雨夜の長街、今宵は政を忘れ、納豆と君の噺を。
黒く重苦しい鉛色の雲が低く垂れ込め、叩きつけるような豪雨が、瞬く間に帝都の街並みを茫漠たる水煙の彼方へと呑み込んでいく。
石畳の上に激しく叩きつけられた水滴は、幾重もの白い飛沫となって砕け散り、足元を這うように広がっていく。
ルーカスは防水加工が施された濃色のマントのフードを深く引き下げ、あまりにも目を引く白銀の髪を隠しながら、静まり返りつつある大通りを一人歩いていた。
通り沿いに並ぶ魔導街灯が、夜の帳が下りるにつれて次々と灯りを宿していく。暖かな橙色の微光が雨の帳の中に滲み、無数に降り注ぐ雨糸を朧げな光の筋へと染め上げていた。
まるで、この冷酷な豪雨の中に残された、唯一の温もりのように。
歩みを進めるにつれ、昼間の喧騒や硝煙の残り香はすっかり消え失せ、残されたのは湿り気を帯びた土の匂いと、雨が濡れた苔を打つ清冽な苦い香りだけだった。
ルーカスは公爵家の雪嶺の紋章が刻まれた豪奢な馬車には乗らず、マントの縁を伝い落ちる冷たい雨の雫をただ受け止めながら、緩やかで重厚な足取りを刻んでいた。
今この瞬間、公爵邸の最奥は、息が詰まるほどの静寂に包まれているはずだ。
いつもどこか飄々としていて、隙あらば仕事をサボることばかり考えているくせに、処刑台の前ではその脆い人間の身一つで破滅の結末を粉々に打ち砕いてみせた、あの黒髪の少女。
彼女は今、静かに深い眠りへと落ちている。
寝台の両脇には、雪嶺の主と深紅の薔薇が、片時も離れずに寄り添っていることだろう。
叔母のカリーナの、決して揺らぐことのなかったその紅い瞳には、今や世界そのものを凍てつかせんばかりの冷徹な怒りと焦燥が渦巻いているはずだ。
そしてクレア表叔母の纏う冷ややかな香りも、ルシアが倒れ伏したその刹那には、声なき震えへと変わっていた。
今の彼女たちの世界には、ルシアしか存在しない。
だが、ルーカスに同じことは許されなかった。グラフィエン公爵家の正統なる唯一の後継者として、あの小柄で無鉄砲な恩師が瞳を閉じた瞬間から、泥濘と血と政治的駆け引きに塗れた後始末を引き受けるのは、雨に濡れながら歩む彼自身の役目だった。
大通りの尽きるところを抜け、彼は夜雨の奥にまるで巨大な獣のように聳え立つ皇宮へと視線を向けた。冷たい雨粒が顎を伝い、引き締まった輪郭を滑り落ちて襟元へと染み込んでいく。
その骨身に染みる冷たさが、荒れ狂いそうだった胸の鼓動を、皮肉にも少しずつ鎮めてくれた。
古びた蔦が絡まる皇宮の外壁を通りかかったとき、彼の足がわずかに止まった。
鉄格子の装飾の片隅に、豪雨に打たれて羽を濡らした一匹の夜蛾が、深緑の葉脈に縋りつくように留まっていた。重い水滴に圧し潰され、その繊細な羽はかすかに震えている。
逃げることも、足掻くこともせず、薄氷のように透き通った雫に全身を濡らされたその姿は、まるで夜雨の中でひっそりと透明に透き通っていく、溶けかけの山荷葉の花のようだった。
ルーカスはフードの奥からその姿をじっと見つめ、昏い夜の中で深紅の瞳を深淵のように沈めた。
手を伸ばすことはせず、ただ薄い唇を引き結び、再び歩き出す。水たまりを踏み砕き、落とし前をつけにいくべき深宮の大殿へと向かって。
跳ね上がる水飛沫の中、雨糸と暖色の灯火を背に歩む少年の背中には、冷徹な支配者の決意が滲み始めていた。
狭い路地の石壁に刻まれた溝を、雨水が勢いよく流れ落ち、閉ざされた空間に水音が激しく反響していた。
湿った苔の生い茂る小路を曲がれば、帝都の中枢へと続く大通りに出る。ルーカスが静けさを取り戻した思索に沈みながら歩を進めていたその時、曲がり角の向こうから、小柄で慌てふためいた人影が唐突に飛び出してきた。
水たまりを踏み散らす慌ただしい足音とともに、短く切迫した悲鳴が響く。
