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SCRAMBLE  作者: ヒロコトー
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6/8

ep.6

 優里が最初に受けた会社から、不採用のメールが届いた。


『慎重に選考を重ねました結果――』


 そこまで読んで画面を閉じた。


「まあ一社目だし」


 誰に言うでもなく呟いた。


 次に応募した会社は書類で落ちた。


 三社目は面接まで進んだ。


「お子さんはお二人ですか」


「はい。十二歳と八歳です」


「下のお子さんが急に体調を崩された場合などは、どなたか対応できますか?」


「両親と同居していますので」


「ご両親が?」


「はい」


 面接官は頷き、手元の紙に何かを書いた。


「土曜日の出勤が月に一、二回ありますが」


「大丈夫です」


 答えてから、母親に聞いていなかったことを思い出した。


 でも月に一、二回くらいなら大丈夫だろう。


 帰宅してから話した。


「土曜出勤あるかも」


 母親が鍋をかき混ぜながら振り返る。


「仕事決まったの?」


「まだ。今日面接だった」


「どのくらいあるの?」


「月一、二回」


「その時、紗良と海美は?」


「ここにいるでしょ」


「私たちも出かける時あるよ」


「毎週じゃないんだからいいじゃん」


「決まったら先に教えてよ」


「分かってる」


 優里は冷蔵庫を開けた。


「何か飲む?」


「いらない」


「これもらっていい?」


「いいよ」


 母親はそれ以上何も言わなかった。


 数日後、不採用の連絡が来た。


 優里は思ったより腹が立った。


 大学も出ている。


 社会人経験もある。


 面接だって普通にできたと思う。


 どうして落ちるのか分からなかった。


 恵子に電話した。


『三社落ちた』


「三社なら普通じゃない?」


『普通なの?』


「普通だよ。新卒じゃないんだから」


『でも事務だよ』


「事務だからでしょ。人気あるし」


『ブランク可って書いてあった』


「ブランク可と、ブランク関係ありませんは違うよ」


 優里はソファに座った。


『じゃあ何受ければいいの』


「知らないよ。条件広げたら?」


『土日休みがいい』


「そりゃみんなそうだよ」


『海美いるし』


「だったら勤務時間か給料か仕事内容か、どっかで条件変えないと」


『そんなこと言われても』


「じゃあ探し続けるしかないね」


 恵子は淡々としていた。


 以前なら少し冷たいと思ったかもしれない。


 今は、ただ現実の話をしているのだと分かった。


『恵子って今いくらくらいもらってるの?』


「何、急に」


『いや、ちょっと気になって』


「優里が想像してるほど簡単にはもらえないよ」


『義雄、結構もらってたんだよね』


「課長で二十年以上働いてたんでしょ?」


『うん』


「そりゃ新しく働く人とは違うよ」


 優里は黙った。


『でもさ』


「うん」


『あの人、給料そんな上がらないなってずっと思ってた』


「それ本人に言ってたの?」


『言ってない』


「ならよかった」


『何それ』


 恵子が笑った。


「言ってたら私でも腹立つ」


 優里も少し笑った。


 電話を切ったあと、また求人サイトを開いた。


 今度は「正社員」のチェックを外した。



「三田、ちょっといいか」


 森山に呼ばれたのは、午後の会議が終わったあとだった。


「はい」


「会議室」


 義雄は資料を机に置き、森山についていった。


 二人だけになると、森山はすぐには話さなかった。


「何です?」


「お前、離婚したんだってな」


「……はい」


「五十嵐から聞いたわけじゃないぞ」


「はあ」


「住所変更も出てるからな」


「そうですね」


 森山は腕を組んだ。


「それとは別に、ちょっと妙な話が回ってる」


 義雄は嫌な予感がした。


「妙な話?」


「離婚する前から女がいたって」


 義雄は黙った。


「本当か?」


「……誰からです?」


「本当かどうか聞いてる」


 義雄は机の上を見た。


「いました」


 森山は小さく息を吐いた。


「相手は社内?」


「違います」


「取引先?」


「違います」


「仕事で知り合った?」


「違います」


「じゃあ完全に私生活か」


「はい」


 森山は椅子にもたれた。


「なら会社として処分する話じゃない」


 義雄は少しだけ肩の力を抜いた。


「ただな」


 森山が続ける。


「お前、課長だろ」


「はい」


「こういう話は勝手に広がる」


 義雄は何も言わなかった。


「離婚の前から若い女と歩いてたって、見たやつがいるらしい」


