第1話 冬の巡礼者
一日目。
魔獣の気配が濃厚だった。
雪の上に残された足跡を数えることを、ルシアン・フェルヴィスは早々に放棄した。無駄だ。
ひとつの群れではない。
北の針葉樹林から来たもの。
東の荒野から来たもの。
岩肌の露出した南東の丘を越えてきたもの。
それぞれが獲物を追ったのなら、足跡は散るはずだった。
ところが、白い地面を抉る爪痕は、どれも同じ方角へ曲がっている。
――境界都市、ティアへ。
ルシアンは馬を降り、白い下衣が汚れるのも構わず膝をついた。
凍りついた土を、手袋の先で擦った。
雪の縁が崩れていない。
古いものでも昨夜のものだ。
最も新しいものなら、夜明け前だろう。
「五十ではききませんね」
隣で副官のアドリアン・テオドール・モレルが言った。
声は平静だったが、馬の手綱を握る指に力が入っている。ルシアンと同じ紺青の隊服が、冬風に吹かれていた。
大小の足跡を合わせれば、百を超える。
まだ見えているものだけで、だ。
「砦へ戻る。外周巡察は三人一組に変更。単独行動を禁ずる」
「ティアへ知らせますか」
アドリアンの問いに、ルシアンは一瞬口を噤んで首を振る。
自部隊の戦力を計算したのだ。
「いや、知らせるだけじゃ足りん。主力を移す」
アドリアンが、わずかに眉を動かした。
ティア近郊にある辺境守備隊の監視砦。
そこへ、今季の分散越冬駐留を決めたのは、ルシアン自身だった。
秋までの巡回で、魔獣の姿が例年より多く、降雪も早かった。
冬季に要衝を空けるより、南西方面隊直属の第一機動守備隊を置いた方がいい。
そう判断し、落葉月半ばまでに、ルシアンの部隊を各越冬地へ振り分けたうえで、ティアには砦の収容限界に近い人数を配置し、人員と物資を運び込んだ。
判断は間違っていなかった。
問題は、砦とティアが半日の距離にあり、備蓄を抱えた砦そのものを放棄できないことだった。
「第一機動守備隊から、百二十人をティアへ入れる。砦常駐隊からも九十人を市内へ回せ。砦には、第一機動守備隊の三十人と常駐隊の三十人を残す」
「第一機動守備隊の七割ではなく、八割を市内へ?」
怪訝なアドリアンの声に、ルシアンは足跡を示した。
「この足跡が、砦を狙っているように見えるか」
アドリアンは一瞬、緑の目を空へ向けて黙り込んだ。もう彼の思考は算段を始めているだろう。
ルシアンは立ち上がり、雪の向こうを見た。
空と大地の境は、灰色の霞に溶けている。
そのさらに先に、低い城壁と、太陽神の印を掲げた教会がある。
かつて、月神ティアを崇めた街。
二百年前、改宗を巡って橋を落とし、籠城の果てに太陽神教会へ編入された、境界都市。
古い信仰の名を残したまま、いまは太陽神リザーブへ祈る街だった。
「日没までに移す。急げ」
砦へ戻る頃には、雪が再び降り始めていた。
命令を出せば、兵は動く。
冬営の寝床を畳み、矢束と乾燥肉を箱に詰め、薬品を凍らせぬよう布で包む。
しかし、命令ひとつで道が短くなるわけでも、荷車が雪に沈まなくなるわけでもない。
砦の門前は、たちまち人と馬と荷で埋まった。
「補給は三日分を各自で持て。残りは荷車二台。薬と矢を優先、酒は置いていけよ」
「隊長! 酒精は消毒にも使います」
「なら飲用樽を置けと言っている。医療用は持て。飲むんじゃないぞ?」
群衆の中で、ルシアンの赤い髪は目立つ。
応じる声に笑いが混じった。
緊張を誤魔化す程度の余裕はある。
ルシアンはそれを咎めず、列の後ろへ目を配った。
越冬準備を終えたばかりの兵に、今度は市街籠城の荷を作らせている。
ティアの城壁は残っているが、いまの住民が使ったことはないはずだ。
砦の常駐隊とルシアンたちは、幾度か合同演習を行っている。
だからこそ、砦常駐隊の隊長ヴィジル・セヴェリは、ルシアンの越権を咎めなかった。
本来、砦の人事権をルシアンは持たない。
最大の問題は、ルシアンたちが、ティアの教会警備隊と合同で指揮を執った経験がないことだ。
何度か越冬駐留しているため、警備隊や教会長とは互いに顔と名前を知っている。顔馴染みと言ってもいい。
