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SCRAMBLE  作者: ヒロコトー
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7/8

ep.7

 義雄が地方へ移って三ヶ月が過ぎた。


 最初は何も分からなかった支店の仕事も、少しずつ見えるようになってきた。


「三田さん、これどうします?」


「先に先方へ電話。メールだけだとまた止まる」


「誰にです?」


「営業部長いるだろ」


「でも直接ですか?」


「いいよ。俺から一回入れる」


 義雄は受話器を取った。


 最初の頃は、誰に話を通せばいいのかさえ分からなかった。


 今は違う。


 この会社の中で何が止まりやすいか。


 誰が決めるのが早いか。


 支店の人間が何を苦手としているか。


 少しずつ分かってきた。


 本社にいた頃と同じではない。


 それでも仕事は回るようになった。


「三田さん来てから早くなりましたね」


 部下に言われた。


「何が」


「話進むの」


「前が遅かっただけだろ」


「そういうこと言うと怒られますよ」


「誰に」


「前の課長に」


「もういないだろ」


 二人で笑った。


 仕事については、もうそれほど困っていなかった。


 問題は家だった。



 玄関を開ける。


「ただいま」


 言ってから、義雄は少し笑った。


 誰もいない。


 言う必要はない。


 靴を脱ぐ。


 床に昨日脱いだ靴下が落ちている。


「あ」


 拾おうとして、そのまま通り過ぎた。


 テーブルにはコンビニの袋。


 空になった弁当の容器。


 ペットボトルが三本。


 流しにはマグカップと皿が何枚か置かれている。


 洗濯物は籠から少しはみ出していた。


 最初の頃は二日に一度洗濯していた。


 今は週末にまとめてやる。


 その週末も仕事が入れば、次の週になる。


「今度の休みだな」


 義雄は呟いた。


 何度目か分からなかった。


 冷蔵庫を開ける。


 ビール。


 水。


 卵。


 賞味期限の切れた納豆。


「これいつだよ」


 捨てる。


 炊飯器はしばらく使っていなかった。


 海美に「作る」と言った翌日に一度だけ料理をした。


 野菜炒め。


 写真を送ったら、


『茶色い』


 と返ってきた。


 紗良からは、


『皿小さくない?』


 と言われた。


 それ以来、たまに作る程度だった。


 仕事から帰って九時、十時。


 そこから飯を作る気にはならない。


 買えばいい。


 洗い物も出ない。


 そう思って始めた生活だった。


 実際、買えば済む。


 困りはしない。


 ただ、容器は溜まる。


 ゴミの日を忘れる。


 洗濯物がなくなる。


 シャツを干す。


 乾いたものを畳まず、そのまま着る。


 床に埃が見える。


 掃除機を出す。


 また今度でいいと思う。


 それだけだった。


 義雄はスーツを脱ぎ、ソファに座った。


 スマートフォンを見る。


 優里からメッセージが来ていた。


『今月の面会、第三土曜でもいい?』


 義雄は予定を確認した。


『大丈夫』


『海美が泊まりたいって言ってる』


 少し考える。


 部屋を見る。


 洗濯物。


 ゴミ。


 空の容器。


 義雄は立ち上がった。


『泊まりなら片付ける』


 送る。


 すぐに返事が来た。


『そこから?』


 義雄は少し笑った。


『うるさい』



 優里は仕事に慣れていた。


「大島さん、これお願いできます?」


「はい」


「午後までで大丈夫です」


「分かりました」


 電話にも慣れた。


 社内の人の名前も覚えた。


 何をどこへ入力するかも、もう迷わない。


 最初の頃のように毎日緊張することもなくなった。


 それでも疲れる。


 五時半に仕事が終わる。


 電車に乗る。


 買い物をする日もある。


 家へ帰る。


「ただいま」


