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SCRAMBLE  作者: ヒロコトー
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2/8

ep.2

 月曜日の朝。


 三田家の一日は、義雄が家を出るところから始まる。


「行ってくる」


「いってらっしゃい」


 優里は台所から返事をした。


 義雄は玄関で靴を履き、鞄を持って出ていく。


 数分後には紗良が制服姿でリビングへ降りてきた。


「海美まだ?」


「まだ」


「遅刻するよ」


「起こしたけど」


「起こしてないよ!」


 二階から声が飛んでくる。


「起こしたでしょ!」


「声かけただけじゃん!」


 優里はため息をついた。


「海美、あと十分だからね」


「はーい!」


 毎朝同じだった。


 義雄が先に出て、少しして紗良と海美が学校へ行く。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


 海美が玄関を飛び出し、紗良がそのあとを追う。


「走らないでよ」


「紗良待って!」


「自分が遅いんでしょ」


 二人の声が遠ざかっていく。


 玄関の扉が閉まる。


 家の中が静かになった。


 優里は食卓の上を片付け、洗濯機を回した。


 食器を洗い、床に落ちている海美の髪ゴムを拾う。


 ソファの下から紗良の靴下が出てきた。


「もう」


 小さく言いながら拾い上げる。


 家事が嫌いなわけではない。


 ただ、毎日同じことの繰り返しだった。


 片付けても散らかる。


 洗ってもまた洗濯物が出る。


 ご飯を作れば食べてなくなる。


 翌日になれば、また同じことをする。


 洗濯機の音を聞きながら、優里はスマートフォンを手に取った。


 通知が一件。


『今日どうする?』


 相馬拓斗(そうまたくと)だった。


 優里の表情が少し緩む。


『行けるよ』


 すぐに返信が来た。


『じゃあいつものとこで』


『何時?』


『十一時半くらい』


『了解』


 優里は時計を見た。


 まだ九時を少し過ぎたところだった。


 洗濯物を干し、簡単に掃除を済ませる。


 そのあと寝室へ入り、クローゼットを開けた。


 服を何枚か見比べる。


 義雄と出かけるときには、そこまで迷わない。


 でも拓斗に会う日は少し違った。


 鏡の前で髪を整える。


 四十二歳。


 自分ではまだ老け込む年齢ではないと思っている。


 若い頃と同じとは思わない。


 けれど、同年代の中では悪くない。


 少なくとも拓斗は、そういう目で自分を見る。


 それが嬉しかった。



 拓斗とは二年以上続いている。


 始まったのは、本当に軽い気持ちだった。


 マッチングアプリだった。


 暇な時間に眺めていただけ。


 誰かと本気でどうこうしたいと思っていたわけではない。


 結婚していることも最初から伝えていた。


 拓斗も特に驚かなかった。


 それどころか、


「じゃあ昼間しか会えない感じ?」


 と笑った。


 その軽さが楽だった。


 最初に会ったのも平日の昼。


 今も基本的には変わらない。


 義雄が会社へ行き、娘たちが学校へ行っている間。


 それが二人の時間だった。


 拓斗は飲食店を経営している。


 時間の融通が利く日もある。


 店に出る日もあれば、人に任せている日もある。


 優里は詳しいことまでは知らなかったし、拓斗も家庭について細かく聞かなかった。


 だから続いたのかもしれない。


 面倒がなかった。


 義雄との間には、何を話しても十五年分の何かがついて回る。


 拓斗との間には、それがない。


 何を食べたいか。


 どこへ行きたいか。


 昨日何があったか。


 そんな話で時間が過ぎる。


 それだけで楽しかった。



「遅い」


 待ち合わせ場所へ着くと、拓斗が言った。


「まだ五分前じゃん」


「俺、十五分前からいる」


「勝手に早く来ただけでしょ」


「そうとも言う」


「そうとしか言わない」


 拓斗が笑った。


「何食べる?」


「何でもいい」


