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SCRAMBLE  作者: ヒロコトー
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4/8

ep.4

 美知から連絡が来なくなって、五日が過ぎた。


 義雄は何度かスマートフォンを開いた。


 最後のやり取りは、


『少し時間ほしい』


『分かった』


 そこで止まっている。


 分かったと返した以上、こちらから何度も連絡するのも違う気がした。


 それでも朝起きると確認した。


 昼休みに確認した。


 仕事が終わる頃にも確認した。


 何もない。


 義雄はスマートフォンを伏せ、目の前の資料へ戻った。


「三田さん」


 部下に呼ばれる。


「ん?」


「昨日お願いした件なんですけど」


「ああ。見たよ」


「どうでした?」


「二ページ目、数字違う。去年の使ってる」


「あ、すみません」


「直したらもう一回持ってきて」


「はい」


 部下が戻っていく。


 義雄はパソコンの画面を見た。


 仕事をしている間はまだいい。


 余計なことを考えなくて済む。


 家に帰ると、考えることが増える。


 一人暮らしを始めたばかりの部屋は、まだそれほど散らかっていなかった。


 洗濯も二日に一度回している。


 食事はほとんど外かコンビニだった。


 困ることはない。


 むしろ楽だった。


 ただ、美知から連絡がないことだけが気になった。


 離婚した。


 今は独身だ。


 なら、これから普通に付き合える。


 義雄はそう考えていた。


 問題は過去にある。


 美知にとっては、そこが一番大きいらしい。


 義雄には、まだ完全には分かっていなかった。



 優里は求人サイトを見ていた。


「事務って結構あるじゃん」


 独り言を言う。


 勤務地を絞り、勤務時間を確認する。


 九時から十七時。


 土日休み。


 未経験可。


 ブランク可。


 その文字を見ると少し安心した。


 大学も出ている。


 結婚前は働いていた。


 パソコンだって使えないわけではない。


 十五年近くまともに働いていないとはいえ、何もできないわけではない。


 何社か応募すれば、どこかには決まる。


 そう思った。


「何見てるの?」


 海美が横から覗く。


「仕事」


「お母さん働くの?」


「働くよ」


「何するの?」


「まだ決まってない」


「お店?」


「お店じゃないと思う」


「じゃあ先生?」


「なんでそうなるの」


 優里が笑う。


 海美も笑った。


 向かいでは紗良が宿題をしていた。


「お母さん」


「何?」


「働いたら帰り遅くなる?」


「そんな遅くならないよ」


「何時?」


「五時とか」


「じゃあ大丈夫か」


 紗良はまたノートへ目を落とした。


「何が?」


「海美」


「私?」


「おばあちゃんいるから大丈夫でしょ」


 優里が言う。


 紗良は何も返さなかった。


 優里は求人画面へ戻った。


 その日の夜、拓斗にメッセージを送った。


『今週会える?』


 既読はすぐについた。


 返事は十分ほどしてから来た。


『ちょっと忙しい』


 優里は画面を見た。


『来週は?』


 今度は少し時間がかかった。


『まだ分からない』


 それだけだった。


 優里は眉を寄せた。


 二年以上続いてきて、こんな返事は珍しかった。


『何かあった?』


『特にないよ』


『じゃあなんで会えないの?』


『店忙しいから』


 優里はしばらく画面を見た。


『分かった』


 送って、スマートフォンを置いた。


 腹が立った。


 何かあったに決まっている。


 離婚したと言ってからだ。


 それまでは普通だった。


 どうして急に。


 優里には分からなかった。



 一週間後。


 美知からメッセージが来た。


『一回会って話したい』


 義雄はすぐに返した。


『分かった』


 場所は美知が指定した。


 駅近くのカフェだった。


 義雄が着いたとき、美知はすでに座っていた。


「ごめん、待った?」


「そんなに」


 前と同じような会話だった。


 でも前とは違った。


 義雄は向かいに座った。


「この前はごめん」


「うん」


「ちゃんと話した方がいいと思って」


「私も」


 美知はコーヒーに手をつけなかった。


「いつから離婚の話してたんですか?」


「三ヶ月くらい前」


「じゃあ、私と会い始めた頃?」


「その少しあと」


 美知は義雄を見た。


「私と会ったから離婚したんですか?」


