ep.4
美知から連絡が来なくなって、五日が過ぎた。
義雄は何度かスマートフォンを開いた。
最後のやり取りは、
『少し時間ほしい』
『分かった』
そこで止まっている。
分かったと返した以上、こちらから何度も連絡するのも違う気がした。
それでも朝起きると確認した。
昼休みに確認した。
仕事が終わる頃にも確認した。
何もない。
義雄はスマートフォンを伏せ、目の前の資料へ戻った。
「三田さん」
部下に呼ばれる。
「ん?」
「昨日お願いした件なんですけど」
「ああ。見たよ」
「どうでした?」
「二ページ目、数字違う。去年の使ってる」
「あ、すみません」
「直したらもう一回持ってきて」
「はい」
部下が戻っていく。
義雄はパソコンの画面を見た。
仕事をしている間はまだいい。
余計なことを考えなくて済む。
家に帰ると、考えることが増える。
一人暮らしを始めたばかりの部屋は、まだそれほど散らかっていなかった。
洗濯も二日に一度回している。
食事はほとんど外かコンビニだった。
困ることはない。
むしろ楽だった。
ただ、美知から連絡がないことだけが気になった。
離婚した。
今は独身だ。
なら、これから普通に付き合える。
義雄はそう考えていた。
問題は過去にある。
美知にとっては、そこが一番大きいらしい。
義雄には、まだ完全には分かっていなかった。
◇
優里は求人サイトを見ていた。
「事務って結構あるじゃん」
独り言を言う。
勤務地を絞り、勤務時間を確認する。
九時から十七時。
土日休み。
未経験可。
ブランク可。
その文字を見ると少し安心した。
大学も出ている。
結婚前は働いていた。
パソコンだって使えないわけではない。
十五年近くまともに働いていないとはいえ、何もできないわけではない。
何社か応募すれば、どこかには決まる。
そう思った。
「何見てるの?」
海美が横から覗く。
「仕事」
「お母さん働くの?」
「働くよ」
「何するの?」
「まだ決まってない」
「お店?」
「お店じゃないと思う」
「じゃあ先生?」
「なんでそうなるの」
優里が笑う。
海美も笑った。
向かいでは紗良が宿題をしていた。
「お母さん」
「何?」
「働いたら帰り遅くなる?」
「そんな遅くならないよ」
「何時?」
「五時とか」
「じゃあ大丈夫か」
紗良はまたノートへ目を落とした。
「何が?」
「海美」
「私?」
「おばあちゃんいるから大丈夫でしょ」
優里が言う。
紗良は何も返さなかった。
優里は求人画面へ戻った。
その日の夜、拓斗にメッセージを送った。
『今週会える?』
既読はすぐについた。
返事は十分ほどしてから来た。
『ちょっと忙しい』
優里は画面を見た。
『来週は?』
今度は少し時間がかかった。
『まだ分からない』
それだけだった。
優里は眉を寄せた。
二年以上続いてきて、こんな返事は珍しかった。
『何かあった?』
『特にないよ』
『じゃあなんで会えないの?』
『店忙しいから』
優里はしばらく画面を見た。
『分かった』
送って、スマートフォンを置いた。
腹が立った。
何かあったに決まっている。
離婚したと言ってからだ。
それまでは普通だった。
どうして急に。
優里には分からなかった。
◇
一週間後。
美知からメッセージが来た。
『一回会って話したい』
義雄はすぐに返した。
『分かった』
場所は美知が指定した。
駅近くのカフェだった。
義雄が着いたとき、美知はすでに座っていた。
「ごめん、待った?」
「そんなに」
前と同じような会話だった。
でも前とは違った。
義雄は向かいに座った。
「この前はごめん」
「うん」
「ちゃんと話した方がいいと思って」
「私も」
美知はコーヒーに手をつけなかった。
「いつから離婚の話してたんですか?」
「三ヶ月くらい前」
「じゃあ、私と会い始めた頃?」
「その少しあと」
美知は義雄を見た。
「私と会ったから離婚したんですか?」
「違う」
義雄はすぐに答えた。
「それは違う」
「じゃあ奥さんから?」
「向こうから言われた」
「三田さんは離婚したくなかった?」
「最初はね」
「最初は」
「話してるうちに、もういいのかなって」