「誰です?」


「それを探すな」


「いや」


「探してどうする」


 義雄は黙った。


 心当たりはいくらでもあった。


 駅。


 飲食店。


 映画館。


 美知と会っていた場所は一つではない。


 誰かに見られる可能性を考えなかったわけではない。


 でも、見られても知らない人なら関係ないと思っていた。


「社内で変な噂になってる。それだけ頭に入れとけ」


「はい」


「仕事に影響出すなよ」


「出しません」


「ならいい」


 話はそれで終わった。


 義雄は会議室を出た。


 廊下で若い社員二人とすれ違う。


「お疲れ様です」


「おう」


 いつも通りだった。


 でも、二人が自分のことを知っているのかが気になった。


 席へ戻る。


 五十嵐が顔を上げた。


「何?」


「あとで」


「何だよ」


「あとでいい」


 義雄はパソコンを開いた。



「お前、美知ちゃんと別れたの?」


 仕事が終わってから、五十嵐と二人で店に入った。


「なんで名前知ってんだよ」


「前聞いた」


「言ったっけ」


「酔ってた時に」


「最悪だな」


「安心しろ。名字までは知らん」


 義雄はビールを飲んだ。


「別れた」


「そっか」


「何だよ」


「いや」


「何」


「離婚して、そっち行くのかと思ってた」


 義雄はジョッキを置いた。


「俺もそう思ってた」


「本人に言ってたの?」


「何を?」


「結婚してること」


 義雄は答えなかった。


 五十嵐が顔をしかめる。


「お前」


「分かってるよ」


「独身って言ってた?」


「言った」


「そりゃ無理だわ」


「うるせえ」


「いや、無理だろ」


「分かってるって」


 少し前なら、義雄は反論していたかもしれない。


 今はもうしなかった。


「でも今は独身なんだろ?」


 五十嵐が言う。


「そう言ったよ」


「で?」


「今独身だから何って言われた」


「そりゃそうだ」


「お前今日ずっとそっちだな」


「だって俺でもそう思うもん」


 義雄は笑った。


「俺さ」


「うん」


「離婚すりゃ全部普通になると思ってたんだよ」


「美知ちゃんと?」


「まあ」


「ならんかったな」


「ならなかった」


 五十嵐は焼き鳥を一本取った。


「優里ちゃんは?」


「知らない」


「連絡取ってないの?」


「子どものことだけ」


「浮気してたことバレた?」


「知らない」


「言ってない?」


「言う必要あるか?」


「今さらはないか」


 義雄はビールを飲んだ。


「向こうだって何してるか分かんねえし」


「そういう言い方するってことは気になってんじゃん」


「違うよ」


「ならいいけど」


 五十嵐はそれ以上聞かなかった。



 優里の仕事が決まったのは、それから二週間ほどしてからだった。


 小さな会社の営業事務。


 正社員ではない。


 一年更新の契約社員だった。


 九時から十七時半。


 土曜日は基本休み。


 給料は、優里が最初に想像していた額よりかなり低かった。


 それでも採用の電話を受けた時は嬉しかった。


「決まった!」


 母親に言う。


「よかったじゃない」


「来月から」


「何時まで?」


「五時半」


「家着くの何時?」


「六時半くらいかな」


「海美の習い事、水曜日だったよね」


「うん」


「どうする?」


「お母さんお願い」


「毎週?」


「仕事なんだから仕方ないでしょ」


 優里は笑った。


「お母さんも暇でしょ」


「暇って」


「いや、別にずっと暇って意味じゃなくて」


「分かってるけど」


「水曜だけだから」


 母親は少し考えた。


「まあ最初はいいよ」


「ありがとう」


 優里はスマートフォンを取り出した。


 恵子にも連絡した。


『決まった』


『おめでとう』


『契約だけど』


『最初ならいいじゃん』


『給料安い』


『働いてから言いなよ』


『厳しいなあ』


『はいはい。頑張れ』


 優里は笑った。



 仕事を始めた最初の一週間は、毎日疲れた。


「大島さん、これコピーお願いします」


「はい」


「あとこの入力、今日中で」


「分かりました」


「前のデータここにありますから」


「はい」


 優里は久しぶりに旧姓で呼ばれていた。


 最初は少し変な感じがした。


 パソコンの操作自体はできる。


 でも会社によって使うシステムが違う。


 ファイルの場所。


 電話の取り方。


 誰に何を確認するのか。


 覚えることが多かった。


「大島さん、これ違います」


「あ、すみません」


「ここのコード、取引先別なんで」


「はい」


「前の見ながらやると分かります」


「ありがとうございます」