「それ一番困るやつ」


「義雄にも言われる」


 口にしてから、優里は少しだけ間を置いた。


 拓斗は気にした様子もない。


「じゃあ俺が決める」


「うん」


 二人は近くの店へ入った。


 平日の昼。


 周りには会社員や主婦らしい客が何人かいる。


 別に誰も自分たちのことなんて見ていない。


 それでも最初の頃は、知り合いに会わないか少し気にしていた。


 今はもう、それほどでもない。


 二年以上も続けば、慣れる。


「最近どう?」


 拓斗が聞いた。


「何が?」


「家」


「相変わらず」


「旦那さん帰り遅いんだっけ」


「遅いね」


「忙しいんだ」


「知らない」


「知らないんだ」


「仕事の話しないもん」


「聞かないの?」


「聞いてもちゃんと話さないし」


 優里は水を飲んだ。


「昔からそうなんだよね」


「何が?」


「何考えてるか分かんない」


「男なんてそんなもんじゃない?」


「拓斗は喋るじゃん」


「俺は喋るよ。喋る商売だし」


「そういう意味じゃない」


「分かってる」


 拓斗が笑う。


 その笑い方が、優里は好きだった。


 義雄も昔はよく笑っていた。


 もっと話もした。


 付き合っていた頃は、仕事のことも、友達のことも、くだらないことも。


 でも結婚して、子どもが生まれて、家を買って。


 いつの間にか会話は必要なことだけになった。


 海美の習い事。


 紗良の学校。


 ゴミの日。


 買い物。


 義雄の帰宅時間。


 夫婦である必要があるのかと、最近はよく思う。


「どうした?」


「ん?」


「ぼーっとしてる」


「別に」


「旦那のこと考えてた?」


「考えてない」


「じゃあ俺?」


「自意識過剰」


「ひど」


 優里は笑った。


 その日は昼を食べたあと、少し離れた場所まで車で出た。


 拓斗の車だった。


 音楽が流れている。


 優里は助手席で窓の外を見ていた。


「いいなあ」


「何が?」


「こういうの」


「ドライブ?」


「うん」


「旦那と行かないの?」


「家族でなら行くよ」


「じゃあ行ってるじゃん」


「そうじゃなくて」


「何が違うの」


「二人でとか」


「行けばいいじゃん」


「行かないよ」


 拓斗はそれ以上聞かなかった。


 優里も説明しなかった。


 家族で出かけることはある。


 義雄は土日になれば娘たちを連れてどこかへ行こうとする。


 買い物もする。


 外食もする。


 海美が何か欲しがれば一緒に見に行く。


 そういう意味では、父親として悪い人ではない。


 でも。


 夫としてはどうなんだろう。


 優里は何度もそう思った。



 結婚して間もない頃。


 義雄の実家へ行った日のことを、優里は今でも覚えていた。


 義雄の両親とは、最初からあまり合わなかった。


 何かにつけて細かい。


 言い方もきつい。


 優里が何かすると、少し間を置いてから注意される。


 その日もそうだった。


 何気なくしたことだった。


 そんなに怒られるようなことだとは思わなかった。


 でも義雄の母親は顔色を変えた。


 父親も黙っていなかった。


「そういうことはしない方がいい」


「普通は分かるでしょう」


 そんなふうに言われた。


 優里には、責められているようにしか聞こえなかった。


 いや、実際に責められていたのだと思う。


 問題は、そのあとだった。


 義雄はその場では間に入った。


「もういいだろ」


「俺が話すから」


 そう言って優里を連れて帰った。


 けれど車の中で、優里が、


「何なの、あれ」


 と言ったとき、義雄は黙った。


「私、そんな悪いことした?」


 しばらくして義雄は、


「まあ、親も言い方は悪かったけど」


 とだけ言った。


 優里はその先を待った。


 でも続かなかった。


「何?」


「いや」


「何よ」


「もういいよ」


 それだけだった。


 優里には、それが許せなかった。


 なぜ味方になってくれないのか。


 妻があんなふうに責められているのに。


 結婚したばかりなのに。


 義雄は自分より親を選んだ。