「違う」


 義雄はすぐに答えた。


「それは違う」


「じゃあ奥さんから?」


「向こうから言われた」


「三田さんは離婚したくなかった?」


「最初はね」


「最初は」


「話してるうちに、もういいのかなって」


「どうして?」


 義雄は少し考えた。


「夫婦として、もう終わってたのかもしれない」


「でも私とは会ってた」


「うん」


「奥さんは知ってたんですか?」


「知らない」


 美知は目を伏せた。


「じゃあやっぱり不倫じゃないですか」


「……そうなる」


「そうなる、じゃなくて」


「ごめん」


「私、知らなかったんですよ」


「分かってる」


「分かってないと思う」


 美知の声は大きくなかった。


 怒鳴ってもいない。


 それが余計に義雄には堪えた。


「私は、自分が普通に独身の人と付き合ってると思ってたんです」


「うん」


「三田さんのこと、友達にも話した」


 義雄が顔を上げた。


「四十六歳で、ちょっと年上だけど、ちゃんとしてる人だって」


「……うん」


「結婚考えるなら年上でもいいかなって」


 義雄は何も言えなかった。


「それが全部違った」


「今は違わない」


 美知が義雄を見た。


「何が?」


「今は本当に独身だし」


「だから?」


 義雄は止まった。


「今独身だから、何なんですか?」


「いや」


「三田さん、最初に独身って言いましたよね」


「言った」


「それが嘘だった」


「うん」


「一人暮らしっていうのも嘘だった」


「……そうだね」


「土日忙しいっていうのも?」


「家族といた」


「夜電話出なかったのも?」


「家にいたから」


 美知は少し笑った。


 笑ったというより、息が漏れた。


「全部じゃん」


 義雄は答えられなかった。


「今から付き合い直そうって言われても、何を信じればいいのか分からないです」


「もう嘘はつかない」


「それをどうやって信じるんですか?」


「……」


「もし今度、私と結婚したとして」


 義雄の表情が少し変わる。


「また誰かに独身って言わないって、私は何を見て信じればいいんですか?」


「しないよ」


「だから、その言葉を信じられないんです」


 義雄は黙った。


 そこで初めて少しだけ分かった。


 美知が怒っているのは、自分が結婚していたことだけではない。


 離婚したかどうかでもない。


 最初から、美知が選ぶために必要なことを隠していた。


 美知は既婚者と付き合うかどうかを選んでいない。


 義雄が勝手に選択肢を消した。


「ごめん」


 もう一度言った。


 今度は前より小さかった。


 美知はしばらく黙っていた。


「私、三田さんのこと嫌いじゃないです」


 義雄が顔を上げる。


「だから困ってる」


「……うん」


「嫌いになれれば簡単なんだけど」


 美知はようやくコーヒーを一口飲んだ。


「でも、今までと同じには戻れないです」


「じゃあ」


「分からない」


「時間置けば」


「分からないって言ってる」


 義雄はそれ以上言わなかった。


 美知は時計を見た。


「今日は帰ります」


「送るよ」


「大丈夫」


「駅まで」


「大丈夫です」


 美知は立ち上がった。


 義雄も立とうとして、やめた。


「連絡は?」


「私からします」


「分かった」


 美知は頭を下げた。


「じゃあ」


「うん」


 義雄は一人で残った。


 テーブルの上には、美知が半分も飲まなかったコーヒーが置かれていた。



 拓斗から連絡がないまま、さらに数日が過ぎた。


 優里は何度かメッセージを送った。


『今日どう?』


『忙しい』


『明日は?』


『ちょっと無理』


『いつなら会える?』


『また連絡する』


 その「また」が来ない。


 以前は違った。


 拓斗からも連絡が来た。


 急に、


『今日暇?』


 と来ることもあった。


 昼だけだったけれど、それでも会う時間は作っていた。


 優里はスマートフォンを握ったまま考えた。


 忙しいと言っている。


 本当に忙しいのかもしれない。


 店を経営している。


 仕事なのだから仕方ない。


 そう思おうとした。


 けれど、拓斗の店の営業時間は知っている。


 場所も知っている。


 二年以上付き合っている。


 店へ行ったことがないわけでもない。


 優里は家を出た。


「どこ行くの?」


 母親が聞いた。


「ちょっと買い物」


「海美は?」


「家にいるって」


「そう」


 優里はそのまま駅へ向かった。



 拓斗の店は営業中だった。


 入口を開ける。


「いらっしゃいませ」