「どうして?」
義雄は少し考えた。
「夫婦として、もう終わってたのかもしれない」
「でも私とは会ってた」
「うん」
「奥さんは知ってたんですか?」
「知らない」
美知は目を伏せた。
「じゃあやっぱり不倫じゃないですか」
「……そうなる」
「そうなる、じゃなくて」
「ごめん」
「私、知らなかったんですよ」
「分かってる」
「分かってないと思う」
美知の声は大きくなかった。
怒鳴ってもいない。
それが余計に義雄には堪えた。
「私は、自分が普通に独身の人と付き合ってると思ってたんです」
「うん」
「三田さんのこと、友達にも話した」
義雄が顔を上げた。
「四十六歳で、ちょっと年上だけど、ちゃんとしてる人だって」
「……うん」
「結婚考えるなら年上でもいいかなって」
義雄は何も言えなかった。
「それが全部違った」
「今は違わない」
美知が義雄を見た。
「何が?」
「今は本当に独身だし」
「だから?」
義雄は止まった。
「今独身だから、何なんですか?」
「いや」
「三田さん、最初に独身って言いましたよね」
「言った」
「それが嘘だった」
「うん」
「一人暮らしっていうのも嘘だった」
「……そうだね」
「土日忙しいっていうのも?」
「家族といた」
「夜電話出なかったのも?」
「家にいたから」
美知は少し笑った。
笑ったというより、息が漏れた。
「全部じゃん」
義雄は答えられなかった。
「今から付き合い直そうって言われても、何を信じればいいのか分からないです」
「もう嘘はつかない」
「それをどうやって信じるんですか?」
「……」
「もし今度、私と結婚したとして」
義雄の表情が少し変わる。
「また誰かに独身って言わないって、私は何を見て信じればいいんですか?」
「しないよ」
「だから、その言葉を信じられないんです」
義雄は黙った。
そこで初めて少しだけ分かった。
美知が怒っているのは、自分が結婚していたことだけではない。
離婚したかどうかでもない。
最初から、美知が選ぶために必要なことを隠していた。
美知は既婚者と付き合うかどうかを選んでいない。
義雄が勝手に選択肢を消した。
「ごめん」
もう一度言った。
今度は前より小さかった。
美知はしばらく黙っていた。
「私、三田さんのこと嫌いじゃないです」
義雄が顔を上げる。
「だから困ってる」
「……うん」
「嫌いになれれば簡単なんだけど」
美知はようやくコーヒーを一口飲んだ。
「でも、今までと同じには戻れないです」
「じゃあ」
「分からない」
「時間置けば」
「分からないって言ってる」
義雄はそれ以上言わなかった。
美知は時計を見た。
「今日は帰ります」
「送るよ」
「大丈夫」
「駅まで」
「大丈夫です」
美知は立ち上がった。
義雄も立とうとして、やめた。
「連絡は?」
「私からします」
「分かった」
美知は頭を下げた。
「じゃあ」
「うん」
義雄は一人で残った。
テーブルの上には、美知が半分も飲まなかったコーヒーが置かれていた。
◇
拓斗から連絡がないまま、さらに数日が過ぎた。
優里は何度かメッセージを送った。
『今日どう?』
『忙しい』
『明日は?』
『ちょっと無理』
『いつなら会える?』
『また連絡する』
その「また」が来ない。
以前は違った。
拓斗からも連絡が来た。
急に、
『今日暇?』
と来ることもあった。
昼だけだったけれど、それでも会う時間は作っていた。
優里はスマートフォンを握ったまま考えた。
忙しいと言っている。
本当に忙しいのかもしれない。
店を経営している。
仕事なのだから仕方ない。
そう思おうとした。
けれど、拓斗の店の営業時間は知っている。
場所も知っている。
二年以上付き合っている。
店へ行ったことがないわけでもない。
優里は家を出た。
「どこ行くの?」
母親が聞いた。
「ちょっと買い物」
「海美は?」
「家にいるって」
「そう」
優里はそのまま駅へ向かった。
◇
拓斗の店は営業中だった。
入口を開ける。
「いらっしゃいませ」
若いスタッフが声をかけた。
優里は店内を見た。
「相馬さんいます?」
「オーナーですか?」