ただ、それだけだ。
嫌な予感だけは、時間を待ってくれない。
昼を過ぎる前に先遣隊を出し、午後には本隊が砦を発った。
雪道を二列で進む。騎馬は偵察と伝令へ残し、大半は徒歩だった。
魔獣相手の騎乗突撃など、積雪の深い土地では馬の脚を折るだけだ。いざというときに、負傷者と知らせを運べるものを、見栄のために潰す気はルシアンにはなかった。
ティアの南門が見えたのは、冬の短い日がすでに傾き始めた頃だった。
先遣隊の伝令を受け、門前では教会警備隊と住民が雪を除け、荷車の通る幅を作っていた。
その中に、見慣れない黒髪があった。
青年は旅人らしい外套の袖を捲り、木製の雪掻きを動かしている。長身ではあるが、兵士のような厚みはない。濡れた黒髪が頬へ張りつき、伏せた目だけが印象的な濃い藍色だった。
兵の列に気づくと、青年は雪掻きを止めて道の端へ避けた。頭を下げる。礼は知っているが、軍人の敬礼ではない。
腰には弓があった。
ルシアンは、こういう時、己の武官としての勘を信じていた。
「あれは? あの武装は貸与か?」
ルシアンが問うと、出迎えた顔馴染みの教会警備隊長ラウル・ヴォートランが、青年へ目をやった。
「今朝、教会へ来た巡礼者ですよ。冬を越すため、滞在を願い出ました。魔獣が出るということで、自前の武装を私が許可しました」
「今朝?」
「名はエイン。贖罪の巡礼中だと」
家名がない。
犯罪者や家を捨てた者が、贖罪の期間だけ単名を使うことはある。
冬の辺境へ流れ着いた旅人として、あり得ない話ではない。
ただし弓は使い込まれていた。
弦は雪に濡れぬよう外され、革袋へ収められている。
青年――エインが顔を上げた。藍の目がルシアンを捉える。
怯えの色はない。ただ、相手が何者で、自分に何を求めるかを探る目だった。
「巡礼者」
ルシアンは青年へ声をかけた。
「その弓は使えるのか」
「はい。旅の途中で、獣に食われない程度には使えます」
声は若い。見た目なら二十代半ばだろう。
答えは控えめだったが、雪掻きを握る右手に薄い胼胝がある。弦を引く指の硬さを、隠す気もないらしい。
「今は構わないが、弓の扱いは教会の規則に従え。市内で勝手に矢を番えるな」
「承知しました」
「身元記録は」
「教会長に提出しました。あれ以上は持っていません」
エインの回答は、追及を予想していたかのようだった。
ルシアンがラウルを見ると、彼は小さく頷いた。
「冬季の一時滞在に必要な記載はあります。出身地は西方の教区。家名は贖罪期間中につき不使用。教会長との面談は、まだ途中です」
「なら、面談が終わるまで門前の作業に出すな」
「緊急だと聞いたので、僕が頼みました」
エインが言った。
ラウルの顔が強張るより先に、ルシアンはエインへ向き直った。
「僕が無理を言って、雪掻きをさせてもらっただけです。教会長様も隊長様も悪くありません」
エインの言葉は、ある意味では反抗だ。しかし、贖罪者にしては妙に真っ直ぐだった。
「そうか。なら続けろ。荷車を詰まらせるな」
時間がとにかく惜しかった。
ルシアンが許可を出せば、エインは再び道の端へ下がった。
ルシアンは隊を進める。
背後で雪を削る音が戻った。
※
城内へ入ると、ティアの狭い通りは駐留隊を迎える住民で騒がしかった。
歓迎ではない。不安を質問へ変え、誰かの返事で安心しようとしているかのような声だった。
「何日いるんですか」
「魔獣が来るって本当ですか」
「北の集落にいる息子を迎えに行きたいんです」
兵は勝手に答えず、決められた案内役へ住民を渡していく。
規律は保たれている。
それでも、一人が立ち止まれば列は詰まる。
これが戦闘前であることを、ルシアンと一部の隊員以外、まだ誰も実感していないだろう。
ルシアンは教会前の広場を臨時集結所に定め、砦常駐隊長のヴィジルと、教会警備隊長のラウル、ティアの教会長ラザイル・ブラウンを呼んだ。
市内に入れた辺境守備隊二百十名、教会警備隊六十名を、城壁、門、機動予備、教会へ振り分ける。
民兵はまだ名簿だけだ。