 優里の中では、ずっとそうだった。


 あの日から義雄の実家へ行くことが嫌になった。


 何かあれば自分の実家へ帰ることも増えた。


 義雄は嫌そうな顔をすることもあったが、何も言わなかった。


 その「何も言わない」が、また嫌だった。


 嫌なら嫌と言えばいい。


 何も言わないくせに、空気だけ悪くする。


 優里にはそれが一番腹立たしかった。



「帰りたくない顔してる」


 拓斗が言った。


「してないよ」


「してる」


「何それ」


「分かりやすいんだよ」


「拓斗には分かるの?」


「まあね」


 優里は笑った。


 嬉しかった。


 義雄には何も分からないと思っている。


 拓斗には分かる。


 その違いは大きかった。


 時計を見る。


 そろそろ帰らなければならない。


「もう行く?」


「うん。海美帰ってくるし」


「そっか」


「また連絡する」


「はいよ」


 拓斗はいつも通りだった。


 引き止めもしない。


 離婚しろとも言わない。


 家庭のことを深く聞いてくることもない。


 優里は、それが楽だった。


 けれど最近、その楽さだけでは少し物足りなくなっている。


 二年以上。


 短くはない。


 最初は遊びだった。


 今もそうだと思っていた。


 少なくとも、少し前までは。


 でも最近は、ふと考える。


 このままずっと義雄と暮らすのか。


 四十五、五十、六十になっても。


 同じ家で、必要なことだけ話して。


 子どもがいなくなったら、何を話すんだろう。


 その頃、拓斗はどこにいるんだろう。


「何?」


 拓斗が聞いた。


「別に」


「今日それ多いね」


「そう?」


「うん」


 優里は助手席の窓を少し開けた。


 風が入ってくる。


 楽しい。


 今はそれでいい。


 そう思いながらも、別の考えが頭から離れなくなっていた。


 乗り換えてもいいんじゃないか。


 義雄から拓斗へ。


 そんなふうに考えることが、最近増えていた。



 家へ戻ったのは三時前だった。


 優里は着替え、洗濯物を取り込んだ。


 少しして海美が帰ってくる。


「ただいまー」


「おかえり」


「お腹すいた」


「もう?」


「給食少なかった」


「毎日言ってるじゃん」


「ほんとに少ないんだって」


 紗良も帰ってきた。


「ただいま」


「おかえり」


「海美、おやつ食べた?」


「まだ」


「一緒に食べよ」


「うん」


 二人の声がリビングに響く。


 優里は夕飯の支度を始めた。


 義雄から連絡が来る。


『今日遅くなる』


 優里は画面を見て、


『了解』


 とだけ返した。


 何時になるのかは聞かなかった。


 夕食は三人だった。


「今日ね、先生がさ」


 海美が学校の話を始める。


 紗良が、


「それ違うよ」


 と口を挟む。


「違わない!」


「その先生、海美の担任じゃないじゃん」


「でもいたの!」


「はいはい、食べながら喧嘩しない」


 優里が笑う。


「お母さんはどっちの味方?」


「知らない」


「えー!」


「自分たちで決めて」


「じゃあ私の勝ち」


「なんで?」


 三人で笑った。


 義雄がいなくても、食卓は普通に楽しかった。


 むしろ平日は、この三人で食べる方が多い。


 義雄が帰ってくる頃には、海美は寝ている。


 紗良も自分の部屋にいることが多い。


 だったら。


 ふと、優里は思った。


 今とそんなに変わらないんじゃないか。


 義雄がいなくなっても。


 食事をして。


 学校の話を聞いて。


 三人で笑って。


 それなら。


「お母さん?」


 紗良が言った。


「何?」


「なんか笑ってる」


「笑ってないよ」


「笑ってた」


「海美が変なこと言うからでしょ」


「私!?」


「そう」


「言ってない!」


 また三人で笑った。


 優里は娘たちを見た。


 この二人がいればいい。


 そう思った。


 そしてスマートフォンの画面には、拓斗からのメッセージが届いていた。

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