が、一斉に断末魔のような破砕音を響かせた。
物理衝撃を位相空間へと逃すはずの偏折率は、この因果の反傷の前には完全に無力化されていた。
まるで、天から不可視の破城槌を正面から叩きつけられた薄氷のように、被膜は一撃でその構造を維持できなくなり、キラキラとした銀色の金属粉となって虚空へと霧散していく。
防ぎようのない「肉体を裂かれる激痛」が、物理的な距離など嘲笑うかのように、ルシアの小さく華奢な肉体へと直接かつ精密に転写された。
「ッ…………く、あ…………っ!」
ルシアの喉の奥から、噛み締めた奥歯の隙間を割って、掠れた悲鳴が漏れ出た。
彼女が身に纏っていた黒の法衣は、右肩から胸元にかけて一瞬で弾け飛んだ。
その下に隠されていた、陶器のように滑らかで青白い肌。そこへ、まるで不可視の獣が爪を立てたかのように、骨に達するほどの深い亀裂が三筋、四筋と同時に走り、肉が外側へと捲れ返る。
ドッと溢れ出す、生温かい赤の奔流。
鮮血は彼女の細い鎖骨を濡らし、胸元を伝い、腹部から太ももへと滴り落ちて、立っている足元を赤黒い池へと変えていく。
さらに、背中の筋膜と神経が引き抜かれるような灼熱の激痛が遅れて襲いかかった。
内臓が裏返るような衝撃に、ルシアの視界がチカチカと明滅する。喉元へと逆流してきた濃密な赤黒い吐血を堪え切れず、彼女の薄い唇の端からタラタラと血が零れ落ち、床の岩盤を濡らした。
痛い。痛いなどという言葉で表現できる領域を疾うに超えている。
皮膚を生きたまま剥がされ、骨をペンチで砕かれているような錯覚。
彼女が手札の魔導式を回して被膜を再構築するそばから、因果の伝播はその膜をペラペラの紙屑のように食い破っていく。
この多重水銀被膜は、ルシアが計算し尽くした最高峰の防御術式だ。
それが辛うじて果たしている役割は、「内臓が一瞬で弾け飛んで即死する」という致命的な物理ピークを、なんとか「極限の重傷」にまで引き下げることだけ。
神経を一本ずつ焼き切られるような、肉体を削ぎ落とされるような、この生き地獄の苦痛そのものを相殺することなど、原理的に不可能だった。
ギチ、ギチ、と彼女の細い骨が悲鳴を上げる。
極度の失血と神経毒にも似た激痛のせいで、ルシアの膝は小刻みに、みっともないほど震えていた。
今すぐにでも力を抜いて、温かい血溜まりの中に倒れ込んでしまえば、どれほど楽になれるだろうか。
——だが、彼女は倒れなかった。
その小さく青白い顔のどこを探しても、死を目前にした人間が浮かべるはずの「恐怖」や「絶望」の色は、欠片すら見当たらなかった。
右手はだらりと脱力し、指先からはとめどなく血が滴り落ちている。
しかし、彼女の左手だけは——まるで虚空に鋼鉄の杭で打ち付けられたかのように、ミリ単位のブレすらなく、胸の高さに掲げられていた。
飛び散った自らの返り血と冷汗で赤黒く染まった、その小さな左の掌。
その真上には、彼女の頭脳であり、命であり、戦術の全てである【錬金手札】が、重力を失ったかのように静謐に浮遊している。
手札の表紙に刻まれた複雑怪奇な幾何学魔導アレイは、過負荷による発熱をものともせず、極限の回転速度で噛み合い、明滅していた。
そこから放たれるのは、周囲の血生臭い空気すら一瞬で凍りつかせるような、冷徹で、刺すように鋭い幽藍の光。
その冷酷な青の輝きは、血と泥に塗れたルシアの幼い面輪を、地獄から這い出た修羅のように青白く照らし出していた。
血走った彼女の深緑の瞳は、底の見えない氷の深淵そのものだった。
肉体の崩壊。神経が上げる狂乱の悲鳴。
その全てを、彼女の冷え切った前頭葉は「ただの背景ノイズ」として冷酷に切り捨て、処理していた。
痛覚の信号など、盤面を計算するための数値の一つに過ぎない。
その緑の双眸の奥底で渦巻いていたのは、正気と狂気の境界線を踏み越えた、絶対的な理性であった。
ルシアの視線は、刻刻の掌の下で挽肉のようにすり潰され、それでもなお金色の微光を纏って肉芽を蠢かせ、恐るべき速度で復元を開始している堕天使の残骸に、ただ一点に固定されていた。
荒れ狂う心拍数とは裏腹に、彼女の思考回路は、極寒の夜に稼働する計算機のように淡々と数字を弾き出す。
