ep.2
月曜日の朝。
三田家の一日は、義雄が家を出るところから始まる。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
優里は台所から返事をした。
義雄は玄関で靴を履き、鞄を持って出ていく。
数分後には紗良が制服姿でリビングへ降りてきた。
「海美まだ?」
「まだ」
「遅刻するよ」
「起こしたけど」
「起こしてないよ!」
二階から声が飛んでくる。
「起こしたでしょ!」
「声かけただけじゃん!」
優里はため息をついた。
「海美、あと十分だからね」
「はーい!」
毎朝同じだった。
義雄が先に出て、少しして紗良と海美が学校へ行く。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
海美が玄関を飛び出し、紗良がそのあとを追う。
「走らないでよ」
「紗良待って!」
「自分が遅いんでしょ」
二人の声が遠ざかっていく。
玄関の扉が閉まる。
家の中が静かになった。
優里は食卓の上を片付け、洗濯機を回した。
食器を洗い、床に落ちている海美の髪ゴムを拾う。
ソファの下から紗良の靴下が出てきた。
「もう」
小さく言いながら拾い上げる。
家事が嫌いなわけではない。
ただ、毎日同じことの繰り返しだった。
片付けても散らかる。
洗ってもまた洗濯物が出る。
ご飯を作れば食べてなくなる。
翌日になれば、また同じことをする。
洗濯機の音を聞きながら、優里はスマートフォンを手に取った。
通知が一件。
『今日どうする?』
相馬拓斗だった。
優里の表情が少し緩む。
『行けるよ』
すぐに返信が来た。
『じゃあいつものとこで』
『何時?』
『十一時半くらい』
『了解』
優里は時計を見た。
まだ九時を少し過ぎたところだった。
洗濯物を干し、簡単に掃除を済ませる。
そのあと寝室へ入り、クローゼットを開けた。
服を何枚か見比べる。
義雄と出かけるときには、そこまで迷わない。
でも拓斗に会う日は少し違った。
鏡の前で髪を整える。
四十二歳。
自分ではまだ老け込む年齢ではないと思っている。
若い頃と同じとは思わない。
けれど、同年代の中では悪くない。
少なくとも拓斗は、そういう目で自分を見る。
それが嬉しかった。
◇
拓斗とは二年以上続いている。
始まったのは、本当に軽い気持ちだった。
マッチングアプリだった。
暇な時間に眺めていただけ。
誰かと本気でどうこうしたいと思っていたわけではない。
結婚していることも最初から伝えていた。
拓斗も特に驚かなかった。
それどころか、
「じゃあ昼間しか会えない感じ?」
と笑った。
その軽さが楽だった。
最初に会ったのも平日の昼。
今も基本的には変わらない。
義雄が会社へ行き、娘たちが学校へ行っている間。
それが二人の時間だった。
拓斗は飲食店を経営している。
時間の融通が利く日もある。
店に出る日もあれば、人に任せている日もある。
優里は詳しいことまでは知らなかったし、拓斗も家庭について細かく聞かなかった。
だから続いたのかもしれない。
面倒がなかった。
義雄との間には、何を話しても十五年分の何かがついて回る。
拓斗との間には、それがない。
何を食べたいか。
どこへ行きたいか。
昨日何があったか。
そんな話で時間が過ぎる。
それだけで楽しかった。
◇
「遅い」
待ち合わせ場所へ着くと、拓斗が言った。
「まだ五分前じゃん」
「俺、十五分前からいる」
「勝手に早く来ただけでしょ」
「そうとも言う」
「そうとしか言わない」
拓斗が笑った。
「何食べる?」
「何でもいい」
「それ一番困るやつ」
「義雄にも言われる」
口にしてから、優里は少しだけ間を置いた。
拓斗は気にした様子もない。
「じゃあ俺が決める」
「うん」
二人は近くの店へ入った。
平日の昼。
周りには会社員や主婦らしい客が何人かいる。
別に誰も自分たちのことなんて見ていない。
それでも最初の頃は、知り合いに会わないか少し気にしていた。
今はもう、それほどでもない。
二年以上も続けば、慣れる。
「最近どう?」
拓斗が聞いた。
「何が?」
「家」
「相変わらず」
「旦那さん帰り遅いんだっけ」
「遅いね」
「忙しいんだ」
「知らない」
「知らないんだ」
「仕事の話しないもん」
「聞かないの?」
「聞いてもちゃんと話さないし」
優里は水を飲んだ。
「昔からそうなんだよね」
「何が?」
「何考えてるか分かんない」
「男なんてそんなもんじゃない?」
「拓斗は喋るじゃん」
「俺は喋るよ。喋る商売だし」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
拓斗が笑う。
その笑い方が、優里は好きだった。
義雄も昔はよく笑っていた。
もっと話もした。
付き合っていた頃は、仕事のことも、友達のことも、くだらないことも。
でも結婚して、子どもが生まれて、家を買って。
いつの間にか会話は必要なことだけになった。
海美の習い事。
紗良の学校。
ゴミの日。
買い物。
義雄の帰宅時間。
夫婦である必要があるのかと、最近はよく思う。
「どうした?」
「ん?」
「ぼーっとしてる」
「別に」
「旦那のこと考えてた?」
「考えてない」
「じゃあ俺?」
「自意識過剰」
「ひど」
優里は笑った。
その日は昼を食べたあと、少し離れた場所まで車で出た。
拓斗の車だった。
音楽が流れている。
優里は助手席で窓の外を見ていた。
「いいなあ」
「何が?」
「こういうの」
「ドライブ?」
「うん」
「旦那と行かないの?」