「ごめんなさい――!」
豪雨の中、二人の身体が正面から衝突した。相手の身体はあまりにも華奢で、ぶつかった衝撃で一瞬にして重心を後ろへと崩し、足元に広がる濁った冷たい水たまりへと仰向けに倒れ込みそうになった。
ルーカスは、ほとんど反射的に腕を伸ばしていた。
極寒の荒野で培われたその反応速度には、一分の淀みもなかった。長い腕を滑らせ、相手の細い腰を力強く抱き寄せると、その勢いを利用して自らの胸元へと引き寄せる。
震える身体を、防水の施された厚手のマントの中へとしっかりと抱き留めた。
冷たい水煙と、マントの内側の微かな温もりが交差する。
腕の中の主は乱れた息を吐きながら、怯えたように顔を上げた。滑り落ちたフードの下から現れた二つの顔が、暖色の街灯と激しい雨幕の中で正面から見つめ合う。
ルーカスの深紅の瞳がわずかに見開かれ、そして相手の澄んだ、涙の滲む瞳もまた驚愕に丸くなった。
――ミアだ。
今朝、処刑台の前で体制の生贄として踏みにじられそうになり、最後にはルシアが命を賭して人間の世界へと力ずくで引き戻した、あの少女だった。
今のミアは夜の雨を浴びてすっかり濡れ鼠になっており、乱れた髪が青白い頬に張り付いていた。だが、先ほど転びかけたその危うい瞬間でさえ、彼女の両腕は胸元に抱えたものを死に物狂いで守り抜いていた。
何重もの分厚く油の染みた防水布で包まれたその四角い包みには、泥水の一滴すら付着していなかった。
この路地の先は、帝都の中心に位置する最大規模の魔導転移中継駅へと繋がっている。
グラフィエン公爵邸は、遥か彼方、万雷の雪が降り積もる極北の地にある。凡人の足では、たとえ力尽きるまで歩き続けたとしても辿り着ける距離ではない。
この深夜の豪雨の中、彼女がこれほど必死に走り続けていた理由はただ一つ。深夜の最終便が閉ざされる前に、中継駅の長距離転移陣を使って、極北の公爵邸へと向かおうとしていたのだ。
ルーカスは彼女が胸元に抱え込む包みに一瞥をくれたが、中に何が入っているのかを問い質すことはしなかった。なぜこんな嵐の夜に、危険を冒してまで転移駅へ走っていたのかを尋ねることもしない。
彼はただ、その骨の髄に刻まれた傲慢さと鋭さを潜め、腕にわずかに力を込めて彼女の姿勢を優しく整えると、紳士的に半歩身を引いて、適切な距離を保った。
マントの縁から滴る雨の音の中、少年の低く冷ややかな声が、かつてないほど穏やかに響く。
「大丈夫か?」
いまだ微かに震える華奢な身体を見つめ、一拍置いて、さらに低く言葉を重ねた。
「今朝のことは……さぞ、怖かっただろう。」
あの圧倒的で冷酷な処刑台の前、教廷と皇室の威圧に晒されれば、歴戦の帝国騎士ですら精神を崩壊させかねない。ましてや、これほど小さく儚い少女にとっては。
水煙の中に立ち尽くすミアは、無意識のうちに腕の中の包みを抱きしめ直した。彼女は顔を上げ、ルーカスを見つめる。
瞳に残っていた怯えは徐々に溶け去り、代わりに死線の淵をくぐり抜けてきた者特有の、静謐で優しい光が宿っていった。
彼女は小さく首を横に振り、微かだが心からの笑みを唇に浮かべた。
「怖かった……ええ、本当に怖かったです。あの時は、私の人生はここで終わるのだと思っていました。」
睫毛から雨の雫が滑り落ちる。少女の声は微かに震えていたが、その響きは驚くほど澄んでいた。
「けれど、今……私の心に残っているのは、感謝だけです。」
生き延びたことへの安堵でも、理不尽に陥れた者たちへの怨嗟でもない。ただ純粋な、極限までの感謝だった。
ルーカスは息を呑んだ。
その瞬間、普段は訓練場で荒々しく牙を剥き、同世代の貴族たちを見下し傲慢に振る舞うグラフィエンの若き当主の顔から、すべての棘が抜け落ちていた。