(一度目の解体。超高周波による分子レベルの結合破断も、システムは『ルシアによる攻撃』として正常に認識。反傷のフィードバック率は正確に百パーセント。ただし、伝播に零点零二秒のタイムラグを検知……)
(二度目の粉砕。標的の肉体再生プロセスに阻害効果は発現せず。反傷のエネルギー密度に減衰は見られないが、ラグは零点零五秒へと微増した……)
彼女は、自分自身の肉と骨を、そして残された寿命の滴を、天秤の上の分銅として使っていたのだ。
普通の人間であれば、初手の反傷を受けた時点で精神が焼き切れ、床に這いつくばって許しを乞うだろう。
だがルシアは違った。彼女は自分の神経が焼き切れる寸前の限界値を冷徹に見極めながら、堕天使が誇る「無敵のルール」の装甲板を、何度も、何度も、内側から叩いてその厚みを測っていた。
暴かなければならない。
この受難同調というシステムが担保している因果のプールの底には、果たして「オーバーフローの限界」が存在するのか否か。
神が遺したこの自動修復プログラムは、刻刻の暴力的な蹂躙に対して、何サイクルの連続稼働に耐え切れるのか。
ルシアのこの冷酷さは、決して無知ゆえの蛮勇などではない。
もし彼女が並の魔術師であったなら、この絶対にダメージを返してくる理不尽な守護者を前にして、とっくに戦意を喪失していただろう。
しかし彼女は、最初から最後まで、この詰み盤面を構成している「システムの基本コード」を、冷徹なハッカーの手つきで逆アセンブルし続けていたのだ。
振り返れば、最初の手札からしてそうだった。
ルシアには、正面からこの怪物と殴り合う気など毛頭なかったのだ。
彼女が初手に切ったのは、【魔法術式・異次元への片道切符】——虚空の座標を無理やり歪め、現世の如何なる空間とも接続しない「虚数空間」への裂け目を穿つ空間追放術式。
刻刻の巨腕によって、堕天使をそのまま虚無の深淵へと放り込み、カードゲームで言うところの「除外(Banish)」によって戦闘そのものを無効化しようと試みた。
だが、計算は狂った。
虚数空間を永久に漂うはずだった神造の兵器は、まるで世界の底に固定されたアンカーに手繰り寄せられるかのように、ほんの数秒後には、神殿の中央に鎮座する古代の石碑の影から、平然とした足取りで歩み出てきたのだ。
除外による追放——無効。
ならばと放った次の一手。視界の死角を突いて超音速で撃ち出した【破城の聖騎巨槍】。
攻城兵器の丸太のように無骨な物理の槍に見せかけながら、その実態は空間と物質を極限まで励起させて解離させる、純粋なる「光の概念魔法」。
直撃した対象を原子、さらにはクォークのレベルにまで瞬時に分解し、存在そのものを消滅させる不可避の消去攻撃。
しかし、その結果もまた、血の滲むような絶望であった。
消滅させられたはずの堕天使の肉体は、聖なる光の粒子を収束させて何事もなかったかのように再結晶化し、直後にルシアの胸骨を軋ませた激痛が証明したのだ。
物理的な破壊痕を伴わない「概念の分解消去」であろうと、世界の裁定システムは等しくそれを「ルシアが与えた苦痛」として計算し、受難同調のリストへと計上してしまうのだと。
物理的な粉砕は通じない。
概念的な分解は跳ね返される。
空間的な除外は座標の再同期によって無効化される。
それだけではない。
彼女が距離を取り、刻刻に搭載された多弾頭の錬金榴弾と、飽和磁気レールガンによる中遠距離からの弾幕射撃へと戦術を切り替えた瞬間——堕天使の右手に、夜の帳を凝縮したかのような漆黒の大鎌が音もなく顕現した。
音速の壁を突破して飛来する高密度の劣化タングステン弾芯も、山脈を蒸発させる出力で集束された荷電粒子ビームも。
その死神の鎌が虚空を薙ぎ払った瞬間、触れたもの全てが、まるで薄い障子紙のように呆気なく両断され、威力を失って爆散させられた。
(……エネルギーの波長すら、空間の座標ごと両断する『絶対切断』の権能か……)
痛覚の合間を縫って、ルシアの思考はさらに冷たく沈降していく。
手強い。これほどまでに隙のない造物を、神とやらは一体どういう神経で作ったのか。