 四十二歳でも、新人は新人だった。


 自分より十歳以上若い社員に教わる。


 それが嫌というより、思っていたより自分が何も知らないことに驚いた。


 五時半。


 仕事が終わる。


 駅まで歩く。


 電車に乗る。


 家に着いた時には六時半を過ぎていた。


「ただいま」


「おかえり」


 母親が台所から返事をする。


 夕食の匂いがした。


「疲れた」


「最初だからね」


「海美は?」


「宿題してる」


「紗良は?」


「部屋」


 優里はバッグを置き、椅子に座った。


「ご飯もうできるよ」


「ありがとう」


 母親が食事を用意してくれる。


 優里は何も考えずに食べた。


 翌日も同じだった。


 その次の日も。



「今日、海美お願いしてもいい?」


 仕事を始めて二週目。


 朝、優里が言った。


「何?」


「ちょっと残業になるかも」


「何時?」


「分かんない。七時くらい?」


「今日は買い物行こうと思ってたんだけど」


「海美連れてけばいいじゃん」


「そういう買い物じゃないの」


「じゃあ明日にしたら?」


 母親が優里を見た。


「優里」


「何?」


「私にも予定あるからね」


「分かってるよ」


「分かってるなら、急に言われても困る」


「でも仕事なんだから仕方ないじゃん」


「だから仕事するなって言ってないでしょ」


「じゃあ今日どうすればいいの?」


「それを今言われても」


 優里は時計を見た。


「もう出ないと遅れる」


「今日は見るよ」


「ありがとう」


「でも次から早めに言って」


「分かった」


 優里は急いで靴を履いた。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


 玄関を出る。


 駅へ向かいながら、少し腹が立っていた。


 仕事があるのだから仕方がない。


 遊びに行くわけではない。


 自分が働かないと困るのは分かっているはずだ。


 どうしてあんな言い方をするのか。


 電車に乗った頃には、そのことは忘れていた。



 義雄が再び森山に呼ばれたのは、その月の終わりだった。


「座れ」


 前回とは違い、森山の机の前だった。


「来期の異動の話だ」


「はい」


「北関東の支店、知ってるな」


「知ってます」


「今、人が足りてない」


 義雄は嫌な予感がした。


「課長一人出したいって話が出てる」


「……俺ですか」


「候補に上がってる」


「なんで俺なんです?」


「経験ある。現場も分かる。部下も持ってる」


「他にもいるでしょ」


「いるよ」


「じゃあなんで」


 森山は少し黙った。


「はっきり言ってほしいか?」


「はい」


「今のお前、動かしやすいんだよ」


 義雄は眉を寄せた。


「家族と別居してる。子どもは元嫁側。持ち家も売る」


「それだけですか?」


「それだけじゃない」


 義雄は森山を見た。


「例の話もある」


「不倫ですか」


「会社はそれで処分しないって言っただろ」


「じゃあ関係ないじゃないですか」


「処分には関係ない」


 森山はゆっくり言った。


「人事には関係する」


「同じでしょ」


「違う」


「何が違うんです?」


「誰かを地方へ出さなきゃならない時に、今のお前を本社に残す理由が一つ減ったってことだ」


 義雄は黙った。


「仕事ができないとは言ってない」


「だったら」


「だから向こうを任せるんだよ」


「左遷じゃないですか」


「そう思うならそう思え」


 森山はため息をついた。


「でもな、仕事できないやつを立て直し必要な支店に送るか?」


 義雄は答えなかった。


「お前なら回せるって判断もある」


「都合いいですね」


「会社なんてそんなもんだ」


 森山は書類を閉じた。


「まだ決定じゃない。だがほぼ決まると思っておけ」


「断ったら?」


「辞める?」


 義雄は森山を見た。


「そこまでは言ってません」


「なら選択肢考えとけ」


 話は終わった。



「転職しようかな」


 五十嵐は箸を止めた。


「急だな」


「地方飛ばされる」


「マジ?」


「ほぼ決まり」


「どこ?」


 義雄が答える。


 五十嵐が少し顔をしかめた。


「遠いな」


「だろ」


「でも課長で?」


「課長のまま」


「じゃあ左遷ってほどでも」


「本社から外されるんだぞ」


「まあな」


 義雄は酒を飲んだ。


「四十六なら転職あるだろ」


「あるとは思う」


「課長経験二十年以上だし」


「会社経験が二十年以上な」


「同じだろ」


「違うよ」


「何が」


「俺、自分で会社探したことねえもん」


 新卒で入って、そのまま今まで来た。