彼の唇の端が微かに揺れ、その顔には滅多に見せることのない、柔らかな苦笑が浮かぶ。
「……ルシア先生は、本当にすごい人だな。」
彼は低く呟いた。その声には演習場で見せる獰猛さの欠片もなく、全身全霊の敬意と心酔だけが滲んでいた。
その名前を耳にした瞬間、ミアの瞳に夜の雨を弾くような光が灯った。彼女は胸元の大切な包みを見下ろし、愛おしそうに呟く。
「はい。私、ルシアお姉様が本当に大好きです。」
彼女は顔を上げ、鉛色の空を見上げた。頬を伝う雨水はまるでひとすじの涙のようだったが、その眼差しはどこまでも清らかだった。
「私たちは同じでした……強大な魔力もなく、この世界からも、天上の神々からも愛されていませんでした。あの処刑台の前では、あの偉い人たちの目には、私たちは指先一つで踏み潰せる虫けらと同じだったはずです。」
ミアの声は儚く、しかし魂を揺さぶる強さを秘めていた。
「けれど、お姉様は……あんなにも華奢で脆い人間の身体一つで、世界が私たちに押し付けた運命を、跡形もなく否定してみせました。」
運命に屈せず、頭を垂れず、骨が砕け散ろうともその血肉で道を切り拓く。
「そんなルシアお姉様は……間違いなく、この世界で一番、美しい人です。」
雨脚は衰えることなく、二人の間の狭い路地を静かに叩き続けていた。
ルーカスは、全身を濡らしながらも確かな光を宿した少女を、ただ静かに見つめていた。最上級の敬意をもって紡ぎ出されたその言葉を耳にしながら。
冷気を孕んだ夜風が吹き抜けていく。だが、皇室への怒りで彼の胸を焦がしていた暗雲と殺意は、この瞬間、奇跡のように跡形もなく消え去り、ただ温かく静かな波紋だけが残されていた。
ルーカスは顔を背け、降りしきる細かな雨の帳の向こう、通りの尽きに聳え立つ巨大な皇宮の影を見据えた。
豪雨はいつの間にか勢いを弱め、静かに肌を濡らす霧雨へと変わっていた。音もなく舞い落ちる雨糸が、彼のわずかに持ち上がった顎を伝い、冷たい水気が襟元から染み込んで、額に張り付いた白銀の前髪を濡らしていく。
あの宮殿の中には、先ほどこの少女とルシアを底知れぬ深淵へと突き落としかけた皇権の謀略が渦巻いている。そして公爵家の名において、彼自身が単身乗り込んで落とし前をつけさせるはずだった代償も、そこにあった。
体側に垂らした指先が、微かに収縮し、関節が白く浮き上がる。
あの血の負債を、今すぐ清算しにいくべきだろうか。奴らの傲慢を踏みにじり、グラフィエンの刃をもって、深宮の大殿に決して越えられぬ境界線を刻み込むべきなのだろうか。
だが、睫毛に落ちた冷たい雨粒のかすかな痛みが、煮え滾っていた彼の思考を、この一瞬で奇跡のように凪がせていく。
彼は、ふと悟ったのだ。
ルシアが処刑台の上で身を粉にしてまでこの少女を引き戻したのは、自分が踵を返して新たな血と殺戮の連鎖を巻き起こすためなどでは決してない、と。
あの腐敗した泥沼のような深宮へ赴き、安っぽい落とし前を要求することよりも。
全身を濡らしながら、胸に抱いた想いを守るために極北へと向かおうとするこの少女の歩みを守ることのほうが、遥かに価値があるはずだ。
ルーカスは皇宮から視線を静かに引き戻した。瞳の奥に凍りついていた氷雪が、静かに融解していく。彼は向き直り、細雨の中に立ち竦んで微かに震えるミアを見つめると、その唇の端を、自分でも気づかぬほど穏やかに綻ばせた。
彼は大きく温かな右手を、手のひらを上に向けて差し出した。声はどこまでも低く、そして緩やかだった。
「まだ……怖いか?」
呆然と見上げる少女の丸い瞳を見つめ、彼の目元に浮かぶ笑みがさらに深まる。少年特有の不器用さと、優しさを滲ませながら。
「もし怖いなら……俺の手を握っていくか?」
ミアはその場に完全に立ち尽くした。