「はい」
スタッフは少しだけ間を置いた。
「今ちょっと手が離せなくて」
「いるんですよね?」
「はい」
「少しだけ話したいんですけど」
「確認してきます」
スタッフが奥へ消えた。
優里は入口近くで待った。
客は数組いる。
店内は忙しそうだった。
しばらくして、スタッフが戻ってきた。
「すみません。今ちょっと無理みたいで」
「どのくらい待てばいいですか?」
「分からないです」
「じゃあ待ちます」
「いや」
スタッフが困った顔をした。
「今日はちょっと……」
優里は眉を寄せた。
「私、知り合いなんですけど」
「はい」
「名前言いました?」
「言いました」
「じゃあ分かってますよね」
「はい」
優里はその返事で分かった。
忙しくて会えないのではない。
会いたくない。
スマートフォンを取り出した。
『店来てる』
送る。
既読がつく。
すぐに返事が来た。
『なんで来たの?』
優里の胸が詰まる。
『会えないから』
『今仕事中』
『少しだけでいい』
しばらく返事がない。
スタッフは離れたところに立っている。
優里はその場から動かなかった。
やがて奥の扉が開いた。
拓斗が出てきた。
「何してるの」
声は低かった。
「だって全然会えないから」
「今仕事中なんだけど」
「分かってるよ」
「じゃあなんで来るの」
「話したいから」
「ここで?」
「少し外出れない?」
「無理」
「じゃあ終わるまで待つ」
「優里」
拓斗が周りを見た。
「帰って」
優里は拓斗を見た。
「何で?」
「仕事だから」
「仕事終わったら話せる?」
「今日は無理」
「じゃあいつ?」
「また連絡する」
「ずっとそれじゃん」
「今ここでやる話じゃない」
「だったら会ってよ」
スタッフが遠くを見るふりをしている。
優里にもそれが分かった。
「私、何かした?」
「してるよ」
「何?」
「こうやって店来てるじゃん」
「今までだって来たことあるでしょ」
「こういう来方してないでしょ」
「こういうって?」
「会えないからって確認しに来るみたいなの」
「確認なんてしてない」
「してるじゃん」
「だって拓斗が」
「俺が何?」
優里は言葉に詰まった。
拓斗が小さく息を吐いた。
「今日は帰って」
「話は?」
「また今度」
「いつ?」
「分からない」
「何で?」
拓斗は少し黙った。
「優里」
「何」
「店には来ないで」
優里は動かなかった。
「何それ」
「そのままの意味」
「私、邪魔?」
「今はね」
「今はって」
「仕事してるから」
「仕事じゃない時ならいいの?」
拓斗は答えなかった。
それが答えだった。
優里はバッグを持ち直した。
「分かった」
店を出た。
拓斗は追ってこなかった。
◇
「何で?」
その日の夜、優里は何度目か分からない言葉を送った。
『何で急にこうなったの?』
拓斗から返事が来たのは一時間ほどしてからだった。
『急じゃないよ』
『じゃあ何?』
『最近ちょっと重い』
優里は画面を見た。
『離婚したから?』
『それもある』
『意味分かんない』
『俺は今まで通りのつもりだったから』
『だから今までより会えるじゃん』
『そういうことじゃない』
優里は苛立って文字を打った。
『じゃあどういうこと?』
既読。
返事が来ない。
『拓斗』
しばらくして電話が鳴った。
拓斗からだった。
優里はすぐに出た。
「もしもし」
『メッセージだと面倒だから』
「何が面倒なの」
『こうなること』
「こうなるって何?」
『優里、俺たちのことどう思ってた?』
「付き合ってると思ってたけど」
『俺も付き合ってるとは思ってたよ』
「じゃあ何?」
『でも優里結婚してたでしょ』
「またそれ?」
『またじゃなくて、そこ大事だから』
「もう離婚したよ」
『だからそれが俺には関係ないんだって』
優里は黙った。
「関係ないって何?」
『優里が離婚するかどうかは優里と旦那さんの話でしょ』
「元旦那」
『どっちでもいいけど』
「私たち二年以上だよ」
『うん』
「何とも思わないの?」
『何ともって?』
「これからどうするかとか」
『前にも言ったけど、考えてなかったよ』
「何で?」