殺すことのできない無限の再生力。
受けた損害を百パーセント相手へと押し付ける因果の鏡。
有形無形のあらゆる防壁を紙切れのように切り裂く空間規模の大鎌。
さらには、重力の影響を完全に踏み躙り、空中を自在に滑空する漆黒の翼。
こんなものは、同じ地平に立つプレイヤー同士の決闘ではない。
ただの理不尽なルールの押し付けであり、悪趣味極まりないデバッグ作業だ。
今や、ルシアにとって空気を吸い込むことすら、冷え固まったゼリーを気管に無理やり流し込むかのように重く、苦しかった。
分かっている。この戦いは、これまでの人生を振り返っても、最低の部類に入る泥仕合だ。
スマートな盤面コントロールもなければ、相手を完封する美しいコンボもない。
前世の自分がこれを見たら、あまりの下手糞さに匙を投げていただろう。
手札は尽きかけ、リソースは底をつき、全身血まみれになって、生きているのが不思議なほどの重傷を負っている。
だが——これでも、圧倒的な幸運に恵まれている方なのだ。
目の前に浮かぶ神殿の守護者は、驚くべきことに、ルシアに対して個人的な敵意を毛頭抱いていない。
もしこの化け物に、一握りの殺意や残虐性があったなら。
反傷で動けなくなった最初のコンマ数秒の間に、あの大鎌でルシアの首級はとっくに宙を舞っていただろう。
彼がただの「受動的な反射板」として機能してくれているからこそ、ルシアはこうして立ち続け、次の一手を打つための時間を稼ぐことができている。
そして、息も絶え絶えのこの絶対の死局の中にあって。
ルシアの薄く血に染まった唇が、ふわりと、悪戯っぽく歪んだ。
「ねぇ……」
彼女は小首を傾げた。
額に張り付いた黒髪を揺らし、硝煙と鉄錆の匂いが充満する空間に、ひどく場違いな、甘ったるい声を響かせる。
それはまるで、休日の午後に隣の席の男子生徒へ、焼きたてのクッキーをねだる少女のようだった。
「素直に降参して、あの石板、私に譲ってくれたりしないかなぁ? もし石板をくれたらね、私、約束するよ。これからは退屈しないように、美味しいアールグレイの茶葉を持って、しょっちゅうここにお喋りに来てあげるからさ。」
中空に静止していた堕天使の、神々しく澄み渡ったサファイアの双眸。
そこに、微かな困惑の揺らぎが生じた。
そして、千年の孤独を背負った守護者は、心底から困り果てたように、柔らかな苦笑を漏らした。
「……ふふ。本当にお戯れのお上手な、愛らしいお嬢さんですね。貴女のような聡明な方とお茶を酌み交わせるなら、どれほど素晴らしいでしょう。できることなら、喜んでその申し出を受け入れたいところなのですが……」
堕天使は首を横に振った。その仕草には、微塵の侮蔑も悪意も含まれていなかった。
「あいにく、私のこの霊基の深奥には、主たる神の絶対命令が楔のように打ち込まれております。侵入者に石板を渡すことは能わず、と。哀しいかな、私には自らの意志でこの命令を破る権限が与えられていないのです。」
「そんなの……ひどいよ。私、本気でお友達になりたいって思ってたのにさ。」
ルシアはキュッと眉を寄せ、わざとらしく洟をすすってみせた。
その瞳に浮かんだ潤みと落胆の色は、当代一の宮廷女優ですら舌を巻くほどに真に迫っていた。
彼女は本気だった。
もしこの泣き落としや甘言で石板が手に入るなら、彼女は迷わず靴の裏だって舐めただろう。
前世の地球で擦り切れるほど味わった社畜生活が、ルシアから「無駄なプライド」などという贅沢品を綺麗さっぱり削ぎ落としていた。
世の中を見渡せばいい。
会社の脱税工作を平然とした顔で帳簿に隠すエリート公認会計士。
工期を縮めて利益を抜くために、コンクリートの骨材をごまかす現場監督。
納期に間に合わせるためだけに、テストすら通していないバグ塗れのコードを本番環境へデプロイして「動けば正義」とうそぶくシステムエンジニア。
凡人がこの過酷な現実という名のテーブルで生き残るためなら、誰もが恥も外聞もかなぐり捨てて、泥水のような妥協を飲み下しているのだ。
ならば、このルシアがどうして、物語の主人公のような高潔な精神に殉じて、真っ向から無駄死にを選ばなければならないというのか?
