ep.1
「海美、靴」
「履いてるよ」
「左右逆」
「え?」
三田義雄が指さすと、玄関に座り込んでいた海美は自分の足を見下ろした。
「あ、ほんとだ」
「どうやったらそうなるんだよ」
「急いでたから」
「急いでも左右は変わらないだろ」
八歳の次女は笑いながら靴を脱ぎ、左右を入れ替えた。
その横を十二歳の沙良がすり抜けていく。
「海美、車でも寝るでしょ」
「寝ないもん」
「絶対寝る」
「寝ない!」
「はいはい、喧嘩するなら置いてくぞ」
義雄が車の鍵を鳴らすと、海美が慌てて立ち上がった。
「待って!」
玄関の奥から優里がバッグを持って出てくる。
「財布持った?」
「持った」
「スマホは?」
「ある」
「じゃ、行くか」
土曜日。
三田家では珍しくもない休日だった。
義雄が運転し、助手席に優里。後部座席に紗良と海美。
郊外に建てた家からショッピングモールまでは車で三十分ほどだった。
「今日、お昼何食べる?」
海美が後ろから身を乗り出す。
「何でもいい」
義雄が答えると、優里が窓の外を見たまま言った。
「何でもいいが一番困るんだって」
「じゃあラーメン」
「昨日ラーメン食べた」
「俺は食べてない」
「私は食べた」
「じゃあ何でもいい」
「ほら」
紗良が笑った。
「お母さんの勝ち」
「何の勝負だよ」
信号が青に変わる。
義雄は車を走らせた。
ショッピングモールでは海美の靴を買い、紗良が欲しがっていた文房具を見て、四人で昼を食べた。
義雄は娘たちが見たいと言った店に付き合い、荷物を持ち、帰りにスーパーにも寄った。
「お父さん、これ買っていい?」
海美が菓子を持ってくる。
「一個だけ」
「二個」
「一個」
「じゃあこれと、これを半分ずつ」
「それ二個じゃねえか」
「紗良と食べるから一個ずつ」
「私いらない」
「えー!」
義雄が笑う。
「じゃあ一個」
「ケチ」
「ケチじゃない。教育だ」
優里も笑った。
「何その教育」
「我慢を覚える教育」
「お父さんタバコ我慢できないじゃん」
紗良が言う。
「それとこれは別」
「ずるい」
「大人だからな」
「大人って便利」
「便利なんだよ」
家族四人で笑った。
周りから見れば、何の問題もない家族だった。
少なくとも海美は、そう思っている。
紗良も少し前まではそうだった。
夕方、家へ戻る。
義雄は買ってきた荷物を台所へ運び、優里が冷蔵庫へしまった。
「牛乳まだあった?」
「ちょっとだけ」
「じゃあこれ先に入れといて」
「うん」
特に仲が悪そうな会話でもない。
夕食も四人で食べた。
海美が学校であったことを喋り続け、紗良が途中で訂正し、義雄がそれを面白がる。
優里も普通に笑っている。
九時を過ぎると、海美が先に眠くなった。
「歯磨いた?」
「磨いた」
「ほんとに?」
「ほんと」
「見せて」
「やだ」
「じゃあ磨いてないな」
「磨いたって!」
そのやり取りをしながら、海美が二階へ上がる。
紗良も少し遅れて自分の部屋へ戻った。
「おやすみ」
「おやすみ」
階段の足音が消える。
リビングが静かになった。
テレビだけがついていた。
義雄はソファに座ったままスマートフォンを取り出した。
優里も向かい側で自分のスマートフォンを手にしている。
さっきまで途切れなかった会話は、そこで終わった。
義雄はマッチングアプリを開いた。
最近始めたものだった。
きっかけは特にない。
会社の若い連中が使っているという話を聞いて、なんとなく覗いてみただけだった。
最初は見るだけのつもりだった。
四十六歳。
昔はそれなりに女にモテた。
今でも年齢の割には悪くないと思っている。
写真を何枚か選び、プロフィールを作った。
独身。
そう入力した。
既婚者だと書けば、そもそも相手にされない。
だからそうしただけだった。
そこに深い理由をつけるつもりはなかった。
一人の女性からメッセージが来ていた。
冴島美知。
二十九歳。
ここ数日、何度かやり取りしている。
『今日は何してたんですか?』
義雄は少し考えてから、
『買い物してました』
と返した。
『一人で?』
指が止まった。
横を見る。
優里はスマートフォンを見たまま、義雄の方を見てもいなかった。
『そうです』
送信する。
すぐに返信が来た。
『いいですね。私も今日は休みだったんですけど、家から一歩も出ませんでした笑』