『何でって、あなた既婚者だったでしょ?』
優里は息を飲んだ。
言い方が腹立たしかった。
「だから何?」
『だから、最初から結婚とかそういう相手として見てないってこと』
「遊びだったってこと?」
『そういう言い方されると違うけど』
「違わないじゃん」
『俺、結婚するって言った?』
「言ってない」
『離婚してって言った?』
「言ってないけど」
『一緒になろうって言った?』
「……言ってない」
『でしょ』
「でも普通、二年以上続いたら」
『その普通、俺には分からないよ』
優里は何も言えなかった。
拓斗の声は冷たくない。
怒ってもいない。
それが逆にひどいと思った。
「じゃあ私は何のために離婚したの?」
少し間があった。
『それ俺に言われても困るよ』
優里は唇を噛んだ。
『俺、離婚してくれなんて頼んだこともお願いしたこともないよ』
「……」
『優里が離婚したいから離婚したんじゃないの?』
「そうだけど」
『じゃあ俺のせいにされても困る』
「してない」
『してるよ、今』
「してない!」
『じゃあ何でそんな怒ってんの』
「拓斗が急に変わったからでしょ!」
『俺は変わってないよ』
「変わったよ」
『優里が変わったんだよ』
「何が?」
『今まで昼に会って、それで帰ってたじゃん』
「だから?」
『それでよかったでしょ』
「私はもっと会いたかった」
『それ、今初めて聞いた』
優里は止まった。
『旅行したいとか、将来どうするとか、今までそんな話してないじゃん』
「言わなくても分かると思ってた」
拓斗は少し黙った。
『分からないよ』
その一言が優里の胸に残った。
「二年以上一緒にいても?」
『二年以上一緒にいたら何でも分かるの?』
優里は答えられなかった。
『今日はもう切るね』
「待って」
『明日早いから』
「拓斗」
『また』
電話が切れた。
優里はしばらくスマートフォンを耳に当てたままだった。
画面が暗くなる。
リビングではテレビの音がしている。
母親と父親が何か話している。
紗良と海美はもう寝ていた。
優里は自分の部屋へ戻った。
以前使っていた部屋。
今は娘二人の荷物も入っている。
布団が三組並んでいる。
優里はその端に座った。
「分からないよ」
拓斗の言葉が残っていた。
義雄にも、似たようなことを言ったことがある気がした。
言わなきゃ分からない。
あの人は何も言わない。
優里は眉を寄せた。
今は義雄のことを考えたくなかった。
◇
数日後。
美知から義雄に電話が来た。
「もしもし」
『今大丈夫ですか?』
「大丈夫」
『この前のこと、考えました』
義雄は黙って聞いた。
『やっぱり無理です』
胸の奥が重くなった。
「そっか」
『ごめんなさい』
「美知が謝ることじゃないよ」
『三田さんのこと好きだったから、考えれば考えるほど無理でした』
「……うん」
『信じたいって思っても、何かあるたびに疑うと思う』
「もう嘘は」
『分かってます』
美知が言葉を重ねた。
『でも、それを確認しながら付き合うの嫌なんです』
義雄は何も言えなかった。
『今日は本当に会社?とか』
『本当に一人?とか』
『その人誰?とか』
『ずっとそうなると思う』
「ならないよ」
『私がなるんです』
義雄は目を閉じた。
自分がどうするかではなく、美知がどうなるか。
そこまで考えたことがなかった。
『だから終わりにしたいです』
「分かった」
口にしたあと、少し間が空いた。
「ごめん」
『うん』
「本当に」
『うん』
「元気で」
美知が少し笑った。
『急におじさんみたい』
「おじさんだよ」
『そうでした』
義雄も少し笑った。
その笑いが最後だった。
「じゃあ」
『はい』
電話が切れた。
義雄はしばらくスマートフォンを見ていた。
美知との写真が何枚か入っている。
食事。
ドライブ。
少し前まで、これから増えていくと思っていた。
義雄は画面を閉じた。
削除はしなかった。
今すぐそこまでする気にはならなかった。
◇
「最近元気ないね」
母親が優里に言った。
「そう?」
「仕事探し疲れた?」
「まだそんな探してない」
「じゃあ何?」
「別に」
優里は食卓で求人サイトを見ていた。
