ep.6
優里が最初に受けた会社から、不採用のメールが届いた。
『慎重に選考を重ねました結果――』
そこまで読んで画面を閉じた。
「まあ一社目だし」
誰に言うでもなく呟いた。
次に応募した会社は書類で落ちた。
三社目は面接まで進んだ。
「お子さんはお二人ですか」
「はい。十二歳と八歳です」
「下のお子さんが急に体調を崩された場合などは、どなたか対応できますか?」
「両親と同居していますので」
「ご両親が?」
「はい」
面接官は頷き、手元の紙に何かを書いた。
「土曜日の出勤が月に一、二回ありますが」
「大丈夫です」
答えてから、母親に聞いていなかったことを思い出した。
でも月に一、二回くらいなら大丈夫だろう。
帰宅してから話した。
「土曜出勤あるかも」
母親が鍋をかき混ぜながら振り返る。
「仕事決まったの?」
「まだ。今日面接だった」
「どのくらいあるの?」
「月一、二回」
「その時、紗良と海美は?」
「ここにいるでしょ」
「私たちも出かける時あるよ」
「毎週じゃないんだからいいじゃん」
「決まったら先に教えてよ」
「分かってる」
優里は冷蔵庫を開けた。
「何か飲む?」
「いらない」
「これもらっていい?」
「いいよ」
母親はそれ以上何も言わなかった。
数日後、不採用の連絡が来た。
優里は思ったより腹が立った。
大学も出ている。
社会人経験もある。
面接だって普通にできたと思う。
どうして落ちるのか分からなかった。
恵子に電話した。
『三社落ちた』
「三社なら普通じゃない?」
『普通なの?』
「普通だよ。新卒じゃないんだから」
『でも事務だよ』
「事務だからでしょ。人気あるし」
『ブランク可って書いてあった』
「ブランク可と、ブランク関係ありませんは違うよ」
優里はソファに座った。
『じゃあ何受ければいいの』
「知らないよ。条件広げたら?」
『土日休みがいい』
「そりゃみんなそうだよ」
『海美いるし』
「だったら勤務時間か給料か仕事内容か、どっかで条件変えないと」
『そんなこと言われても』
「じゃあ探し続けるしかないね」
恵子は淡々としていた。
以前なら少し冷たいと思ったかもしれない。
今は、ただ現実の話をしているのだと分かった。
『恵子って今いくらくらいもらってるの?』
「何、急に」
『いや、ちょっと気になって』
「優里が想像してるほど簡単にはもらえないよ」
『義雄、結構もらってたんだよね』
「課長で二十年以上働いてたんでしょ?」
『うん』
「そりゃ新しく働く人とは違うよ」
優里は黙った。
『でもさ』
「うん」
『あの人、給料そんな上がらないなってずっと思ってた』
「それ本人に言ってたの?」
『言ってない』
「ならよかった」
『何それ』
恵子が笑った。
「言ってたら私でも腹立つ」
優里も少し笑った。
電話を切ったあと、また求人サイトを開いた。
今度は「正社員」のチェックを外した。
◇
「三田、ちょっといいか」
森山に呼ばれたのは、午後の会議が終わったあとだった。
「はい」
「会議室」
義雄は資料を机に置き、森山についていった。
二人だけになると、森山はすぐには話さなかった。
「何です?」
「お前、離婚したんだってな」
「……はい」
「五十嵐から聞いたわけじゃないぞ」
「はあ」
「住所変更も出てるからな」
「そうですね」
森山は腕を組んだ。
「それとは別に、ちょっと妙な話が回ってる」
義雄は嫌な予感がした。
「妙な話?」
「離婚する前から女がいたって」
義雄は黙った。
「本当か?」
「……誰からです?」
「本当かどうか聞いてる」
義雄は机の上を見た。
「いました」
森山は小さく息を吐いた。
「相手は社内?」
「違います」
「取引先?」
「違います」
「仕事で知り合った?」
「違います」
「じゃあ完全に私生活か」
「はい」
森山は椅子にもたれた。
「なら会社として処分する話じゃない」
義雄は少しだけ肩の力を抜いた。
「ただな」
森山が続ける。
「お前、課長だろ」
「はい」
「こういう話は勝手に広がる」
義雄は何も言わなかった。
「離婚の前から若い女と歩いてたって、見たやつがいるらしい」
「誰です?」
「それを探すな」
「いや」
「探してどうする」
義雄は黙った。