「おかえり」


 母親の声がする。


 夕食ができている。


 海美が宿題をしている。


 紗良は部屋にいる。


 それが普通になっていた。


「今日、海美の学校から電話あったよ」


 母親が言った。


「何?」


「体操着忘れたって」


「また?」


「昼前に持ってった」


「ありがとう」


「明日は紗良、部活で遅いって」


「聞いてない」


「私には言ってたよ」


 優里は少し眉を寄せた。


「なんで私に言わないんだろ」


「忙しそうだからじゃない?」


「別に聞く時間くらいあるけど」


「そう」


 母親は味噌汁をよそった。


「来週の金曜日、私たち出かけるから」


「どこ?」


「温泉」


「二人で?」


「そう」


「泊まり?」


「一泊」


 優里は箸を止めた。


「金曜?」


「うん」


「私仕事だよ」


「知ってる」


「海美は?」


「知らない」


「え?」


「優里が考えて」


「いや、泊まりなんでしょ?」


「そう」


「じゃあどうすればいいの?」


「留守番でもいいし、仕事早く上がるでもいいし、誰かに頼むでもいいでしょ」


「海美まだ八歳だよ?」


「紗良もいるよ」


「紗良に全部任せるの?」


「全部じゃないよ」


「じゃあ誰がご飯作るの」


「優里」


「仕事終わって帰ってから?」


 母親は優里を見た。


「普通そうじゃないの?」


 優里は黙った。


「私たちがいなかったら、そうするでしょ」


「でも今いるじゃん」


「いるけど、いつでも何でもできるわけじゃないよ」


「一泊くらい別の日にできないの?」


 母親は箸を置いた。


「優里」


「何?」


「私たち、ずいぶんやってると思うよ」


「何が」


「ここに住んで、ご飯も一緒に食べて。海美の習い事も行って。学校から電話あれば迎えにも行って」


「感謝してるよ」


「うん。でも最近、感謝してる人の頼み方じゃなくなってきた」


 優里の顔が変わった。


「何それ」


「最初はお願いって言ってたでしょ」


「今も言ってるよ」


「言ってない時あるよ」


「いつ?」


「今日遅くなるから、とか」


「仕事なんだから仕方ないじゃん」


「そういう話じゃないの」


「じゃあ何?」


「私たちがやる前提になってるって話」


 優里は黙った。


「そんなつもりないけど」


「なくてもそうなってる」


「お母さんがそう思ってるだけじゃん」


「そうかもしれないね」


 母親は食事を続けた。


 その言い方が、優里には余計に腹立たしかった。



 温泉の日。


 優里は仕事を一時間早く上がった。


 事情を話し、半休扱いにしてもらった。


 駅から急いで家へ戻る。


「ただいま」


「おかえり」


 紗良がリビングにいた。


「海美は?」


「部屋」


「ご飯どうする?」


「お母さん作るんでしょ」


「今から」


「何作るの?」


「まだ決めてない」


 優里は冷蔵庫を開けた。


 食材はある。


 けれど何をどう使えば一番早いのか、一瞬考える。


 結婚していた頃は毎日のことだった。


 今は母親が作ることが多い。


 仕事を始めてからは、ほとんど任せていた。


「カレーでいい?」


「また?」


「またっていつ食べた?」


「三日前」


「じゃあ違うのにする」


「何?」


「今考えてる」


 紗良が少し笑った。


「お父さんみたい」


「何が?」


「何作るか決めてないのに作るって言うところ」


「一緒にしないで」


 優里は笑った。


 冷蔵庫から肉と野菜を出す。


 久しぶりに三人分の夕食を作った。


 海美は、


「お母さんのご飯久しぶり」


 と言った。


「失礼だな」


「だっておばあちゃんのが多いじゃん」


「仕事してるから」


「前は毎日だったのにね」


 海美は何気なく言った。


 優里は少しだけ手を止めた。


「そうだね」


「前の家の時」


「うん」


 紗良は何も言わず食べていた。



 翌日の夕方。