 若いスタッフが声をかけた。


 優里は店内を見た。


「相馬さんいます?」


「オーナーですか?」


「はい」


 スタッフは少しだけ間を置いた。


「今ちょっと手が離せなくて」


「いるんですよね?」


「はい」


「少しだけ話したいんですけど」


「確認してきます」


 スタッフが奥へ消えた。


 優里は入口近くで待った。


 客は数組いる。


 店内は忙しそうだった。


 しばらくして、スタッフが戻ってきた。


「すみません。今ちょっと無理みたいで」


「どのくらい待てばいいですか?」


「分からないです」


「じゃあ待ちます」


「いや」


 スタッフが困った顔をした。


「今日はちょっと……」


 優里は眉を寄せた。


「私、知り合いなんですけど」


「はい」


「名前言いました?」


「言いました」


「じゃあ分かってますよね」


「はい」


 優里はその返事で分かった。


 忙しくて会えないのではない。


 会いたくない。


 スマートフォンを取り出した。


『店来てる』


 送る。


 既読がつく。


 すぐに返事が来た。


『なんで来たの?』


 優里の胸が詰まる。


『会えないから』


『今仕事中』


『少しだけでいい』


 しばらく返事がない。


 スタッフは離れたところに立っている。


 優里はその場から動かなかった。


 やがて奥の扉が開いた。


 拓斗が出てきた。


「何してるの」


 声は低かった。


「だって全然会えないから」


「今仕事中なんだけど」


「分かってるよ」


「じゃあなんで来るの」


「話したいから」


「ここで?」


「少し外出れない?」


「無理」


「じゃあ終わるまで待つ」


「優里」


 拓斗が周りを見た。


「帰って」


 優里は拓斗を見た。


「何で?」


「仕事だから」


「仕事終わったら話せる?」


「今日は無理」


「じゃあいつ?」


「また連絡する」


「ずっとそれじゃん」


「今ここでやる話じゃない」


「だったら会ってよ」


 スタッフが遠くを見るふりをしている。


 優里にもそれが分かった。


「私、何かした?」


「してるよ」


「何?」


「こうやって店来てるじゃん」


「今までだって来たことあるでしょ」


「こういう来方してないでしょ」


「こういうって?」


「会えないからって確認しに来るみたいなの」


「確認なんてしてない」


「してるじゃん」


「だって拓斗が」


「俺が何?」


 優里は言葉に詰まった。


 拓斗が小さく息を吐いた。


「今日は帰って」


「話は?」


「また今度」


「いつ?」


「分からない」


「何で?」


 拓斗は少し黙った。


「優里」


「何」


「店には来ないで」


 優里は動かなかった。


「何それ」


「そのままの意味」


「私、邪魔?」


「今はね」


「今はって」


「仕事してるから」


「仕事じゃない時ならいいの?」


 拓斗は答えなかった。


 それが答えだった。


 優里はバッグを持ち直した。


「分かった」


 店を出た。


 拓斗は追ってこなかった。



「何で?」


 その日の夜、優里は何度目か分からない言葉を送った。


『何で急にこうなったの?』


 拓斗から返事が来たのは一時間ほどしてからだった。


『急じゃないよ』


『じゃあ何?』


『最近ちょっと重い』


 優里は画面を見た。


『離婚したから?』


『それもある』


『意味分かんない』


『俺は今まで通りのつもりだったから』


『だから今までより会えるじゃん』


『そういうことじゃない』


 優里は苛立って文字を打った。


『じゃあどういうこと?』


 既読。


 返事が来ない。


『拓斗』


 しばらくして電話が鳴った。


 拓斗からだった。


 優里はすぐに出た。


「もしもし」


『メッセージだと面倒だから』


「何が面倒なの」


『こうなること』


「こうなるって何?」


『優里、俺たちのことどう思ってた?』


「付き合ってると思ってたけど」


『俺も付き合ってるとは思ってたよ』


「じゃあ何?」


『でも優里結婚してたでしょ』


「またそれ?」


『またじゃなくて、そこ大事だから』


「もう離婚したよ」


『だからそれが俺には関係ないんだって』


 優里は黙った。


「関係ないって何?」


『優里が離婚するかどうかは優里と旦那さんの話でしょ』


「元旦那」


『どっちでもいいけど』


「私たち二年以上だよ」


『うん』


「何とも思わないの?」


『何ともって?』


「これからどうするかとか」


『前にも言ったけど、考えてなかったよ』