心当たりはいくらでもあった。
駅。
飲食店。
映画館。
美知と会っていた場所は一つではない。
誰かに見られる可能性を考えなかったわけではない。
でも、見られても知らない人なら関係ないと思っていた。
「社内で変な噂になってる。それだけ頭に入れとけ」
「はい」
「仕事に影響出すなよ」
「出しません」
「ならいい」
話はそれで終わった。
義雄は会議室を出た。
廊下で若い社員二人とすれ違う。
「お疲れ様です」
「おう」
いつも通りだった。
でも、二人が自分のことを知っているのかが気になった。
席へ戻る。
五十嵐が顔を上げた。
「何?」
「あとで」
「何だよ」
「あとでいい」
義雄はパソコンを開いた。
◇
「お前、美知ちゃんと別れたの?」
仕事が終わってから、五十嵐と二人で店に入った。
「なんで名前知ってんだよ」
「前聞いた」
「言ったっけ」
「酔ってた時に」
「最悪だな」
「安心しろ。名字までは知らん」
義雄はビールを飲んだ。
「別れた」
「そっか」
「何だよ」
「いや」
「何」
「離婚して、そっち行くのかと思ってた」
義雄はジョッキを置いた。
「俺もそう思ってた」
「本人に言ってたの?」
「何を?」
「結婚してること」
義雄は答えなかった。
五十嵐が顔をしかめる。
「お前」
「分かってるよ」
「独身って言ってた?」
「言った」
「そりゃ無理だわ」
「うるせえ」
「いや、無理だろ」
「分かってるって」
少し前なら、義雄は反論していたかもしれない。
今はもうしなかった。
「でも今は独身なんだろ?」
五十嵐が言う。
「そう言ったよ」
「で?」
「今独身だから何って言われた」
「そりゃそうだ」
「お前今日ずっとそっちだな」
「だって俺でもそう思うもん」
義雄は笑った。
「俺さ」
「うん」
「離婚すりゃ全部普通になると思ってたんだよ」
「美知ちゃんと?」
「まあ」
「ならんかったな」
「ならなかった」
五十嵐は焼き鳥を一本取った。
「優里ちゃんは?」
「知らない」
「連絡取ってないの?」
「子どものことだけ」
「浮気してたことバレた?」
「知らない」
「言ってない?」
「言う必要あるか?」
「今さらはないか」
義雄はビールを飲んだ。
「向こうだって何してるか分かんねえし」
「そういう言い方するってことは気になってんじゃん」
「違うよ」
「ならいいけど」
五十嵐はそれ以上聞かなかった。
◇
優里の仕事が決まったのは、それから二週間ほどしてからだった。
小さな会社の営業事務。
正社員ではない。
一年更新の契約社員だった。
九時から十七時半。
土曜日は基本休み。
給料は、優里が最初に想像していた額よりかなり低かった。
それでも採用の電話を受けた時は嬉しかった。
「決まった!」
母親に言う。
「よかったじゃない」
「来月から」
「何時まで?」
「五時半」
「家着くの何時?」
「六時半くらいかな」
「海美の習い事、水曜日だったよね」
「うん」
「どうする?」
「お母さんお願い」
「毎週?」
「仕事なんだから仕方ないでしょ」
優里は笑った。
「お母さんも暇でしょ」
「暇って」
「いや、別にずっと暇って意味じゃなくて」
「分かってるけど」
「水曜だけだから」
母親は少し考えた。
「まあ最初はいいよ」
「ありがとう」
優里はスマートフォンを取り出した。
恵子にも連絡した。
『決まった』
『おめでとう』
『契約だけど』
『最初ならいいじゃん』
『給料安い』
『働いてから言いなよ』
『厳しいなあ』
『はいはい。頑張れ』
優里は笑った。
◇
仕事を始めた最初の一週間は、毎日疲れた。
「大島さん、これコピーお願いします」
「はい」
「あとこの入力、今日中で」
「分かりました」
「前のデータここにありますから」
「はい」
優里は久しぶりに旧姓で呼ばれていた。
最初は少し変な感じがした。
パソコンの操作自体はできる。
でも会社によって使うシステムが違う。
ファイルの場所。
電話の取り方。
誰に何を確認するのか。
覚えることが多かった。
「大島さん、これ違います」
「あ、すみません」
「ここのコード、取引先別なんで」
「はい」
「前の見ながらやると分かります」
「ありがとうございます」
四十二歳でも、新人は新人だった。
