ep.3
離婚届を出そうと思ったのは、突然ではなかった。
優里の中では、もう何度も同じことを考えていた。
義雄とこのまま暮らしていくのか。
子どもたちが大きくなったあとも、同じ家で、必要なことだけ話して生きていくのか。
それが嫌だった。
何より、今は拓斗がいる。
夫婦として終わっている相手と暮らし続けるより、これから先を考えられる相手と一緒にいたい。
拓斗と、そんな話をしたことはなかった。
それでも二年以上続いている。
優里には、それで十分なように思えていた。
区役所でもらってきた離婚届は、数日前から引き出しの中に入っていた。
名前を書いたのは、その日の昼だった。
拓斗と会ったあとだった。
いつものように昼を食べ、いつものようにくだらない話をした。
「最近、なんか考えてる?」
拓斗が聞いた。
「なんで?」
「たまにぼーっとしてるから」
「そう?」
「うん」
優里は少し迷った。
「私さ」
「うん」
「このままでいいのかなって、最近思う」
拓斗は水を飲んだ。
「何が?」
「家」
「ああ」
「子どももだいぶ大きくなったし」
「そうだね」
「この先ずっと義雄と二人でいるのかなって考えると、なんか違うなって」
「ふうん」
拓斗の返事は軽かった。
優里は少しだけ拍子抜けした。
「それだけ?」
「何て言えばいいの」
「別に」
「俺に決められる話じゃないでしょ」
「まあ、そうだけど」
拓斗は笑った。
「優里が決めることじゃない?」
「うん」
その言葉を、優里は自分に都合よく受け取った。
止められなかった。
それだけでいいような気がした。
◇
義雄が帰ってきたのは十時半を過ぎてからだった。
海美は寝ている。
紗良も自分の部屋へ上がっていた。
優里はリビングで待っていた。
「ただいま」
「おかえり」
義雄はネクタイを緩めながら台所へ向かう。
「飯ある?」
「ある」
「食う」
優里は座ったまま動かなかった。
いつもなら冷蔵庫の中にあると言うだけだった。
「義雄」
「ん?」
「ちょっと話したいんだけど」
義雄が振り返った。
「何?」
「座って」
「先飯食っていい?」
「あとでいいでしょ」
義雄は少し嫌そうな顔をしたが、向かいの椅子へ座った。
優里はテーブルの端に置いていた紙を取った。
義雄の前へ置く。
「何これ」
見れば分かる。
義雄は紙を見たまま動かなかった。
「離婚したい」
「は?」
「離婚」
「いや、見りゃ分かるけど」
義雄は顔を上げた。
「なんで?」
「前から考えてた」
「聞いてない」
「今言った」
「そういう話じゃないだろ」
声が少し大きくなる。
優里は階段の方を見た。
「声大きい」
「いや、こんなの急に出されたら大きくもなるだろ」
「急じゃないよ」
「俺には急なんだよ」
義雄は離婚届を押し返した。
「無理」
「何が?」
「離婚」
「なんで?」
「なんでって、子どもどうすんだよ」
「私が見る」
「そういう話じゃないだろ」
「じゃあどういう話?」
「紗良と海美は?」
「だから私が――」
「父親いなくなるんだぞ」
「死ぬわけじゃないでしょ」
「そういう問題じゃねえよ」
優里は黙った。
義雄も黙った。
冷蔵庫の音だけが聞こえた。
「何がそんなに嫌なの」
義雄が聞いた。
「何が?」
「俺の何が嫌なの」
優里はしばらく考えた。
一つだけではない。
だから一つにまとめることもできなかった。
「話さないじゃん」
「何を」
「何も」
「普通に話してるだろ」
「子どものこととか、ゴミの日とか、そういうのだけでしょ」
「じゃあ何話せばいいんだよ」
「そういうところ」
「分かんねえよ」
優里は息を吐いた。
「昔からそう。何考えてるか分かんないし。何かあっても何も言わないし」
「言ったって聞かねえだろ」
「ほら」
「何が」
「それ。最初から決めつけて何も言わない」
「言っても面倒になるだけだから言わなくなったんだよ」
「じゃあ私が悪いってこと?」
「そういう話してないだろ」
「してるじゃん」
「だから面倒なんだよ」
義雄は言ってから、少しだけ顔をしかめた。
優里は笑わなかった。
「そういうのが十五年続いたんだよ」
「お前だって同じだろ」
「何が?」
「何かあったらすぐ実家帰るし」
「それ関係ある?」
「あるよ」
「何が悪いの。自分の実家に帰って」
「頻度の話だよ」
「行くなって言われたことないけど」
「言ったらまた面倒だろ」
「言ってないじゃん」