 両親が帰ってきた。


「ただいま」


「おかえり」


「どうだった?」


「楽しかったよ」


 母親が土産を出す。


 海美が喜ぶ。


 紗良も覗き込む。


 優里は洗濯物を畳んでいた。


 両親がいなかった一日。


 朝食を作る。


 洗濯機を回す。


 海美の昼を用意する。


 掃除。


 夕食。


 翌朝の準備。


 久しぶりに全部やった。


 昔は毎日やっていた。


 それなのに今は、一日で疲れた。


 仕事をしながらやると、こんなに違うのかと思った。


「優里」


 父親が言った。


「ちょっと話ある」


「何?」


「あとで」


「今じゃダメ?」


「海美たち寝てから」


 優里は父親を見た。


 何か嫌な感じがした。



 十時を過ぎた。


 紗良と海美が部屋へ行ったあと、三人で食卓を囲んだ。


「何?」


 優里が聞いた。


 父親と母親が一度目を合わせた。


 父親が口を開く。


「そろそろ、この先のこと考えろ」


「仕事してるじゃん」


「仕事の話だけじゃない」


「じゃあ何?」


「住む場所」


 優里は少し黙った。


「ここじゃダメなの?」


「ずっとはダメだ」


「なんで?」


「優里」


 母親が言う。


「最初からずっとここで暮らす話じゃなかったでしょ」


「そんなこと言ってないじゃん」


「言ってないけど」


「じゃあいいじゃん」


 父親が首を振った。


「よくない」


「何が?」


「お前、ここに戻ってきてから自分の生活作ってないだろ」


「作ってるよ。仕事も見つけたし」


「仕事だけだ」


「じゃあ何すればいいの?」


「自分で暮らせ」


 優里は父親を見た。


「出てけってこと?」


「そうだ」


「私だけ?」


 父親は少し黙った。


「紗良と海美は、ここにいていい」


 優里の顔が変わった。


「何それ」


「学校もある。急に環境変える必要ない」


「じゃあ私だけ追い出すの?」


「追い出すって言い方するな」


「同じじゃん」


「違う」


「何が違うの?」


「四十二の娘と、十二歳と八歳の孫は違う」


 優里は母親を見る。


「お母さんもそう思ってるの?」


 母親は少し苦しそうな顔をした。


「うん」


「信じられない」


「優里」


「親でしょ?」


「親だからだよ」


「親なら困ってる時くらい助けてくれてもいいじゃん」


「助けたよ」


 母親は静かに言った。


 優里が止まる。


「離婚した時、三人で帰ってきていいって言った。仕事探してる間も海美たち見た。仕事始まってからも学校のことも習い事も、ご飯もやった」


「分かってるよ」


「分かってないよ」


「分かってる!」


「なら、いつまで私たちがやればいいの?」


 優里は答えられなかった。


「別に一生なんて言ってないじゃん」


「じゃあいつ?」


「それは……」


「来年?」


「分からない」


「二年後?」


「だから分からないって」


 父親が口を開いた。


「俺たちだって歳取るんだぞ」


「まだ元気じゃん」


「今はな」


「なら今はいいじゃん」


「そうやって先に延ばしてどうする」


「何でそんな急に言うの?」


「急じゃない」


 父親の声が少し強くなった。


「何度も言った。自分で暮らせるように金を貯めろって」


「それが出てけって意味だなんて思わないじゃん」


「だから今言ってる」


 優里は笑った。


「何それ」


 自分でも分かるくらい、嫌な笑い方だった。


「結局、邪魔なんでしょ」


「違う」


「だったらいさせてくれればいいじゃん」


「だから紗良と海美はいていいって言ってる」


「私の子どもなんだけど」


「分かってる」


「じゃあ何で私だけ」


「お前には一人で暮らせるようになってほしいからだ」


「勝手じゃん」


 父親は黙った。


 母親が優里を見ていた。


「優里」


「何」


「私たち、昔も同じことしたんだよ」


「何が?」


 母親は少し迷った。


「義雄さんのご両親のこと」