騙せるなら騙す。盗めるなら盗む。相手が情けをかけてくるなら、その情けに縋り付いてでも喉笛を掻っ切る。
それこそが、底辺を這いずり回ってきた彼女の、揺るぎなき「生存の美学」であった。
「貴女にお友達と呼んでいただけるなんて、本当に……光栄の至りですよ。美しき我が挑戦者。」
守護者の声音は、さらに深く、哀切を帯びた慈愛の色に染まっていった。
彼は決して愚鈍ではない。目の前の少女が、口先だけの甘言で自分を出し抜こうとしていることなど、百も承知だった。
だが、それでも嬉しかったのだ。
何千年もこの暗闇で、言葉を持たぬ岩石と対話し続けてきた彼にとって、死線を前にしてなお、平然とした顔で軽口を叩き、自分を一人の対等な存在として扱ってくるこの少女の図太さは、あまりにも眩しかった。
かつて自分を創り上げ、冷徹な論理で世界を設計したあの創造主の横顔が、彼女の小さな影と重なって見えた。
だが、魂の戒めは解けない。
彼がこの少女に与えられる精一杯の慈愛は、大鎌を振るわず、ただ静かに彼女の攻撃を受け止め続け、その細い命が尽きる瞬間を、腕の中で看取ってやることだけ。
「そっかぁ……」
ルシアの声が、ふっと低くなった。
それは駄々をこねる子供の甘え声のようでありながら、氷柱の先で鼓膜を撫でるような、異様な冷気を孕んでいた。
「命令に逆らう努力すらしてみてないのにさ……どうしてその石板が、絶対に私にあげられないものだって言い切れるのかな?」
鈴の音のように可憐な囁き。
だが、その愛らしさの裏側から覗いたのは、血を吸って狂い咲く真紅の薔薇が隠し持っていた、毒塗れの鋼鉄の棘であった。
破れた法衣の隙間から覗く白い肌は、縦横無尽に走る裂傷で無惨に切り刻まれている。
滴り落ちる鮮血は彼女の華奢な輪郭を赤く縁取り、焦土の上にグロテスクな花弁を描き出していた。
しかし、その肉体の損壊が極限に達すれば達するほど、瞳の奥底で爛々と輝く光は、この世の何よりも禍々しく、そして美しかった。
狂気と計算が同居したその笑顔の凄絶さに、高潔なる堕天使すら、一瞬、息を呑んで見惚れたほどに。
パキィィンッ!
ルシアの左手首に巻かれた魔導拘束具から、鋭い破裂音が響いた。
彼女が隠し持っていた、純度百パーセントの特級魔力水晶。その最後の一つが、彼女の神経パルスによって内側から無理やり圧壊させられたのだ。
「ぐ、あぁぁぁっ……!」
経絡に沸騰した鉛を流し込まれたような激痛が、ルシアの全身の血管を暴れ馬のように駆け巡る。
毛細血管が次々と破裂し、目元と鼻腔からツッと細い血が垂れ落ちた。
だが彼女は、その激痛によって限界を超えて励起された膨大な魔力の奔流を、己の肉体など意にも介さず、全量、背後の巨神へと叩き込んだ!
ゴォォォォォォォォォォッ!!
沈黙しかけていた機械の暴君が、地底の岩盤を震わせる狂乱の咆哮を上げた!
許容回転数を数万回転オーバーした内部のフライホイールが、耳を劈く金切り声を上げる。
刻刻の二本の黄銅巨腕が、空気を爆砕しながら前へと突き出され、その巨大な掌が、腹部に穿たれた主砲の放熱スリットの正面で、隙間なく組み合わされた。
ギュイィィィィィィン——ドゴゴゴゴゴゴゴ!