「だから今言ってんだよ」
「今さらでしょ」
「今さら言わせてんのはお前だろ」
義雄は椅子にもたれた。
「家のことだってそうだよ」
「何?」
「専業で家にいるのに、なんであんなに散らかってんだよってずっと思ってた」
優里の顔が変わった。
「は?」
「ほら」
「何が、ほらなの?」
「すぐそうなるだろ」
「じゃあ毎日全部自分でやればよかったじゃん」
「そういう話じゃない」
「自分は仕事してるから偉いってこと?」
「そんなこと言ってないだろ」
「言ってるのと同じじゃん」
義雄は顔を手で擦った。
「もういい」
「ほらまたそれ」
「話にならないだろ」
「それ私のせい?」
「もういいって」
優里は離婚届を義雄の方へ押した。
「だから離婚したいの」
「しない」
「私はしたい」
「俺はしない」
「じゃあずっとこのまま?」
「知らねえよ」
「私は嫌」
「俺は今決めない」
義雄は立ち上がった。
冷蔵庫を開け、ラップのかかった皿を取り出した。
電子レンジに入れる。
優里はその背中を見ていた。
十五年。
結局、最後までこんな話しかできない。
そう思った。
◇
翌朝。
義雄はほとんど口を利かなかった。
紗良と海美がいる前では、いつも通りだった。
「海美、牛乳こぼすぞ」
「大丈夫」
「大丈夫なやつは両手で持て」
「持ってる」
「片手じゃん」
海美が笑う。
義雄も笑った。
優里はその二人を見ていた。
昨夜の話が嘘みたいだった。
紗良だけが何度か優里と義雄を交互に見た。
「お父さん今日遅い?」
「分かんない」
優里が答える。
義雄は食べ終わった皿を流しへ運んだ。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
海美が言う。
「いってらっしゃい」
紗良も続く。
優里は何も言わなかった。
義雄も優里を見なかった。
玄関の扉が閉まった。
午前中、連絡はなかった。
昼を過ぎてもなかった。
三時前になって、短いメッセージが届いた。
『今日は帰らない』
優里はしばらく画面を見た。
『分かった』
それだけ返した。
◇
「本気なの?」
波山恵子は、テーブルの上の離婚届を見ながら言った。
「うん」
「義雄さんは?」
「今は嫌だって」
「そりゃそうでしょ」
「なんで?」
「なんでって」
恵子は呆れたように優里を見た。
「十五年結婚して子ども二人いて、昨日急にこれ出されたんでしょ?」
「私は急じゃないよ」
「義雄さんには急じゃん」
優里は缶のチューハイを開けた。
「でも前からうまくいってなかったし」
「それと離婚は別だよ」
「別じゃないでしょ」
「別だよ」
恵子は酒には手をつけず、お茶を飲んだ。
娘たちは二階にいる。
海美は恵子が来たことを喜び、しばらくリビングにいたが、紗良に連れて上へ行った。
「で、離婚してどうするの?」
「実家あるし」
「仕事は?」
「探す」
「今?」
「離婚してから」
「なんで今探さないの?」
「まだ離婚してないから」
「そういう話じゃないんだけど」
恵子がため息をついた。
「四十二だよ」
「分かってる」
「仕事辞めてどのくらい?」
「結婚してからずっとだから」
「十五年?」
「途中ちょっとだけ働いたけど」
「それで仕事すぐ見つかると思ってる?」
「何かあるでしょ」
「何かって何?」
「事務とか」
「何時から何時まで?」
「普通に九時五時」
「海美は?」
「実家近いし」
「お母さんに頼むの?」
「困ったらね」
恵子は何も言わなかった。
「何?」
「いや」
「言って」
「それ、お母さんには聞いたの?」
「聞かなくても大丈夫でしょ」
「なんで?」
「親だし」
「……そっか」
「何その言い方」
「別に」
優里は少しむっとした。
「離婚したら困るって話ばっかりするね」
「だって困るから言ってる」
「なんとかなるよ」
「その『なんとか』を誰がするのって話」
「私でしょ」
「だったら今から考えなよ」
「考えてるって」
「考えてないよ」
恵子は少し強く言った。
優里が黙る。
「家は?」
「売ると思う」
「ローン残ってるでしょ」
「義雄が払うんじゃない?」
「なんで?」
「家建てたの義雄だし」
「二人の家じゃないの?」
「名義は義雄だよ」
「そういう話じゃなくてさ」
恵子は額に手を当てた。
「子どものこと、仕事、お金、住むところ。その辺ちゃんと決めてからでも遅くないでしょ」
「でも離婚するって決めたから」