 優里の表情が変わった。


「何で今それが出るの?」


「ずっと言わなかったから」


「何を?」


「結婚したばかりの頃、向こうのお家で怒られたことあったでしょ」


 優里はすぐに思い出した。


「あるよ」


「そのあと、私たち謝りに行ったの」


 優里は何を言われたのか分からなかった。


「誰が?」


「私とお父さん」


「どこに?」


「義雄さんのご実家」


「何で?」


 母親は優里を見た。


「あなたがしたこと、やっぱりよくなかったから」


 優里の顔が硬くなる。


「私が?」


「そう」


「でもあっちだってすごい言い方だったじゃん」


「言い方はね」


「じゃあ何で謝ったの?」


「こっちにも非があったから」


「私聞いてない」


「言わなかった」


「何で?」


 父親が答えた。


「お前が余計傷つくと思ったからだ」


「何それ」


「あの時のお前、ずっと向こうに怒ってただろ」


「だって理不尽だったから」


「理不尽じゃなかった」


「お父さんまで?」


「怒り方が正しかったとは言わん。でも、お前が何も悪くなかったわけじゃない」


 優里は首を振った。


「義雄は何も言わなかったよ」


「義雄君は庇ってた」


「庇ってない」


「庇ってたよ」


「お父さん見てないじゃん」


「あとで全部聞いたんだ」


「誰に?」


「義雄君に」


 優里は黙った。


「向こうのお母さん、何て言ったと思う」


「知らない」


「優里さんにはこちらも感情的になってしまったって言ってやってくださいって」


 優里は母親を見た。


「何それ」


「そのまま」


「じゃあ何で怒ったの」


「その場では腹が立ったんでしょ。でもあとで言い過ぎたと思ったんじゃない」


「意味分かんない」


「人なんてそんなもんでしょ」


 優里は椅子から立った。


「今それ言う?」


「今だから言うの」


「何で?」


「私たちも間違えたと思ってるから」


 母親が言った。


「何でも優里が傷つかないように、困らないようにってやってきた」


「それの何が悪いの?」


「悪くないと思ってた」


 優里は黙った。


「でも、全部やってあげるのが本当にいいことだったのかなって、今は思う」


「意味分かんない」


「今はいい」


「じゃあ言わないでよ」


「言わなきゃいけないから言ってるの」


 優里は何も言わず部屋を出た。


 階段を上がる。


 ドアを閉める。


 布団に座った。


 腹が立っていた。


 両親に。


 義雄の両親に。


 義雄にも。


 十五年前の話を今になって出してくることにも。


 全部。


「何なの」


 小さく言った。


 スマートフォンを手に取る。


 誰かに話したかった。


 恵子。


 指が止まる。


 拓斗。


 もう連絡は取っていない。


 義雄。


 そこまでスクロールして、優里は自分で笑った。


「何でだよ」


 画面を閉じた。



 翌朝。


 優里は両親とほとんど話さなかった。


「おはよう」


「おはよう」


 海美だけがいつも通りだった。


「お母さん今日仕事?」


「仕事」


「おばあちゃんも?」


「今日は家にいるよ」


「じゃあ帰ったらホットケーキ作って」


「宿題終わったらね」


「やった」


 優里はその会話を聞いていた。


 母親は海美を追い出したいわけではない。


 紗良も。


 自分だけ。


 そのことが腹立たしかった。


 でも、仕事へ向かう電車の中で、昨日の言葉が何度も浮かんだ。


『私たち、ずいぶんやってると思うよ』


 やっている。


 それは分かっていた。


 家。


 食事。


 娘たち。


 自分が仕事を始められたのも、両親がいたからだ。


 それでも。


 だからといって、自分だけ出ていけというのは違うと思った。


 そう思っていた。



 その週末。


 義雄は朝から部屋を片付けていた。


「なんでこんなあんだよ」


 ゴミ袋が三つになった。


 洗濯機を二回回した。


 風呂を掃除した。