「家族でなら行くよ」
「じゃあ行ってるじゃん」
「そうじゃなくて」
「何が違うの」
「二人でとか」
「行けばいいじゃん」
「行かないよ」
拓斗はそれ以上聞かなかった。
優里も説明しなかった。
家族で出かけることはある。
義雄は土日になれば娘たちを連れてどこかへ行こうとする。
買い物もする。
外食もする。
海美が何か欲しがれば一緒に見に行く。
そういう意味では、父親として悪い人ではない。
でも。
夫としてはどうなんだろう。
優里は何度もそう思った。
◇
結婚して間もない頃。
義雄の実家へ行った日のことを、優里は今でも覚えていた。
義雄の両親とは、最初からあまり合わなかった。
何かにつけて細かい。
言い方もきつい。
優里が何かすると、少し間を置いてから注意される。
その日もそうだった。
何気なくしたことだった。
そんなに怒られるようなことだとは思わなかった。
でも義雄の母親は顔色を変えた。
父親も黙っていなかった。
「そういうことはしない方がいい」
「普通は分かるでしょう」
そんなふうに言われた。
優里には、責められているようにしか聞こえなかった。
いや、実際に責められていたのだと思う。
問題は、そのあとだった。
義雄はその場では間に入った。
「もういいだろ」
「俺が話すから」
そう言って優里を連れて帰った。
けれど車の中で、優里が、
「何なの、あれ」
と言ったとき、義雄は黙った。
「私、そんな悪いことした?」
しばらくして義雄は、
「まあ、親も言い方は悪かったけど」
とだけ言った。
優里はその先を待った。
でも続かなかった。
「何?」
「いや」
「何よ」
「もういいよ」
それだけだった。
優里には、それが許せなかった。
なぜ味方になってくれないのか。
妻があんなふうに責められているのに。
結婚したばかりなのに。
義雄は自分より親を選んだ。
優里の中では、ずっとそうだった。
あの日から義雄の実家へ行くことが嫌になった。
何かあれば自分の実家へ帰ることも増えた。
義雄は嫌そうな顔をすることもあったが、何も言わなかった。
その「何も言わない」が、また嫌だった。
嫌なら嫌と言えばいい。
何も言わないくせに、空気だけ悪くする。
優里にはそれが一番腹立たしかった。
◇
「帰りたくない顔してる」
拓斗が言った。
「してないよ」
「してる」
「何それ」
「分かりやすいんだよ」
「拓斗には分かるの?」
「まあね」
優里は笑った。
嬉しかった。
義雄には何も分からないと思っている。
拓斗には分かる。
その違いは大きかった。
時計を見る。
そろそろ帰らなければならない。
「もう行く?」
「うん。海美帰ってくるし」
「そっか」
「また連絡する」
「はいよ」
拓斗はいつも通りだった。
引き止めもしない。
離婚しろとも言わない。
家庭のことを深く聞いてくることもない。
優里は、それが楽だった。
けれど最近、その楽さだけでは少し物足りなくなっている。
二年以上。
短くはない。
最初は遊びだった。
今もそうだと思っていた。
少なくとも、少し前までは。
でも最近は、ふと考える。
このままずっと義雄と暮らすのか。
四十五、五十、六十になっても。
同じ家で、必要なことだけ話して。
子どもがいなくなったら、何を話すんだろう。
その頃、拓斗はどこにいるんだろう。
「何?」
拓斗が聞いた。
「別に」
「今日それ多いね」
「そう?」
「うん」
優里は助手席の窓を少し開けた。
風が入ってくる。
楽しい。
今はそれでいい。
そう思いながらも、別の考えが頭から離れなくなっていた。
乗り換えてもいいんじゃないか。
義雄から拓斗へ。
そんなふうに考えることが、最近増えていた。
◇
家へ戻ったのは三時前だった。
優里は着替え、洗濯物を取り込んだ。
少しして海美が帰ってくる。
「ただいまー」
「おかえり」
「お腹すいた」
「もう?」
「給食少なかった」
「毎日言ってるじゃん」
「ほんとに少ないんだって」
紗良も帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「海美、おやつ食べた?」
「まだ」
「一緒に食べよ」
「うん」
二人の声がリビングに響く。
優里は夕飯の支度を始めた。
義雄から連絡が来る。
『今日遅くなる』
優里は画面を見て、
『了解』
とだけ返した。
何時になるのかは聞かなかった。
夕食は三人だった。
「今日ね、先生がさ」
海美が学校の話を始める。
紗良が、
「それ違うよ」
と口を挟む。
「違わない!」
「その先生、海美の担任じゃないじゃん」
「でもいたの!」
「はいはい、食べながら喧嘩しない」
優里が笑う。
「お母さんはどっちの味方?」
「知らない」
「えー!」
「自分たちで決めて」
「じゃあ私の勝ち」
「なんで?」
三人で笑った。
義雄がいなくても、食卓は普通に楽しかった。
むしろ平日は、この三人で食べる方が多い。
義雄が帰ってくる頃には、海美は寝ている。
紗良も自分の部屋にいることが多い。
だったら。
ふと、優里は思った。
今とそんなに変わらないんじゃないか。
義雄がいなくなっても。
食事をして。
学校の話を聞いて。
三人で笑って。
それなら。
「お母さん?」
紗良が言った。
「何?」
「なんか笑ってる」
「笑ってないよ」
「笑ってた」
「海美が変なこと言うからでしょ」
「私!?」
「そう」
「言ってない!」
また三人で笑った。
優里は娘たちを見た。
この二人がいればいい。
そう思った。
そしてスマートフォンの画面には、拓斗からのメッセージが届いていた。