「決めたから何?」
「もう気持ちは変わらない」
「……拓斗くん?」
優里は少しだけ目を逸らした。
「関係ない」
「あるでしょ」
「ないよ」
「二年以上続いてるんでしょ」
「だからって拓斗のために離婚するわけじゃない」
「じゃあ聞いた?」
「何を?」
「離婚したらどうするって」
「まだ」
「なんで?」
「そんな話、離婚してからでいいじゃん」
恵子はしばらく黙っていた。
「優里」
「何」
「一回ちゃんと聞いた方がいいよ」
「何を?」
「全部」
「誰に?」
「義雄さんにも、拓斗くんにも」
「義雄はもういい」
「そういうところだよ」
優里は眉を寄せた。
「何が?」
「あんた、人の話聞かない時あるよ」
「聞いてるじゃん」
「聞いてるんじゃなくて、答え決めてから聞いてる」
「何それ」
「今もそう」
「じゃあ離婚するなってこと?」
「そこまで言ってない」
「じゃあ何?」
「ちゃんと考えろって言ってるだけ」
「考えてる」
「ならいいけど」
恵子はそれ以上言わなかった。
優里は少し苛立っていた。
応援してくれると思っていた。
少なくとも、
「よく決めたね」
くらい言ってくれると思っていた。
「恵子は離婚してよかったんでしょ」
「私はね」
「じゃあ分かるじゃん」
「分かるから言ってるんだけど」
「何が?」
「離婚したら終わりじゃないよ」
優里は黙った。
「その後の方が長いんだから」
「分かってる」
「ならいい」
「何それ」
「もういいよ」
恵子は笑った。
「そこまで決めてるなら、あとは好きにしなよ」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「呆れてる?」
「ちょっとね」
優里も笑った。
話はそこで終わった。
少なくとも、優里の中では。
◇
義雄が泊まったのは会社近くのビジネスホテルだった。
一人になりたかった。
優里と話したくなかった。
それだけだった。
翌日も会社へ行った。
仕事をしている間は、家のことを考えなくて済んだ。
部下から資料を渡され、確認し、会議へ出る。
森山に呼ばれれば行く。
いつも通りだった。
昼休み、スマートフォンを見る。
美知からメッセージが来ていた。
『今日会えたりします?』
義雄は少し迷った。
『大丈夫です』
送った。
その夜、美知と会った。
離婚の話はしなかった。
「疲れてます?」
美知が聞いた。
「ちょっと仕事がね」
「大変なんですね」
「まあ、いつものこと」
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
義雄は笑った。
楽だった。
美知は義雄の話を聞く。
質問する。
笑う。
何を言っても、過去の話にはならない。
優里ならこう返すだろう。
そんなことを考える必要もない。
「次いつ会えます?」
美知が聞いた。
「来週かな」
「平日?」
「その方がいいかな」
「じゃあ合わせます」
「いいの?」
「私も会いたいので」
その言葉を聞いたとき、義雄はほんの少し考えた。
離婚。
昨夜までは、ありえないと思っていた。
娘たちと離れる。
家を売る。
十五年の生活を終わらせる。
そんなことをする理由が分からなかった。
でも。
優里が本気で離婚したいと言い続けるなら。
夫婦としてもう戻れないなら。
このまま無理に続ける意味があるのか。
美知の顔を見る。
この人がいる。
そう思った。
もちろん、それだけで離婚するつもりはなかった。
自分はそんな無責任な男ではない。
義雄はそう思っていた。
◇
義雄は二日後に家へ戻った。
優里は何も聞かなかった。
義雄も何も言わなかった。
離婚届は引き出しへ戻された。
しかし、話がなくなったわけではなかった。
一週間後。
また話した。
次の週にも話した。
優里の気持ちは変わらなかった。
「私は離婚したい」
「子どもは?」
「私が育てる」
「それだけで決めるなよ」
「じゃあどうしたいの?」
義雄には答えられなかった。
離婚したくない。
でも、これから優里とどうしたいのかと聞かれると分からない。
仲良くしたいのか。
昔のように戻りたいのか。
夫婦としてもう一度やり直したいのか。
どれも口から出てこなかった。
ただ、家庭をなくしたくない。
それだけだった。
◇
その間も義雄は美知に会った。
週に一度のこともあれば、二週間空くこともあった。
食事をした。
映画を見た。
車で出かけた。