 床に掃除機をかける。


 布団を干す。


 娘二人が泊まりに来る。


 それだけで、いつもなら先延ばしにすることを全部やった。


 昼前。


 駅まで迎えに行く。


「お父さん!」


 海美が走ってくる。


「走るな」


「久しぶり!」


「先月会っただろ」


「泊まるのは初めて!」


 紗良も後ろから来た。


「こんにちは」


「なんだよ、その挨拶」


「だってお父さん家だし」


「普通でいいだろ」


「お邪魔します?」


「もっと変だよ」


 三人で笑った。


 部屋へ着く。


 海美が中を見回す。


「狭い!」


「うるせえ」


「前の家の私の部屋より狭い!」


「一人だからいいんだよ」


 紗良が台所を見る。


「ほんとに料理してる?」


「してるよ」


「調味料少な」


「必要な分だけだよ」


「これ賞味期限切れてる」


「見るな」


「三日前」


「三日ならいける」


「ダメでしょ」


 海美が冷蔵庫を開ける。


「何もない!」


「お前ら来るから買ってきたよ」


「何?」


「肉」


「肉だけ?」


「野菜もある」


「何作るの?」


「鍋」


「簡単なやつだ」


「うるさい」


 義雄は笑った。


 夕方。


 三人でスーパーへ行った。


 海美が菓子を二つ持ってくる。


「一個」


「二個」


「一個」


「前もこれやった!」


「じゃあ成長しろ」


「お父さんが?」


「お前がだよ」


 紗良が笑う。


 義雄も笑った。


 久しぶりだった。


 こんなふうに買い物をするのが。



 夜。


 海美は早く寝た。


 久しぶりの場所ではしゃぎすぎたらしい。


 紗良はリビングに残っていた。


「寝ないの?」


「まだ」


「明日休みだしな」


「うん」


 義雄は缶ビールを開けた。


 紗良がスマートフォンを見ながら言う。


「お母さん、家出るかも」


 義雄の手が止まった。


「何で?」


「おじいちゃんたちに言われたって」


「誰から聞いた?」


「お母さん」


「そうか」


「私と海美は残っていいって」


 義雄は少し黙った。


「お母さんだけ?」


「うん」


「優里、何て?」


「怒ってた」


「だろうな」


「お父さん笑ってる?」


「笑ってない」


「ちょっと笑った」


「いや」


 義雄はビールを飲んだ。


「まあ、怒るだろ」


「なんで?」


「そういう人だから」


 言ってから、義雄は少し考えた。


「でも」


「何?」


「俺も昔、言わなかったからな」


「何を?」


「いろいろ」


 紗良が義雄を見る。


「お母さんの嫌だったとこ?」


「そう」


「何で言わなかったの?」


「面倒だったから」


「最低」


「そうだな」


 義雄は笑った。


「言っても聞かないと思ってたし」


「それ、お母さんも言ってた」


「何を?」


「お父さんに何言っても話さないって」


 義雄は止まった。


「言ってた?」


「うん」


「そっか」


 紗良はスマートフォンへ目を戻した。


「二人とも同じじゃん」


 義雄は返事をしなかった。


 少ししてビールを飲んだ。


「紗良」


「何?」


「お前、前から気づいてた?」


「何を?」


「俺とお母さん」


「仲悪いの?」


「うん」


 紗良は少し考えた。


「仲悪いっていうか」


「うん」


「二人になると全然喋らないなって思ってた」


「そっか」


「海美は気づいてなかったけど」


「そうだろうな」


「私も離婚するとは思ってなかった」


 義雄は缶を見た。


「俺もだよ」


 紗良が顔を上げる。


「お父さんも?」


「うん」


「お母さんから言ったんでしょ」


「そう」


「嫌だった?」


「最初はな」


「今は?」


 義雄は少し考えた。


「分かんない」


 紗良は何も言わなかった。


「なんか」


「何?」


「大人って適当だね」


「それはそう」


「認めるんだ」