今日から集めても、槍の持ち方と合図を教えるだけで日が暮れる。
「東壁の補修は」
「秋の点検で二か所。石材は運び込んでありますが、凍結で目地が固まりません」
「北の排水路は」
「鉄格子があります。人は通れません」
「人ではなく、小型の魔獣を想定しろ。格子の前に内側から木組みを足せ」
ラザイルが答え、ルシアンが指示し、同席した記録官が指示を書き留める。
ヴィジルが地図を広げ、南門から砦へ戻る経路を示した。
「物資は砦にある。天候さえ持てば、明日から三便程度だが……」
「天候が持つ前提を捨てろ。市内にある分を数えろ。食料ではなく、矢と薬と燃料だ」
ルシアンが言えば、ヴィジルは予想していたように苦笑した。
「そう言うと思って指示はしてある。あとは、主に祈るしかない」
左手首の銀十字に触れて、ヴィジルはそう言った。
次にラザイルが口を開く。
「ティアは聖都から遠く離れた辺境です。食糧プラントの万一の停止に備えて、市内には備蓄があります。緊急配給に切り替えれば、六千人の市民とあなた方を半年食べさせられます。しかし」
そこで、彼は一度言葉を切った。
「我らが都市ティアは、武官の皆様が考えているような戦闘を想定していません。食糧はどうとでもなります。ルシアン隊長の仰る通り、薬品や武器の類いを優先された方がよろしいかと」
地図の上には、すぐ三種類の印が増えた。
ルシアン隊は黒、砦常駐隊は青、教会警備隊は赤。
印の色が違うだけなら問題はない。
厄介なのは、それぞれが別の規則で動くことだった。
第一機動守備隊――ルシアン隊は、南西方面司令部から直接命令を受ける。
砦常駐隊は、方面司令部に属しているが、平時なら地元の守備隊の管轄だ。
教会警備隊は教会長が責任を負い、礼拝堂と聖職者の安全を優先する。
敵が壁外にいる間は協力できても、壁内へ入った瞬間、誰の命令を先に聞くかで動きが止まる。
「総指揮はルシアン、お前で異論はない」
ヴィジルが言った。
「ただし、うちの砦隊の処分権まで移るわけじゃない」
「いらん。戦闘中の配置権だけ寄越せ」
ラウルも地図へ指を置く。
「教会長の許可により、我が隊もルシアン殿の指揮下に入れます。しかし、礼拝堂内へ武装した兵を入れる場合、祭壇前だけは避けてください」
ラウルの言葉に、ルシアンは続けた。
「負傷者が祭壇前まで溢れたら?」
ラウルは一度、ラザイルを見た。ラザイルが頷く。
「人命を優先します」
ルシアンは地図の中央、教会へ黒い円を描いた。
「では決める。警報中の配置、撤退、門の開閉は俺が命じる。各隊の懲罰と平時の勤務は元の指揮官が持つ。教会内は教会長、または警備隊長の許可を通す。ただし救命に一刻を争う場合は、その場の現場指揮官が、所属を問わず人員を動かせ。『生命を守ることに許可はいらない』、これを原則にしろ。あとで俺が責任を持つ」
教皇が掲げる『生命と信仰の三原則』のひとつを、ルシアンは根拠にした。
「命令が食い違った場合は?」
ヴィジルが嫌な、だが有効な質問をする。
「新しい方だ。時刻がわからなければ、敵に近い現場指揮官を優先。判断できなければ退路を確保しろ」
言葉にすれば短い。
それを二百七十人に伝え、これから招集する百八十人の民兵にも理解させ、暗闇と咆哮の中でも守らせるには、何度もの訓練が要る。
その何度もが、彼らにはなかった。
会議を終える前に、広場から馬の嘶きが上がった。
※
矢箱を積んだ荷車の車輪が排水溝へ落ち、傾いている。
箱を固定した縄が一本切れ、上段が路面へ滑りかけていた。兵が馬を押さえ、住民が車輪の下へ板を差そうとしている。
声ばかりが重なり、誰も全体を見ていない。
その横で、エインが馬の頭絡を取っていた。
「押すな。先に荷を半分下ろせ。馬が脚を折る」
「それだと日が暮れる!」
「脚が折れれば朝まで動かない」
巡礼者の言葉に、兵が一瞬迷う。
ルシアンは広場へ降りた。
「上段の六箱を下ろせ。二人は馬を押さえろ。板を二枚重ね、車輪の後ろへ土嚢を入れろ」
命令が通ると、混乱は仕事へ変わった。
エインは馬の目を布で覆い、鼻先へ声をかけ続ける。