周囲にはしとしとと降る雨音と、魔導街灯の暖かな微光だけが揺れている。普段は帝都魔法学院で孤高に牙を研ぎ、帝都の誰もが恐れて道を譲るグラフィエン公爵家の若き後継者が、今、自分の前に静かに手を差し伸べている。
その瞳には高貴な血統の驕りも、冷酷な謀略の影もなかった。ただ、極北の初雪のように無垢で温かな光が宿っている。
束の間の静寂の後、ミアの澄んだ瞳に安堵の涙が滲み、その唇がこぼれるような笑みを咲かせた。
その瞬間、ルーカスの心臓がひとつ、跳ねた。
彼女には、公爵邸に君臨するあの三人の女性のような、帝国の均衡を覆すほどの劇的で圧倒的な華やかさはない。
カリーナのように世界を睥睨する氷原の覇気も、クレアのように深紅の薔薇を思わせる妖艶な贅沢さも、そしてルシアのように世界の真理を弄び、覆してしまう超越的な深みもない。
だが今、この雨の中で咲き誇ったその笑顔――無数の苦難と絶望の果てに、なおも優しさを選び取ったその芯の強さは。その美しさと純潔さは、あの三人の天嬌に爪の先ほども劣るものではなかった。
それは、荒野の廃墟にしっかりと根を張り、見返りを求めることもなく光に向かって咲き続ける、一輪の無垢な花だった。
「はい……。」
ミアは小さく頷き、冷え切った細い手を、ルーカスの分厚い掌の中へとそっと重ねた。
その微かな冷たさに触れた瞬間、ルーカスの目元が微かに動き、もう片方の手で自身の身に纏っていた防水マントを一気に解いた。
雨を裂く衣擦れの音とともに、自らの体温が残るマントをふわりと翻し、ミアの華奢な肩へと丁寧に掛け渡す。彼女が胸元に守る包みも、その細い身体も、冷え切った夜風から完全に覆い隠すように。
「行くぞ。」
彼は少女の冷たい掌を包み込むように握り直すと、二人で帝都中央の転移中継駅へと続く通りへ足を踏み出した。
二、三歩進んだところで、少年は何かの滑稽な日常を思い出したかのように、ふと横を向いて、静けさを破るように口を開いた。
「そういえば、ミア……『納豆』っていうものを知っているか?」
ミアは目を丸くし、羽織ったマントの襟元を寄せながら、不思議そうに彼を見上げた。
「ナットウ……?ですか?それは、何かのお薬か、北境の特別な食材でしょうか?」
「ぶっ。」
ルーカスは堪えきれずに吹き出した。普段は張り詰めている端正な横顔が完全に崩れ、呆れと可笑しさに満ちた苦笑を浮かべて首を振る。
「よせよせ、あんなもの普通の人間が食うもんじゃない。ルシア先生が温泉郷だか、誰も知らない故郷だかから持ち込んできた代物らしいんだが……腐った豆みたいな匂いがして、かき混ぜるとネバネバと気味の悪い糸を引くんだ。味も言葉にできないくらい奇妙でな。」
彼は言葉を切り、その瞳に隠しようのない愛しさを滲ませた。
「だが、何故だかルシア先生は大好物でさ。叔母上に見つからないようこっそり食っては、見つかるたびに死ぬほど説教されてるんだよ。」
少年の生き生きとした語り口に、ミアの瞳が三日月のように細められ、雨の帳の中に満開の眩い笑顔が零れ落ちた。
「ふふっ、なんだかとても楽しそうですね……。ルシアお姉様がそこまで愛していらっしゃるものなら、私、一度食べてみたいです。」
「お前が本気で食いたいなら、今から食いに行けばいいさ。」
ルーカスは握りしめた手に力を込め、かつてないほどの甘さと甘やかしを声に滲ませた。そして彼女の濡れた側頭部に視線を落とし、小さく笑った。
「だが、食う前に……どこかで身体を洗って温まるのが先だな。そんなずぶ濡れの姿で北境になんて行ってみろ、先生に余計な心配をかけさせて、俺がまた説教を食らう羽目になる。」
「はい、喜んで。」
細雨は糸のように、古びた帝都の青石を音もなく潤していた。