拓斗とは、あの電話から連絡を取っていない。
優里からも送っていない。
拓斗からも来ない。
終わったのかどうかさえ分からなかった。
ただ、こちらから連絡するのは嫌だった。
向こうから来れば、話はする。
優里はそう思っていた。
「これ応募してみようかな」
独り言のように言う。
母親が画面を覗く。
「遠くない?」
「電車で四十分くらい」
「海美のお迎えは?」
「お迎えってもう小学生だよ」
「習い事」
「ああ」
優里は少し考えた。
「お母さん行けるでしょ?」
母親は一瞬黙った。
「毎回?」
「毎回じゃないよ」
「何曜日?」
「まだ仕事決まってないって」
「決まってから困るより先に考えた方がいいでしょ」
「その時考えるよ」
「そう」
母親はそれ以上何も言わなかった。
優里はまた求人票へ目を戻した。
◇
義雄が娘たちと会う日が来た。
離婚して初めての面会だった。
待ち合わせ場所には、優里が紗良と海美を連れてきた。
「お父さん!」
海美が走ってくる。
「おう」
義雄は笑って受け止めた。
「どこ行く?」
「海美決めていい?」
「紗良にも聞け」
「私はどこでもいい」
「じゃあ水族館!」
義雄の動きが一瞬止まった。
「水族館?」
「うん!」
「いいよ」
美知と行くはずだった場所が頭をよぎった。
優里は気づかない。
「じゃあ五時くらい?」
「分かった」
「海美、ちゃんと言うこと聞くんだよ」
「分かってる!」
「紗良、お願いね」
「なんで私が」
「お姉ちゃんだから」
「それずるい」
義雄は笑った。
離婚前と変わらない会話だった。
ただ、優里は一緒に来ない。
「じゃあ」
優里が言う。
「うん」
義雄が答える。
優里はその場を離れた。
海美が義雄の手を握った。
「お父さん」
「何?」
「今日お父さん家行っていい?」
「俺ん家?」
「うん」
「何もないぞ」
「見たい」
「ほんとに何もないよ」
「泊まってもいい?」
義雄は答えるのが少し遅れた。
「今日は帰らないと」
「なんで?」
「お母さんと約束してるから」
「じゃあ今度は?」
「聞いてみるよ」
「絶対ね」
「分かった」
海美は満足したように笑った。
紗良は少し後ろを歩いていた。
「紗良」
「何?」
「学校どう?」
「普通」
「そうか」
「お父さんは?」
「何が」
「一人暮らし」
「楽だよ」
義雄は答えた。
「好きな時間に帰れるし」
「ふうん」
「何?」
「別に」
紗良は前を向いた。
その日の夕方。
娘たちを優里へ返した。
「楽しかった?」
優里が海美に聞く。
「水族館行った!」
「よかったね」
「今度お父さん家泊まる!」
優里が義雄を見た。
「そうなの?」
「海美が勝手に決めた」
「勝手じゃない!」
「今度相談するって言っただろ」
「約束した!」
「はいはい」
優里は小さく笑った。
「じゃあまた連絡して」
「うん」
紗良と海美が優里の方へ歩いていく。
海美が振り返る。
「お父さん!」
「ん?」
「またね!」
「おう」
義雄は手を上げた。
三人が人混みに消えるまで見送った。
帰りの電車で、義雄は一人だった。
夕飯は駅前で買った。
部屋へ戻り、電気をつける。
朝出たときのままだった。
誰もいない。
義雄は買ってきた弁当を机へ置いた。
スマートフォンを見る。
美知から連絡はない。
来ることも、もうない。
昼間はあれだけ海美が喋っていたのに、部屋は静かだった。
義雄はテレビをつけた。
◇
その夜。
優里は海美を寝かせたあと、スマートフォンを見た。
拓斗との画面を開く。
何も届いていない。
指を動かしかけて、やめた。
隣では海美が寝ている。
その向こうで紗良が本を読んでいた。
「紗良」
「何?」
「まだ寝ないの?」
「もうちょっと」
「明日学校でしょ」
「分かってる」
「早く寝なよ」
「うん」
優里はスマートフォンを伏せた。
娘たちがいる。
実家もある。
仕事だってこれから見つければいい。
まだ何も困っていない。
そう思った。
それでも、離婚する前に想像していた生活とは、少し違っていた。
義雄も同じ夜、一人の部屋で同じようなことを考えていた。
まだ、ほんの少し違うだけだった。