 転職サイトを開いたのは、昨日が初めてだった。


 年齢。


 希望年収。


 職歴。


 役職。


 入力する項目はいくらでもある。


 求人もある。


 ただ、条件を見ると話が変わる。


「今と同じ給料出すとこ少ないんだよな」


「そりゃそうだろ」


「役職もない」


「当たり前じゃね?」


「簡単に言うなよ」


「じゃあ残れば?」


「だから悩んでんだよ」


 義雄はスマートフォンを取り出した。


 住宅ローンの残債。


 養育費。


 娘たちにかかる金。


 自分一人なら、給料が下がってもどうにでもなる。


 でも自分一人ではない。


 もう同じ家には住んでいない。


 それでも父親であることは変わらない。


「辞めるなら先に決めてから辞めろよ」


 五十嵐が言った。


「分かってる」


「勢いで辞めんなよ」


「分かってるって」


 その言葉を聞きながら、義雄は妙な気分になった。


 優里が離婚届を出したとき、自分も似たようなことを言った気がする。


 先に考えろ。


 急に決めるな。


 義雄は酒を飲んだ。


 それ以上は考えなかった。



 給料日。


 優里は口座に入った金額を見た。


「これだけ?」


 思わず声が出た。


 働き始めた時期の関係で満額ではない。


 それは分かっている。


 それでも少なかった。


 交通費や保険のことを確認する。


 手取りになると、さらに小さく見えた。


 義雄が毎月家に入れていた金額を思い出した。


 住宅ローン。


 光熱費。


 食費。


 娘二人。


 車。


 保険。


 携帯。


 学校。


 習い事。


 優里は、自分がそれぞれにいくらかかっていたのか正確には知らなかった。


 家計を見ていなかったわけではない。


 でも足りなくなれば義雄の給料が入る。


 そういう生活だった。


「お母さん」


「何?」


「今月、家にいくら入れればいい?」


 夕食のあと、優里は聞いた。


 母親が少し驚いた。


「別にまだいいよ」


「でも働いたし」


「貯めときなさい」


「いいの?」


「これからお金かかるでしょ」


「ありがとう」


 優里はほっとした。


 その横で父親が新聞をたたんだ。


「ずっとじゃないぞ」


「分かってるよ」


「自分で暮らせるように貯めとけ」


 優里は笑った。


「まだすぐ出てけって言わなくてもいいじゃん」


「そういう意味じゃない」


「分かってるって」


 優里は軽く答えた。


 父親はそれ以上言わなかった。



 義雄は転職サイト経由で三社に応募した。


 一社は書類で落ちた。


 一社は返事が来なかった。


 残り一社から面接の連絡が来た。


 オンライン面接だった。


『現在は課長職とのことですが、具体的にはどのような実績を?』


「部下十二名の管理と、主要取引先の――」


『その取引先は御社独自のものですよね』


「はい」


『弊社で再現できる強みとしては、何になりますか?』


 義雄は少し止まった。


「マネジメント経験と、調整能力です」


『具体例をお願いします』


 義雄は答えた。


 答えながら、自分が二十年以上やってきたことの多くが、今の会社の仕組みの上にあることに気づいた。


 社内の誰に話せば動くか。


 どの部署が何を嫌がるか。


 どの取引先なら誰に電話すれば早いか。


 そういうものを義雄はよく知っている。


 だから仕事ができる。


 だが会社が変われば、その多くは最初から覚え直しになる。


 数日後、条件提示が届いた。


 年収は今より下がる。


 役職なし。


 試用期間あり。


 義雄は画面を閉じた。



「異動、受けます」


 森山に伝えたのは翌週だった。


「そうか」


「辞めません」


「それがいいかどうかは俺には分からん」


「俺も分かりません」


 森山が少し笑った。


「向こう行ったら結果出せ」


「はい」


「本社戻れるかもしれんぞ」


「期待しないでおきます」


「それくらいでいい」


 義雄は頭を下げた。


 部屋を出る。


 廊下を歩きながらスマートフォンを見た。


 紗良からメッセージが来ていた。


『次いつ会える?』


 義雄は足を止めた。


『来月の第二土曜』


『遠くなるってほんと?』


 優里から聞いたのだろう。


『ちょっと遠くなる』


『会える?』


『会うよ』


 すぐに返信が来た。


『海美も聞いてた』


『大丈夫って言っといて』


『自分で言えば』


 義雄は少し笑った。


『そうする』


 海美にもメッセージを送った。


 すぐに電話がかかってきた。


『お父さん遠く行くの?』


「ちょっとだけな」


『どこ?』


「電車で何時間か」


『遠いじゃん』


「月一は帰るよ」


『ほんと?』