淡い光を放つ魔導街灯の下、白銀の髪の凛々しい少年と、大きすぎるマントを纏った華奢な少女。二人は闘気も魔力も使わず、急ぐこともなく、まるで雨の夜に出逢ったどこにでもいる幼い恋人同士のように、足取りを緩め、歩幅を合わせていく。
ぴしゃ、ぴしゃ。
浅い水たまりを踏むたびに、細かな飛沫が透き通った光を散らす。
先ほどまで皇宮の方向に渦巻いていた窒息しそうな殺意と暗雲を、二人はこの徐々に温もりを帯びていく夜雨の彼方へと、完全に置き去りにしていた。
夜の雨はいつしか薄羽のような白い霧へと姿を変え、水色に浸された青石の古道を、乾ききらぬ水墨画のように淡く滲ませていた。
街角に佇む古びた魔導の灯籠が、ぽっと柔らかな橙の微光を灯している。煙る水蒸気を透かして広がるその光は、まるで雨の底で開かれた一本の蛇の目傘のように、絶え間なく降り注ぐ細糸を煙霞のごとく幻想的に照らし出していた。
光と影が優しく降り注ぎ、少年の研ぎ澄まされた冷涼な横顔をなぞり、その隣に並ぶ少女の嫋やかで柔らかな曲線を淡く縁取る。並び立つ二つの影は石畳の上に細長く引き伸ばされ、重なり合い、鏡のように濡れた水面に溶け込んでいった。
長き街並みはまるで時を止めたスローモーションのように静まり返り、瓦を滑る風の息遣いさえも、どこまでも深く、緩やかに引き伸ばされていく。
二人の歩みは極めて軽く、どこまでも遅い。ミアが身に纏う大きすぎるマントは、その重厚な裾がくるぶしまで届き、歩くたびにさやさやと揺れていた。
布地にはいまだ少年の清らかな気配と穏やかな体温が染み付いており、彼女の肌を刺す冷気を、一枚一枚丁寧に解きほぐしていく。
そして、重ね合わされたその手は、いつの間にか先ほどとは違う形へと変わっていた。
先刻のような、ただ手首を引いただけの頼りない繋ぎ方ではない。冷たい夜風の中、ルーカスの長い指がわずかに動き、自然に、けれど微かな躊躇いを含みながら、彼女の指の隙間を分かち、ひと節ずつ深く絡め合っていく。
掌と掌が隙間なく重なり合ったその刹那。肌と肌が触れ合う熱が、春の氷が解けるような甘い痺れとなって、指先を伝い、二人の胸の奥へと静かに這い登っていった。
ミアの指先が小さく跳ねた。けれどその手を引くことはなく、むしろ注ぎ込まれた熱に寄り添うように指を丸め、彼の節くれだった大きな掌を、静かに握り返した。
少女は微かに顔を伏せ、雨に濡れた長い睫毛が、街灯の暖色の光を受けて頬に柔らかな影を落としている。
白く小さな耳朶は、雨上がりに咲いた睡蓮の花びらよりも淡い桜色に染まり、とくん、とくん、と胸を打つ早鐘のような鼓動が、少年の穏やかで、けれど次第に深くなっていく胸の音と、不思議なほど重なり合っていた。
ルーカスは前を向いたまま、視線は誰もいない濡れた石畳を見つめているようだったが、その瞳の端は、隣を歩く静かで柔らかな姿から一刻たりとも離れてはいなかった。
普段は剣の柄を握り締め、魔獣を屠る時でさえ眉ひとつ動かさぬその長い指先が、今、この骨のないほどに柔らかい小さな手を繋ぎながら――まるで、手のひらの上で今にも溶けてしまいそうな新雪を抱くように、息を呑むほど慎重に、大切に包み込んでいた。
路地をすり抜ける一筋の微風が、古い木造建築の瓦から幾粒かの雨の雫を払い落とし、二人の足元で細やかな波紋を描いて広がる。
街灯は微睡むように温かく、路地はどこまでも奥深い。
青石にできた水たまりは、降り注ぐ雨糸を映し、白銀の少年とマントの少女の姿を映し出していた。
言葉はなく、急かすものもない。
ただ静かな衣擦れの音と、極めて穏やかな足音だけが、血の汚れと喧騒を洗い流した帝都の深奥に響いていた。
生まれたばかりのその淡い情愛と甘美な曖昧さは、静かに煙る雨の帳の中で、まるでじっくりと温められた美酒のように、芳醇な薫りを醸し始めていた。