両の掌に内蔵された力場偏折ジェネレーターと、腹部深奥に鎮座する極小の質量崩壊炉。
二つの異なる物理破壊機構が、ルシアの魔力を媒介にして、史上初となる「三重集束励起回路」を構築する。
掌の隙間から漏れ出すのは、大気中の酸素と窒素を瞬時にプラズマ化させ、局所的な完全真空を作り出すほどの、刺すような青白い極光。
狂暴極まる引力の渦が中心点に向かって猛烈に収縮を開始し、半径数百メートルに散乱していた数十トンの玄武岩の瓦礫が、まるで重力を失ったかのようにフワリと浮き上がり、次々とその光球の中へと吸い込まれて分子レベルで擂り潰されていく。
地底平原を満たしていた一切の光が、その特異点に向かって強引に屈折させられ、世界が陰画のように反転する。
極限まで高められたエネルギー密度に耐え切れず、空間そのものが硝子のように軋み、ピシピシと亀裂の走る音が響き渡った。
これは、ルシアが持ち得る全財産を注ぎ込んだ、最後にして最大の「確率の検証」。
概念の消滅が跳ね返されるというのなら。
因果の反射が追いつかないほどの、一撃における絶対的なエネルギーのピーク値を叩き込んだらどうなる?
もしもこの主砲の破壊力が、この神殿のフィールドに設定された「因果律のバッファメモリ」を一瞬で焼き切るほど巨大なものだったとしたら。
その時、あの受難同調は……それでもなお、この出力を完全にルシアへと返し切ることができるのか?
鼻血と目尻の血を乱暴に手背で拭うこともせず、ルシアは左手の手札を掲げ続けた。
手札から吹き荒れる幽藍の魔力炎は、もはや彼女の細い腕を包み込み、その肉を焼き焦がさんばかりの勢いで猛り狂っている。
「これで、本当におしまいだよ。大天使様。」
彼女は首を傾げた。
その深緑の瞳の奥で、全てを焼き尽くす冷酷な業火をパチパチと爆ぜさせながら、この世で最も甘美で、最も残酷な死刑宣告を唇に乗せる。
「この一撃で、擦り傷一つつけられなかったら……私、本気で怒っちゃうからね。」
——死んじゃえ。
その呟きが落ちた瞬間。
世界から、すべての「音」が奪い去られた。
ドクン、と心臓の鼓動すら消失する。
あまりにも巨大すぎる質量と、あまりにも濃密すぎるエネルギーの集積に引っ張られ、その局所空間における時間の進みそのものが、相対論的効果によって極限まで引き延ばされたのだ。
刻刻の腹腔内に封じられていた質量崩壊炉が、全リミッターを解除した。
両の手の掌が作り出す反転重力場が、亜原子サイズにまで圧縮されていた超高密度のエネルギー特異点を、前方の空間に向かって無防備に解き放つ。
ズガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァン
——————ッ!!!!
光線、などという生易しい言葉で形容できる現象ではなかった。
それは、三次元空間の継ぎ目を内側から無理やり引き裂いて溢れ出した、破滅の光の奔流。純白の津波。
目を焼き尽くすほどの極光の巨柱が、合わされた刻刻の掌から、そして腹部の砲口から、咆哮とともに解き放たれる。
光軸が掠めた瞬間、地底平原を支えていた数万丈の玄武岩の天蓋は、崩落する間すら与えられずに分子結合を解かれ、白い気体となって蒸発した。
足元に広がっていたどこまでも続く岩盤の地表も、大気中を舞っていた微細な砂塵も、全てが一瞬の内にその純白の顎門へと呑み込まれ、消滅していった。
目に見える色彩の概念が暴力的に破壊され、空間全体が、死んだように静まり返った絶対的な「白」一色へと塗り潰される。
光速度の九十九パーセントに達する超相対論的粒子流と、星の核融合に匹敵する硬ガンマ線の嵐。
それらが連鎖的な空間崩壊を引き起こし、光の柱の外縁には、青黒い空間の裂け目と狂乱する電弧が無数の蛇となってのたうち回る。
その重力井戸の深淵へと引きずり込まれた森羅万象は、抵抗の余地すらなく、宇宙が開闢する以前の原初の混沌へと磨り潰されていく。
その光は、あまりにも巨大で、あまりにも純粋で、生命の脳が処理できる情報量の限界を遥かに超越していた。
後方の安全なはずの石造アーチの陰に身を隠していた仲間たちの網膜にも。
いまや、世界を丸ごと呑み込み、視覚の全てを純白の灰へと焼き尽くす「終焉の太陽」以外の光景は、何一つとして映し出されてはいなかった。
因果律の鎖を粉々に噛み砕く獣の如き咆哮を轟かせながら。
天の川が天頂からそのまま墜落してきたかのような破滅の奔流は、あの美しき堕天使が佇んでいた座標へと、狂乱の勢いで叩きつけられた。
そして、世界そのものを、音のない白熾の深淵へと、底知れず引きずり込んでいったのだった——