自分より十歳以上若い社員に教わる。
それが嫌というより、思っていたより自分が何も知らないことに驚いた。
五時半。
仕事が終わる。
駅まで歩く。
電車に乗る。
家に着いた時には六時半を過ぎていた。
「ただいま」
「おかえり」
母親が台所から返事をする。
夕食の匂いがした。
「疲れた」
「最初だからね」
「海美は?」
「宿題してる」
「紗良は?」
「部屋」
優里はバッグを置き、椅子に座った。
「ご飯もうできるよ」
「ありがとう」
母親が食事を用意してくれる。
優里は何も考えずに食べた。
翌日も同じだった。
その次の日も。
◇
「今日、海美お願いしてもいい?」
仕事を始めて二週目。
朝、優里が言った。
「何?」
「ちょっと残業になるかも」
「何時?」
「分かんない。七時くらい?」
「今日は買い物行こうと思ってたんだけど」
「海美連れてけばいいじゃん」
「そういう買い物じゃないの」
「じゃあ明日にしたら?」
母親が優里を見た。
「優里」
「何?」
「私にも予定あるからね」
「分かってるよ」
「分かってるなら、急に言われても困る」
「でも仕事なんだから仕方ないじゃん」
「だから仕事するなって言ってないでしょ」
「じゃあ今日どうすればいいの?」
「それを今言われても」
優里は時計を見た。
「もう出ないと遅れる」
「今日は見るよ」
「ありがとう」
「でも次から早めに言って」
「分かった」
優里は急いで靴を履いた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
玄関を出る。
駅へ向かいながら、少し腹が立っていた。
仕事があるのだから仕方がない。
遊びに行くわけではない。
自分が働かないと困るのは分かっているはずだ。
どうしてあんな言い方をするのか。
電車に乗った頃には、そのことは忘れていた。
◇
義雄が再び森山に呼ばれたのは、その月の終わりだった。
「座れ」
前回とは違い、森山の机の前だった。
「来期の異動の話だ」
「はい」
「北関東の支店、知ってるな」
「知ってます」
「今、人が足りてない」
義雄は嫌な予感がした。
「課長一人出したいって話が出てる」
「……俺ですか」
「候補に上がってる」
「なんで俺なんです?」
「経験ある。現場も分かる。部下も持ってる」
「他にもいるでしょ」
「いるよ」
「じゃあなんで」
森山は少し黙った。
「はっきり言ってほしいか?」
「はい」
「今のお前、動かしやすいんだよ」
義雄は眉を寄せた。
「家族と別居してる。子どもは元嫁側。持ち家も売る」
「それだけですか?」
「それだけじゃない」
義雄は森山を見た。
「例の話もある」
「不倫ですか」
「会社はそれで処分しないって言っただろ」
「じゃあ関係ないじゃないですか」
「処分には関係ない」
森山はゆっくり言った。
「人事には関係する」
「同じでしょ」
「違う」
「何が違うんです?」
「誰かを地方へ出さなきゃならない時に、今のお前を本社に残す理由が一つ減ったってことだ」
義雄は黙った。
「仕事ができないとは言ってない」
「だったら」
「だから向こうを任せるんだよ」
「左遷じゃないですか」
「そう思うならそう思え」
森山はため息をついた。
「でもな、仕事できないやつを立て直し必要な支店に送るか?」
義雄は答えなかった。
「お前なら回せるって判断もある」
「都合いいですね」
「会社なんてそんなもんだ」
森山は書類を閉じた。
「まだ決定じゃない。だがほぼ決まると思っておけ」
「断ったら?」
「辞める?」
義雄は森山を見た。
「そこまでは言ってません」
「なら選択肢考えとけ」
話は終わった。
◇
「転職しようかな」
五十嵐は箸を止めた。
「急だな」
「地方飛ばされる」
「マジ?」
「ほぼ決まり」
「どこ?」
義雄が答える。
五十嵐が少し顔をしかめた。
「遠いな」
「だろ」
「でも課長で?」
「課長のまま」
「じゃあ左遷ってほどでも」
「本社から外されるんだぞ」
「まあな」
義雄は酒を飲んだ。
「四十六なら転職あるだろ」
「あるとは思う」
「課長経験二十年以上だし」
「会社経験が二十年以上な」
「同じだろ」
「違うよ」
「何が」
「俺、自分で会社探したことねえもん」