「何で?」


『何でって、あなた既婚者だったでしょ?』


 優里は息を飲んだ。


 言い方が腹立たしかった。


「だから何?」


『だから、最初から結婚とかそういう相手として見てないってこと』


「遊びだったってこと?」


『そういう言い方されると違うけど』


「違わないじゃん」


『俺、結婚するって言った?』


「言ってない」


『離婚してって言った?』


「言ってないけど」


『一緒になろうって言った?』


「……言ってない」


『でしょ』


「でも普通、二年以上続いたら」


『その普通、俺には分からないよ』


 優里は何も言えなかった。


 拓斗の声は冷たくない。


 怒ってもいない。


 それが逆にひどいと思った。


「じゃあ私は何のために離婚したの?」


 少し間があった。


『それ俺に言われても困るよ』


 優里は唇を噛んだ。


『俺、離婚してくれなんて頼んだこともお願いしたこともないよ』


「……」


『優里が離婚したいから離婚したんじゃないの?』


「そうだけど」


『じゃあ俺のせいにされても困る』


「してない」


『してるよ、今』


「してない!」


『じゃあ何でそんな怒ってんの』


「拓斗が急に変わったからでしょ!」


『俺は変わってないよ』


「変わったよ」


『優里が変わったんだよ』


「何が?」


『今まで昼に会って、それで帰ってたじゃん』


「だから?」


『それでよかったでしょ』


「私はもっと会いたかった」


『それ、今初めて聞いた』


 優里は止まった。


『旅行したいとか、将来どうするとか、今までそんな話してないじゃん』


「言わなくても分かると思ってた」


 拓斗は少し黙った。


『分からないよ』


 その一言が優里の胸に残った。


「二年以上一緒にいても?」


『二年以上一緒にいたら何でも分かるの?』


 優里は答えられなかった。


『今日はもう切るね』


「待って」


『明日早いから』


「拓斗」


『また』


 電話が切れた。


 優里はしばらくスマートフォンを耳に当てたままだった。


 画面が暗くなる。


 リビングではテレビの音がしている。


 母親と父親が何か話している。


 紗良と海美はもう寝ていた。


 優里は自分の部屋へ戻った。


 以前使っていた部屋。


 今は娘二人の荷物も入っている。


 布団が三組並んでいる。


 優里はその端に座った。


「分からないよ」


 拓斗の言葉が残っていた。


 義雄にも、似たようなことを言ったことがある気がした。


 言わなきゃ分からない。


 あの人は何も言わない。


 優里は眉を寄せた。


 今は義雄のことを考えたくなかった。



 数日後。


 美知から義雄に電話が来た。


「もしもし」


『今大丈夫ですか?』


「大丈夫」


『この前のこと、考えました』


 義雄は黙って聞いた。


『やっぱり無理です』


 胸の奥が重くなった。


「そっか」


『ごめんなさい』


「美知が謝ることじゃないよ」


『三田さんのこと好きだったから、考えれば考えるほど無理でした』


「……うん」


『信じたいって思っても、何かあるたびに疑うと思う』


「もう嘘は」


『分かってます』


 美知が言葉を重ねた。


『でも、それを確認しながら付き合うの嫌なんです』


 義雄は何も言えなかった。


『今日は本当に会社?とか』


『本当に一人?とか』


『その人誰?とか』


『ずっとそうなると思う』


「ならないよ」


『私がなるんです』


 義雄は目を閉じた。


 自分がどうするかではなく、美知がどうなるか。


 そこまで考えたことがなかった。


『だから終わりにしたいです』


「分かった」


 口にしたあと、少し間が空いた。


「ごめん」


『うん』


「本当に」


『うん』


「元気で」


 美知が少し笑った。


『急におじさんみたい』


「おじさんだよ」


『そうでした』


 義雄も少し笑った。


 その笑いが最後だった。


「じゃあ」


『はい』


 電話が切れた。


 義雄はしばらくスマートフォンを見ていた。


 美知との写真が何枚か入っている。


 食事。


 ドライブ。


 少し前まで、これから増えていくと思っていた。


 義雄は画面を閉じた。


 削除はしなかった。


 今すぐそこまでする気にはならなかった。



「最近元気ないね」


 母親が優里に言った。


「そう?」


「仕事探し疲れた?」


「まだそんな探してない」


「じゃあ何?」


「別に」


 優里は食卓で求人サイトを見ていた。


 拓斗とは、あの電話から連絡を取っていない。


 優里からも送っていない。