美知は自分が既婚者と付き合っているとは知らない。
「三田さんって、家広そう」
「なんで?」
「なんとなく」
「普通だよ」
「一人暮らしなのに?」
一瞬、義雄の動きが止まる。
「昔から住んでるから」
「へえ」
美知は疑わなかった。
義雄もそれ以上話さなかった。
嘘は、最初についた一つだけのつもりだった。
けれど一つを守るためには、次の嘘が必要になる。
義雄はそのことを深く考えなかった。
離婚すれば。
そう思うことが増えた。
離婚すれば、もう隠す必要はなくなる。
◇
優里も拓斗に会い続けていた。
「まだ揉めてるの?」
拓斗が聞いた。
「揉めてるっていうか、義雄が納得してない」
「そりゃまあ、急ならそうなんじゃない」
「急じゃないんだけどね」
「旦那さんには急なんでしょ」
「恵子にも同じこと言われた」
「正論じゃん」
「拓斗まで言う?」
「いや、俺関係ないし」
優里は笑った。
「ほんと冷たいよね」
「そう?」
「そう」
「じゃあ別れる?」
拓斗が冗談っぽく言う。
「やだ」
「じゃあいいじゃん」
拓斗は笑った。
優里も笑った。
それを本気で受け取る理由はなかった。
二年以上続いている。
拓斗はいつもこういう言い方をする。
優里はそう思っていた。
◇
二ヶ月が過ぎた。
三ヶ月目に入った頃には、義雄も以前ほど強く離婚を拒まなくなっていた。
話し合う内容も変わった。
離婚するかどうかではなく、離婚したらどうするか。
家。
住宅ローン。
娘たち。
養育費。
面会。
「家は売るしかないだろ」
義雄が言った。
「私たちが住んじゃダメなの?」
「ローン払えんの?」
優里は黙った。
「売って残り返す。それでまだ残ったら俺が持つ」
「いいの?」
「よくはないけど、他にないだろ」
「親権は私でいいよね」
「……うん」
義雄の返事は少し遅かった。
「面会は?」
「会わせないなんて言ってないよ」
「月一回は」
「分かった」
「海美は嫌がるだろうな」
優里は答えなかった。
紗良も。
そう思った。
◇
二人が娘たちに話したのは、その数日後だった。
日曜日の夕方。
四人で食事をしたあとだった。
「ちょっと話あるから」
義雄が言った。
紗良が箸を止めた。
海美はまだ食べている。
「何?」
優里は何から言えばいいのか迷った。
結局、義雄が先に口を開いた。
「お父さんとお母さん、離婚することになった」
海美の手が止まった。
「りこん?」
「うん」
「なんで?」
誰もすぐに答えられなかった。
「お父さんとお母さんが、別々に暮らすってこと」
優里が言った。
「なんで?」
「いろいろあって」
「何が?」
海美の顔が崩れた。
「私たち何かした?」
「違う」
義雄がすぐに言った。
「紗良も海美も何も悪くない」
「じゃあなんで?」
「お父さんとお母さんの問題」
「やだ」
海美は泣き出した。
「やだ。四人がいい」
優里が抱き寄せた。
「海美」
「やだ!」
紗良は泣かなかった。
黙って義雄と優里を見ていた。
「いつから?」
紗良が聞いた。
「何が?」
優里が答える。
「離婚するって決めてたの」
「最近」
「最近って?」
「少し前から」
「ふうん」
紗良はそれ以上聞かなかった。
でも、その顔を見て、優里は少し気になった。
「何?」
「別に」
「何か言いたいことある?」
「ない」
紗良は席を立った。
「海美、部屋行こ」
「やだ」
「行こ」
泣いている妹の手を引く。
階段を上がる途中、紗良が一度だけ振り返った。
何も言わなかった。
◇
離婚届を役所へ出したのは、それからさらに数週間後だった。
優里と義雄は並んで窓口に座った。
書類を確認される。
いくつか質問をされる。
足りないところに記入する。
十五年の結婚生活に比べれば、驚くほど短い時間だった。
「こちらで受理いたします」
職員が言った。
「はい」
優里が答えた。
義雄も小さく頭を下げた。
役所を出る。
外はよく晴れていた。
二人は入口の前で立ち止まった。
「じゃあ」
義雄が言った。
「うん」
「家のこと、また連絡する」
「分かった」
「子どもたちよろしく」
「うん」
それだけだった。
十五年前。
優里が義雄と結婚したとき、こんなふうに終わるとは思っていなかった。
義雄も同じだった。
けれど今、二人はもう夫婦ではない。
「じゃあね」
「うん」
優里は駅の方へ歩き出した。
義雄は反対側へ向かった。
二人とも振り返らなかった。