「大人になったからって全部分かるわけじゃない」


「それ便利な言い訳じゃない?」


「便利なんだよ」


「前も言ってた」


「何を?」


「大人は便利って」


 義雄は笑った。


「覚えてたのか」


「覚えてるよ」


 二人で少し笑った。



 翌日。


 娘たちを駅まで送った。


「また泊まりたい!」


「いいよ」


「次いつ?」


「お母さんと相談」


「またそれ」


「勝手に決められないだろ」


「前は一緒に住んでたのに」


 海美は何気なく言った。


 義雄は一瞬答えられなかった。


「そうだな」


「前の家売れた?」


「売れたよ」


「もう誰か住んでる?」


「まだじゃないかな」


「見に行きたい」


「やめとけ」


「なんで?」


「もう俺たちの家じゃないから」


 海美は少し寂しそうな顔をした。


「そっか」


 電車の時間になった。


「じゃあまたね」


「おう」


 紗良が先に改札へ向かう。


 海美が追いかける。


「お父さん!」


 振り返った。


「何?」


「今度もっと大きい家にして!」


「無理だよ」


「頑張って!」


「はいはい」


 海美は笑って走っていった。


 義雄は二人が見えなくなるまで立っていた。



 部屋へ戻る。


 昨日まで三人だった部屋が、急に広く見えた。


 布団を片付ける。


 海美が使ったコップが置いてある。


 紗良が読んでいた本がソファの横にある。


「あいつ忘れてる」


 スマートフォンで写真を撮った。


『本忘れてる』


 紗良からすぐ返ってきた。


『次まで置いといて』


『分かった』


 義雄は本を棚の上に置いた。


 キッチンには昨日使った鍋。


 皿。


 コップ。


 洗わなければならない。


 洗濯物も増えている。


 娘たちが来れば、やることが増える。


 それなのに昨日は嫌ではなかった。


 むしろ、ずっと動いていた。


 義雄は流しの前に立った。


 皿を洗う。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 優里が毎日やっていたことだった。


 娘二人の服。


 学校。


 食事。


 風呂。


 洗濯。


 家の中。


 自分のこと。


 それを十五年。


 義雄は蛇口を止めた。


「……まあ」


 言いかけて、やめた。


 今さら褒める相手もいない。



 優里が部屋を探し始めたのは、その翌週だった。


 納得したわけではない。


 両親に言われたからだった。


 不動産サイトを開く。


 駅から近い。


 職場まで一時間以内。


 できれば二部屋。


 検索。


 家賃を見る。


「高っ」


 条件を変える。


 駅から十五分。


 築年数を広げる。


 それでも高い。


 一部屋にする。


 ようやく現実的な金額になる。


 そこに管理費。


 光熱費。


 通信費。


 食費。


 日用品。


 優里は電卓を開いた。


 給料から引く。


「これだけ?」


 手元に残る金額を見た。


 養育費は娘たちのための金だ。


 自分の生活費として考えるものではない。


 そう思って別にした。


 もう一度計算する。


 結果は変わらなかった。


 優里は画面を見た。


 義雄の給料が、思ったほど上がらない。


 昔、そう思っていた。


 家を買った。


 車があった。


 娘二人を育てた。


 旅行にも行った。


 外食もした。


 欲しいものが全部買えたわけではない。


 だから、もっとあればいいのにと思っていた。


 今、自分の給料だけで一人暮らしをしようとしている。


 家賃を引いただけで、数字が急に小さくなる。


 優里はスマートフォンを置いた。


 十五年前のことが浮かんだ。


『義雄君は庇ってた』


 首を振る。


「違う」


 声に出した。


 あの時、義雄は最後まで自分の味方ではなかった。


 そう思っている。


 でも。


『もういいだろ』