 拓斗からも来ない。


 終わったのかどうかさえ分からなかった。


 ただ、こちらから連絡するのは嫌だった。


 向こうから来れば、話はする。


 優里はそう思っていた。


「これ応募してみようかな」


 独り言のように言う。


 母親が画面を覗く。


「遠くない?」


「電車で四十分くらい」


「海美のお迎えは?」


「お迎えってもう小学生だよ」


「習い事」


「ああ」


 優里は少し考えた。


「お母さん行けるでしょ?」


 母親は一瞬黙った。


「毎回?」


「毎回じゃないよ」


「何曜日?」


「まだ仕事決まってないって」


「決まってから困るより先に考えた方がいいでしょ」


「その時考えるよ」


「そう」


 母親はそれ以上何も言わなかった。


 優里はまた求人票へ目を戻した。



 義雄が娘たちと会う日が来た。


 離婚して初めての面会だった。


 待ち合わせ場所には、優里が紗良と海美を連れてきた。


「お父さん!」


 海美が走ってくる。


「おう」


 義雄は笑って受け止めた。


「どこ行く?」


「海美決めていい?」


「紗良にも聞け」


「私はどこでもいい」


「じゃあ水族館!」


 義雄の動きが一瞬止まった。


「水族館?」


「うん!」


「いいよ」


 美知と行くはずだった場所が頭をよぎった。


 優里は気づかない。


「じゃあ五時くらい?」


「分かった」


「海美、ちゃんと言うこと聞くんだよ」


「分かってる!」


「紗良、お願いね」


「なんで私が」


「お姉ちゃんだから」


「それずるい」


 義雄は笑った。


 離婚前と変わらない会話だった。


 ただ、優里は一緒に来ない。


「じゃあ」


 優里が言う。


「うん」


 義雄が答える。


 優里はその場を離れた。


 海美が義雄の手を握った。


「お父さん」


「何?」


「今日お父さん家行っていい?」


「俺ん家?」


「うん」


「何もないぞ」


「見たい」


「ほんとに何もないよ」


「泊まってもいい?」


 義雄は答えるのが少し遅れた。


「今日は帰らないと」


「なんで?」


「お母さんと約束してるから」


「じゃあ今度は?」


「聞いてみるよ」


「絶対ね」


「分かった」


 海美は満足したように笑った。


 紗良は少し後ろを歩いていた。


「紗良」


「何?」


「学校どう?」


「普通」


「そうか」


「お父さんは?」


「何が」


「一人暮らし」


「楽だよ」


 義雄は答えた。


「好きな時間に帰れるし」


「ふうん」


「何?」


「別に」


 紗良は前を向いた。


 その日の夕方。


 娘たちを優里へ返した。


「楽しかった?」


 優里が海美に聞く。


「水族館行った!」


「よかったね」


「今度お父さん家泊まる!」


 優里が義雄を見た。


「そうなの?」


「海美が勝手に決めた」


「勝手じゃない!」


「今度相談するって言っただろ」


「約束した!」


「はいはい」


 優里は小さく笑った。


「じゃあまた連絡して」


「うん」


 紗良と海美が優里の方へ歩いていく。


 海美が振り返る。


「お父さん!」


「ん?」


「またね!」


「おう」


 義雄は手を上げた。


 三人が人混みに消えるまで見送った。


 帰りの電車で、義雄は一人だった。


 夕飯は駅前で買った。


 部屋へ戻り、電気をつける。


 朝出たときのままだった。


 誰もいない。


 義雄は買ってきた弁当を机へ置いた。


 スマートフォンを見る。


 美知から連絡はない。


 来ることも、もうない。


 昼間はあれだけ海美が喋っていたのに、部屋は静かだった。


 義雄はテレビをつけた。



 その夜。


 優里は海美を寝かせたあと、スマートフォンを見た。


 拓斗との画面を開く。


 何も届いていない。


 指を動かしかけて、やめた。


 隣では海美が寝ている。


 その向こうで紗良が本を読んでいた。


「紗良」


「何?」


「まだ寝ないの?」


「もうちょっと」


「明日学校でしょ」


「分かってる」


「早く寝なよ」


「うん」


 優里はスマートフォンを伏せた。


 娘たちがいる。


 実家もある。


 仕事だってこれから見つければいい。


 まだ何も困っていない。


 そう思った。


 それでも、離婚する前に想像していた生活とは、少し違っていた。


 義雄も同じ夜、一人の部屋で同じようなことを考えていた。


 まだ、ほんの少し違うだけだった。

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