荷が軽くなり、十人が車体を持ち上げると、車輪は板の上へ戻った。矢箱の一つが傾いたが、落ちる前にエインと兵が両側から受けた。
蓋の隙間から矢羽が見える。
エインは箱の向きを直しただけで、中へは手を入れなかった。
「馬の扱いも旅で覚えたか」
ルシアンが聞く。
「故郷では農作業の良き友でしたから」
「教会の面談を終えたばかりで、よく働くな」
「何もしない巡礼者を、冬じゅう置いてくださる場所はありませんので」
それは事実だ。
穀潰しを養う余裕は、どこにもない。
エインは馬の目隠しを外した。怯えていた馬が鼻を鳴らし、青年の肩へ鼻先を寄せる。
「何もしないで受け入れられる方が、落ち着かないです」
エインはそれだけ言い、下ろした矢箱を運ぶ列へ加わった。
贖罪者らしい言葉にも聞こえた。借りを作りたくない者の言葉にも聞こえる。
ルシアンは、どちらとも決めなかった。
いま必要なのは、青年の過去を暴くことではなく、日没前に矢を濡らさず倉へ入れることだった。
教会の鐘が鳴った。
夕刻の祈りを知らせる短い鐘だった。
兵の何人かが一瞬だけ顔を上げる。
義務ではない平日の祈りに、全員が足を止める余裕はない。それでも胸元へ手を当てる者、唇だけ動かす者がいる。
広場の端では、教会長との面談を終えたエインが、雪掻きを壁へ立てかけていた。
彼は鐘楼を見上げなかった。
右手を左手首へ重ね、目を伏せていた。
一瞬だけの、ひどく静かな所作だった。
それから何事もなかったように顔を上げ、近くの老婆が落とした薪を拾う。
日が落ちると、市内の寝場所が足りなくなった。
兵舎は砦隊と機動守備隊で埋まり、教会警備は持ち場近くの詰所へ残る。
民兵候補の集合所には、東側の工房二棟を充てることにした。翌日以降の招集に備え、先に寝具を運ばせる。
命令を出す者より、毛布を一枚ずつ数える者の方が忙しい。
ルシアンは最後に教会の宿泊室を見た。
巡礼者と、教会に身を寄せる者たちを同じ部屋へ詰めすぎれば、翌朝から病人が出る。
暖かさを優先して窓を塞げば、濡れた衣服の湿気が抜けない。
窓を指一本分だけ開け、入口へ湯を置く。
エインは六人部屋の壁側へ荷を置いていた。
自分の寝台だけ整えず、先に老人の濡れた靴へ紙を詰めている。
「夕刻の所在確認です」
シスター・エマが帳面を持ってくる。
「エイン」
「ここにいます」
エインは、呼ばれるとためらいなく返事をした。
「行商人の方は」
名前が呼ばれ、一人ずつ返事をする。
そのうちらルシアンに気付いたエインが、部屋を出てそばへ寄って来る。
「夜中に出るな」
ルシアンが言う。
「厠にも?」
「教会の中は構わん。外へ出るなという意味だ」
「最初から、そう言えばいいでしょう。……貴方には、僕に構っている暇はないはずです。何か用件がありますか?」
正論だった。青年一人尋問する時間で、指示がどれだけ出せるか。
ただ。
「長い武官生活が、お前を警戒しろと訴えている。怪しまれたくなければ大人しくしておけ」
それだけを告げた。
同室の老人が笑い、ルシアンはそれ以上の返事をやめた。
冬季滞在者は、夕刻と朝に所在を確認し、武器箱は施錠する。
教会長が受け入れた巡礼者へ適用する規則として、それで足りる。
初日のうちから疑いだけで拘束すれば、青年が何者かではなく、ルシアンが何を恐れたかを街へ知らせることになる。
部屋を出る時、背後でエインが窓の隙間を確かめていた。風の向きに合わせ、寝台へ直接冷気が当たらないよう毛布を吊るす。
冬を越すつもりの人間の動きだった。
ひとまずは、単なる巡礼者。
教会長が認め、街の仕事を手伝い、夕刻には祈る青年。
だが、警戒から外す理由もない。
ルシアンは、エインという名と藍色の目を記憶に留めた。
雪の向こうへ集まりつつある、まだ姿の見えない無数の爪とともに。
読んでくださってありがとうございます。
もしお気に召されましたら、
ブックマークや★評価、誤字脱字報告頂けると大変励みになります!
ここまで読んでくださったあなたに、心より御礼申し上げます。