『俺が話すから』


 確かに言っていた。


 帰りの車で、


『親も言い方は悪かったけど』


 そのあと義雄は何を言おうとしていたのか。


 優里は思い出そうとした。


 自分が、


『私が悪いってこと?』


 と言った。


 義雄が黙った。


 そのあと、


『もういいよ』


 と言った。


 優里はずっと、それを逃げたと思っていた。


 今もそう思う。


 ただ。


 全部それだけだったのかは、少し分からなくなった。


 スマートフォンが鳴った。


 義雄からだった。


『紗良の本預かってる』


 優里は画面を見た。


『次の面会でいいって』


『了解』


 それだけだった。


 優里はしばらく画面を開いたままにしていた。


 何か打とうとして、やめた。



 一ヶ月後。


 優里は実家を出た。


 古い一DKだった。


 駅から徒歩十八分。


 職場までは五十分ほど。


 広くはない。


 新しくもない。


 でも一人なら住める。


「これ持っていきなさい」


 母親が鍋を渡した。


「いらないよ」


「いる」


「一人だよ」


「一人でも鍋くらい使うでしょ」


 優里は受け取った。


「ありがとう」


 父親は段ボールを車に積んでいた。


「他にないか」


「これで全部」


「本当に?」


「うん」


 紗良と海美も手伝っていた。


「お母さん家、今日泊まっていい?」


 海美が聞く。


「まだ布団一個しかないよ」


「床でいい」


「ダメ」


「じゃあ今度」


「今度ね」


 紗良は優里の部屋を見回した。


「狭いね」


「みんなそれ言うね」


「お父さん家も狭かった」


「そうなんだ」


「でもこっちの方がちょっと広い」


「勝った」


「何の勝負?」


「知らない」


 二人で笑った。


 荷物を運び終える。


 夕方。


 両親と娘たちが帰る時間になった。


 海美が優里に抱きついた。


「お母さんも帰らないの?」


「ここがお母さんの家だから」


「一人で?」


「うん」


「寂しくない?」


 優里は少し笑った。


「大丈夫」


「ほんと?」


「ほんと」


「電話していい?」


「いつでもいいよ」


「夜も?」


「寝てなかったらね」


「じゃあする」


 紗良が海美を引っ張る。


「行くよ」


「待って」


「おばあちゃんたち待ってる」


 優里は玄関まで見送った。


「またね」


「うん」


「ちゃんとご飯食べてね」


 紗良が言った。


「誰に言ってるの」


「お母さん」


「食べるよ」


「お父さんにも言った」


「一緒にしないで」


「二人とも似てるよ」


 優里は笑った。


「早く行きなさい」


「はいはい」


 ドアが閉まった。


 部屋が静かになった。


 優里はしばらく玄関に立っていた。


 娘たちの声が階段を下りていく。


 聞こえなくなる。


 部屋へ戻る。


 段ボールがいくつも置いてある。


 カーテンはまだない。


 冷蔵庫も空に近い。


 母親からもらった鍋だけが台所に置かれていた。


 優里は床に座った。


 スマートフォンを見る。


 拓斗とのやり取りは、もうずっと止まっている。


 恵子からは、


『引っ越し終わった?』


 と来ていた。


『今終わった』


『どう?』


 優里は部屋を見回した。


 少し考えてから、


『静か』


 と返した。


 すぐに、


『そりゃ一人だからね』


 と返ってきた。


 優里は笑った。


『今さらそれ分かった』


 送る。


 スマートフォンを置いた。


 静かな部屋だった。


 義雄と二人で暮らしていた頃も、夜は静かだった。


 同じ静かさだと思っていた。


 でも違った。


 あの家には、誰かがいた。


 話さなくても。


 腹が立っていても。


 背中を向けていても。


 今は本当に、一人だった。


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