新卒で入って、そのまま今まで来た。
転職サイトを開いたのは、昨日が初めてだった。
年齢。
希望年収。
職歴。
役職。
入力する項目はいくらでもある。
求人もある。
ただ、条件を見ると話が変わる。
「今と同じ給料出すとこ少ないんだよな」
「そりゃそうだろ」
「役職もない」
「当たり前じゃね?」
「簡単に言うなよ」
「じゃあ残れば?」
「だから悩んでんだよ」
義雄はスマートフォンを取り出した。
住宅ローンの残債。
養育費。
娘たちにかかる金。
自分一人なら、給料が下がってもどうにでもなる。
でも自分一人ではない。
もう同じ家には住んでいない。
それでも父親であることは変わらない。
「辞めるなら先に決めてから辞めろよ」
五十嵐が言った。
「分かってる」
「勢いで辞めんなよ」
「分かってるって」
その言葉を聞きながら、義雄は妙な気分になった。
優里が離婚届を出したとき、自分も似たようなことを言った気がする。
先に考えろ。
急に決めるな。
義雄は酒を飲んだ。
それ以上は考えなかった。
◇
給料日。
優里は口座に入った金額を見た。
「これだけ?」
思わず声が出た。
働き始めた時期の関係で満額ではない。
それは分かっている。
それでも少なかった。
交通費や保険のことを確認する。
手取りになると、さらに小さく見えた。
義雄が毎月家に入れていた金額を思い出した。
住宅ローン。
光熱費。
食費。
娘二人。
車。
保険。
携帯。
学校。
習い事。
優里は、自分がそれぞれにいくらかかっていたのか正確には知らなかった。
家計を見ていなかったわけではない。
でも足りなくなれば義雄の給料が入る。
そういう生活だった。
「お母さん」
「何?」
「今月、家にいくら入れればいい?」
夕食のあと、優里は聞いた。
母親が少し驚いた。
「別にまだいいよ」
「でも働いたし」
「貯めときなさい」
「いいの?」
「これからお金かかるでしょ」
「ありがとう」
優里はほっとした。
その横で父親が新聞をたたんだ。
「ずっとじゃないぞ」
「分かってるよ」
「自分で暮らせるように貯めとけ」
優里は笑った。
「まだすぐ出てけって言わなくてもいいじゃん」
「そういう意味じゃない」
「分かってるって」
優里は軽く答えた。
父親はそれ以上言わなかった。
◇
義雄は転職サイト経由で三社に応募した。
一社は書類で落ちた。
一社は返事が来なかった。
残り一社から面接の連絡が来た。
オンライン面接だった。
『現在は課長職とのことですが、具体的にはどのような実績を?』
「部下十二名の管理と、主要取引先の――」
『その取引先は御社独自のものですよね』
「はい」
『弊社で再現できる強みとしては、何になりますか?』
義雄は少し止まった。
「マネジメント経験と、調整能力です」
『具体例をお願いします』
義雄は答えた。
答えながら、自分が二十年以上やってきたことの多くが、今の会社の仕組みの上にあることに気づいた。
社内の誰に話せば動くか。
どの部署が何を嫌がるか。
どの取引先なら誰に電話すれば早いか。
そういうものを義雄はよく知っている。
だから仕事ができる。
だが会社が変われば、その多くは最初から覚え直しになる。
数日後、条件提示が届いた。
年収は今より下がる。
役職なし。
試用期間あり。
義雄は画面を閉じた。
◇
「異動、受けます」
森山に伝えたのは翌週だった。
「そうか」
「辞めません」
「それがいいかどうかは俺には分からん」
「俺も分かりません」
森山が少し笑った。
「向こう行ったら結果出せ」
「はい」
「本社戻れるかもしれんぞ」
「期待しないでおきます」
「それくらいでいい」
義雄は頭を下げた。
部屋を出る。
廊下を歩きながらスマートフォンを見た。
紗良からメッセージが来ていた。
『次いつ会える?』
義雄は足を止めた。
『来月の第二土曜』
『遠くなるってほんと?』
優里から聞いたのだろう。
『ちょっと遠くなる』
『会える?』
『会うよ』
すぐに返信が来た。
『海美も聞いてた』
『大丈夫って言っといて』
『自分で言えば』
義雄は少し笑った。
『そうする』
海美にもメッセージを送った。
すぐに電話がかかってきた。
『お父さん遠く行くの?』
「ちょっとだけな」