「ほんと」


『泊まるのは?』


「そのうちな」


『そのうちっていつ?』


「お母さんと相談する」


『絶対ね』


「分かった」


 電話の向こうで海美が何か話し続ける。


 義雄は廊下の端に立ったまま聞いていた。



 水曜日。


 優里が仕事から帰ると、母親は少し疲れた顔をしていた。


「ただいま」


「おかえり」


「海美は?」


「お風呂」


「習い事どうだった?」


「普通」


「そっか」


 優里はバッグを置いた。


「ご飯ある?」


「あるよ」


「ありがとう」


 母親が黙って食事を出す。


「今日ね、ちょっと仕事覚えてきた」


「よかったじゃない」


「最初ほんと分かんなかったけど、だいぶ慣れた」


「そう」


「来月から一人で任されるかも」


「へえ」


 優里は食べながら話した。


 母親は聞いていた。


 食事が終わった頃、母親が言った。


「優里」


「何?」


「来週の水曜、私いないからね」


「どこ行くの?」


「友達と出かける」


「何時?」


「朝から夕方まで」


「え?」


 優里は箸を置いた。


「私仕事なんだけど」


「知ってるよ」


「海美どうするの?」


 母親は優里を見た。


「それは優里が考えて」


「だって水曜習い事あるじゃん」


「一回休ませてもいいでしょ」


「でも帰るまで一人になるよ」


「紗良いるじゃない」


「紗良だって部活あるかもしれないし」


「じゃあ確認しなさい」


「お母さん予定変えられないの?」


「変えないよ」


 優里は母親を見た。


「なんで?」


「なんでって、前から約束してたから」


「でも私仕事だよ?」


「うん」


「仕事休めないよ」


「私もあなたの仕事のために、毎週予定を空けてるわけじゃないよ」


「毎週って水曜だけじゃん」


「水曜だけでも毎週でしょ」


 優里は黙った。


 母親が食器を重ねる。


「仕事するなら、こういう時どうするかも考えておいた方がいいよ」


「分かった」


 優里の声は少し硬くなった。


 自分だって遊んでいるわけではない。


 働いている。


 家にお金を入れろとも言われていないとはいえ、これから自立するために必要なことをしている。


 それなのに。


 また自分だけが責められているような気がした。


「ごちそうさま」


 優里は立ち上がった。


 部屋へ戻る。


 スマートフォンを手に取った。


 誰かに話したかった。


 恵子との画面を開く。


 少し考えて閉じた。


 拓斗との画面が、その下にあった。


 最後のやり取りから何週間も経っている。


 優里はそこも開かなかった。


 ベッドに座る。


 隣の部屋から海美の声が聞こえる。


「おばあちゃん、ドライヤー!」


「今行くよ」


 母親の声がする。


 優里はしばらくその声を聞いていた。



 異動の日。


 義雄は必要な荷物だけを車に積んだ。


 新しい部屋は今までより少し広い。


 会社が用意した単身者向けの賃貸だった。


 段ボールを運び込み、布団を敷く。


 冷蔵庫。


 洗濯機。


 テレビ。


 一人で暮らすには十分だった。


 夕方、近所のスーパーへ行った。


 弁当。


 ビール。


 水。


 洗剤。


 ゴミ袋。


 カゴへ入れていく。


 レジを済ませ、部屋へ戻る。


 買ったものを片付ける。


 誰にも何も言われない。


 好きな時間に食べられる。


 好きな時間に風呂へ入れる。


 まだ新しい部屋には物が少なかった。


 きれいだった。


 義雄は弁当の蓋を開け、テレビをつけた。


 スマートフォンが鳴った。


 海美から写真が届いている。


 夕食の写真だった。


『今日ハンバーグ』


 義雄は、


『いいな』


 と返した。


『お父さん何?』


 義雄は目の前の弁当を撮った。


『これ』


 すぐに返事が来た。


『またお弁当?』


『今日は引っ越しだから』


『昨日もじゃん』


 義雄は少し笑った。


『明日は作る』


『何作るの?』


 義雄の指が止まった。


 冷蔵庫には水とビールしか入っていない。


『考える』


『絶対作らない』


『作るよ』


『写真送って』


『分かった』


 義雄はスマートフォンを置いた。


 弁当を食べる。


 テレビから笑い声が聞こえる。


 部屋はまだきれいだった。


 洗濯物も溜まっていない。


 ゴミ袋も空だった。


 明日から仕事が始まる。


 新しい職場。


 新しい生活。


 義雄はビールを開けた。


 これくらいなら、一人でも何とかなる。


 そう思っていた。

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