義雄は少し笑った。
「何?」
優里が顔を上げた。
「いや、別に」
「そう」
それだけだった。
優里はまたスマートフォンへ目を落とした。
義雄も続きを打つ。
互いに何をしているのかは聞かない。
聞かれないから、答える必要もない。
そんな状態がいつから始まったのか、義雄にも分からなかった。
翌日の日曜日も、四人で出かけた。
昼を食べ、公園へ寄り、海美が遊具で遊んでいる間、義雄はベンチに座った。
紗良は少し離れたところでスマートフォンを触っている。
優里は海美の方を見ていた。
「来週どうする?」
義雄が聞いた。
「何が?」
「日曜」
「別に何もないけど」
「じゃあ、どっか行く?」
「海美に聞けば?」
「お前は?」
「どこでもいい」
「そっか」
会話はそこで終わった。
義雄は缶コーヒーを飲んだ。
別に喧嘩をしているわけではない。
怒っているわけでもない。
ただ、話すことがない。
それだけだった。
◇
月曜日。
義雄が家へ帰ったのは十時を過ぎてからだった。
玄関を開けると、家の中は静かだった。
リビングの明かりだけがついている。
優里はソファでスマートフォンを見ていた。
「ただいま」
「おかえり」
「飯ある?」
「冷蔵庫」
「うん」
義雄はネクタイを緩めて台所へ向かった。
ラップの掛かった皿を電子レンジへ入れる。
「子どもは?」
「寝た」
「紗良も?」
「多分」
電子レンジの音だけが鳴った。
以前は、帰る時間が遅いと優里が何か言っていた気がする。
遅くなるなら連絡して。
ご飯どうするの。
今日は何時?
そういうことを聞かれていた。
いつから聞かれなくなったのかは覚えていない。
義雄自身も、何時に帰るかを細かく連絡しなくなった。
食事を済ませ、風呂へ入り、布団に入る。
優里はまだスマートフォンを触っていた。
「先寝るぞ」
「うん」
返事だけが聞こえた。
◇
数日後。
義雄は会社を出る前にスマートフォンを確認した。
『今日、大丈夫ですか?』
美知からだった。
『大丈夫です。予定通りで』
返事をしてから、義雄はしばらく画面を見ていた。
今日は優里に、帰りが遅くなるとだけ伝えてある。
嘘ではない。
理由を言っていないだけだ。
駅から少し離れた店を選んだ。
待ち合わせの時間より五分ほど早く着いた義雄は、入口近くでスマートフォンを見ていた。
「あの」
顔を上げる。
「三田さんですか?」
写真で見た女性だった。
肩まで伸びた髪。
派手ではない。
義雄が思っていたより、少し真面目そうな印象だった。
「冴島さん?」
「はい」
「初めまして」
「初めまして」
美知は少し緊張したように笑った。
「写真より若く見えますね」
「それ褒めてます?」
「褒めてます」
「よかった」
二人で店へ入った。
最初は仕事の話をした。
趣味の話。
休みの日に何をしているか。
好きな食べ物。
よく行く店。
ありふれた話だった。
でも義雄は楽しかった。
自分のことを質問される。
答えると相手が笑う。
また質問される。
それだけのことが妙に新鮮だった。
「三田さんって、ずっと独身なんですか?」
美知が聞いた。
「まあ、そうですね」
義雄は答えた。
「結婚したいと思ったことないんですか?」
「昔はありましたよ」
「今は?」
「いい人がいれば」
「そうなんですね」
美知は笑った。
義雄も笑った。
胸が痛むほどの罪悪感はなかった。
まだ何もしていない。
ただ食事をしているだけ。
そう思った。
二時間ほどして店を出た。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「また会ってもらえます?」
美知が聞く。
「もちろん」
義雄はすぐに答えた。
「よかった」
駅で別れたあと、義雄は美知の後ろ姿を少しだけ見送った。
スマートフォンが鳴った。
優里からだった。
『明日、海美の習い事あるから朝ゴミ出しお願い』
義雄は画面を見て、
『了解』
と返した。
それから美知にも送った。
『今日は楽しかったです。また行きましょう』
家へ帰ると、優里はもう寝ていた。
義雄は音を立てないよう着替え、娘たちの部屋を覗いた。
海美は布団を蹴飛ばしていた。
「ったく」
義雄は布団を掛け直した。
紗良の部屋は閉まっていたので、そのままにした。