『どこ?』
「電車で何時間か」
『遠いじゃん』
「月一は帰るよ」
『ほんと?』
「ほんと」
『泊まるのは?』
「そのうちな」
『そのうちっていつ?』
「お母さんと相談する」
『絶対ね』
「分かった」
電話の向こうで海美が何か話し続ける。
義雄は廊下の端に立ったまま聞いていた。
◇
水曜日。
優里が仕事から帰ると、母親は少し疲れた顔をしていた。
「ただいま」
「おかえり」
「海美は?」
「お風呂」
「習い事どうだった?」
「普通」
「そっか」
優里はバッグを置いた。
「ご飯ある?」
「あるよ」
「ありがとう」
母親が黙って食事を出す。
「今日ね、ちょっと仕事覚えてきた」
「よかったじゃない」
「最初ほんと分かんなかったけど、だいぶ慣れた」
「そう」
「来月から一人で任されるかも」
「へえ」
優里は食べながら話した。
母親は聞いていた。
食事が終わった頃、母親が言った。
「優里」
「何?」
「来週の水曜、私いないからね」
「どこ行くの?」
「友達と出かける」
「何時?」
「朝から夕方まで」
「え?」
優里は箸を置いた。
「私仕事なんだけど」
「知ってるよ」
「海美どうするの?」
母親は優里を見た。
「それは優里が考えて」
「だって水曜習い事あるじゃん」
「一回休ませてもいいでしょ」
「でも帰るまで一人になるよ」
「紗良いるじゃない」
「紗良だって部活あるかもしれないし」
「じゃあ確認しなさい」
「お母さん予定変えられないの?」
「変えないよ」
優里は母親を見た。
「なんで?」
「なんでって、前から約束してたから」
「でも私仕事だよ?」
「うん」
「仕事休めないよ」
「私もあなたの仕事のために、毎週予定を空けてるわけじゃないよ」
「毎週って水曜だけじゃん」
「水曜だけでも毎週でしょ」
優里は黙った。
母親が食器を重ねる。
「仕事するなら、こういう時どうするかも考えておいた方がいいよ」
「分かった」
優里の声は少し硬くなった。
自分だって遊んでいるわけではない。
働いている。
家にお金を入れろとも言われていないとはいえ、これから自立するために必要なことをしている。
それなのに。
また自分だけが責められているような気がした。
「ごちそうさま」
優里は立ち上がった。
部屋へ戻る。
スマートフォンを手に取った。
誰かに話したかった。
恵子との画面を開く。
少し考えて閉じた。
拓斗との画面が、その下にあった。
最後のやり取りから何週間も経っている。
優里はそこも開かなかった。
ベッドに座る。
隣の部屋から海美の声が聞こえる。
「おばあちゃん、ドライヤー!」
「今行くよ」
母親の声がする。
優里はしばらくその声を聞いていた。
◇
異動の日。
義雄は必要な荷物だけを車に積んだ。
新しい部屋は今までより少し広い。
会社が用意した単身者向けの賃貸だった。
段ボールを運び込み、布団を敷く。
冷蔵庫。
洗濯機。
テレビ。
一人で暮らすには十分だった。
夕方、近所のスーパーへ行った。
弁当。
ビール。
水。
洗剤。
ゴミ袋。
カゴへ入れていく。
レジを済ませ、部屋へ戻る。
買ったものを片付ける。
誰にも何も言われない。
好きな時間に食べられる。
好きな時間に風呂へ入れる。
まだ新しい部屋には物が少なかった。
きれいだった。
義雄は弁当の蓋を開け、テレビをつけた。
スマートフォンが鳴った。
海美から写真が届いている。
夕食の写真だった。
『今日ハンバーグ』
義雄は、
『いいな』
と返した。
『お父さん何?』
義雄は目の前の弁当を撮った。
『これ』
すぐに返事が来た。
『またお弁当?』
『今日は引っ越しだから』
『昨日もじゃん』
義雄は少し笑った。
『明日は作る』
『何作るの?』
義雄の指が止まった。
冷蔵庫には水とビールしか入っていない。
『考える』
『絶対作らない』
『作るよ』
『写真送って』
『分かった』
義雄はスマートフォンを置いた。
弁当を食べる。
テレビから笑い声が聞こえる。
部屋はまだきれいだった。
洗濯物も溜まっていない。
ゴミ袋も空だった。
明日から仕事が始まる。
新しい職場。
新しい生活。
義雄はビールを開けた。
これくらいなら、一人でも何とかなる。
そう思っていた。