自分の寝室へ戻る。
優里の横に入り、スマートフォンを確認した。
美知から返事が来ていた。
『私も楽しかったです。次楽しみにしてます』
義雄は画面を消した。
◇
その週の金曜日。
「珍しいな、お前から飲もうって」
五十嵐健人がビールを置いた。
「たまにはいいだろ」
「家族サービスは?」
「明日するよ」
「相変わらず真面目だねえ」
「普通だろ」
二人は会社に入った時期が同じだった。
もう二十年以上になる。
若い頃は頻繁に飲んでいたが、お互い結婚してからは回数も減った。
「で?」
五十嵐が枝豆をつまむ。
「何が」
「お前から飲もうなんて言う時は、なんかあるだろ」
「別にねえよ」
「じゃあ帰るか」
「早えよ」
義雄は笑った。
しばらく仕事の話をした。
森山のやり方がどうだとか、部下がどうだとか。
ビールが二杯目になったころ、五十嵐が聞いた。
「家は?」
「普通」
「その普通が怪しいんだよ」
「何がだよ」
「前から嫁さんの愚痴言ってたろ」
「ああ」
義雄はジョッキを置いた。
「まあ、相変わらずだよ」
「実家?」
「しょっちゅう帰ってる」
「近いんだっけ」
「そこそこ」
「別にいいじゃん」
「たまにならな」
義雄は少し間を置いた。
「何かあるとすぐ実家なんだよ。子ども連れて」
「昔から?」
「結婚した頃から」
「じゃあ今さらじゃねえか」
「だから今さらなんだよ」
五十嵐が笑った。
「分かんねえ」
「俺も分かんねえよ」
義雄も笑った。
酒が進む。
「家のこともさ」
「うん」
「専業なんだから、もうちょいちゃんとやれよって思う時あるじゃん」
「本人に言えよ」
「言わねえよ」
「なんで」
「面倒くさいから」
五十嵐が呆れた顔をした。
「お前な」
「言ったって聞かねえんだよ」
「言ってないんだろ?」
「昔は言ったよ」
「で?」
「話が違う方に行く」
「どういう?」
「ちょっと片付けてって言ったら、私だって忙しいとか、だったら自分でやればとか。そういう話になる」
「じゃあ自分でやれば?」
「お前、今日は優里の味方なの?」
「知らねえよ」
五十嵐は笑った。
「でも言わなきゃ分かんねえだろ」
「もういいんだよ。そういうの」
「何がいいんだよ」
「言っても面倒になるだけだから」
「それで黙って不機嫌になってんの?」
「不機嫌じゃない」
「嫁から見たら同じじゃねえの?」
義雄は答えずビールを飲んだ。
「別に離婚したいとかじゃないんだろ?」
「ないよ」
「じゃあ話せばいいじゃん」
「だから面倒なんだって」
「お前が一番面倒くせえな」
「うるせえ」
二人で笑った。
義雄は本当に、離婚なんて考えていなかった。
優里に不満はある。
でも十五年も一緒にいれば、そんなものは誰にだってあると思っていた。
子どもは可愛い。
家もある。
仕事もそれなりに順調だった。
土日には家族で出かける。
それでいい。
夫婦なんて、そのうちこんなものになる。
そう思っていた。
「そういやさ」
五十嵐が言った。
「最近なんか機嫌いいよな、お前」
「そう?」
「なんかあった?」
「別に」
「女?」
義雄は笑った。
「ねえよ」
「その顔はあるな」
「ねえって」
「まあいいけど。変なことすんなよ」
「してねえよ」
義雄はそう答えた。
まだ何もしていない。
自分ではそう思っていた。
店を出たのは十一時前だった。
駅へ向かいながらスマートフォンを見る。
美知からメッセージが届いていた。
『来週って空いてます?』
義雄は歩きながら返信した。
『水曜なら』
すぐに既読がついた。
『じゃあ水曜がいいです』
義雄は少し笑った。
そのまま優里との画面を開く。
『今から帰る』
送る。
『了解』
返事はそれだけだった。
家に着いたころには日付が変わっていた。
リビングは暗い。
義雄は一人で水を飲み、二階へ上がった。
娘たちの部屋の前を通る。
海美の部屋から小さな寝息が聞こえた。
寝室へ入ると、優里は背中を向けて眠っていた。
枕元にはスマートフォンが置かれている。
義雄は着替え、ベッドへ入った。
スマートフォンを伏せて置く。
暗い部屋で、二人の間には人一人分ほどの隙間があった。
それでも翌朝になれば、また四人で朝食を食べる。
日曜日になれば、きっとどこかへ出かける。
義雄はそれを疑っていなかった。




