003 壊れた浴室と、眠れない魔女たち
異世界二日目。
俺は勇者の宿でも、王城の客室でもなく、壊れかけの魔女寮の厨房で目を覚ました。
「……首、痛い」
目を開けると、最初に見えたのは薄暗い天井だった。
昨日見た倉庫よりはマシだが、やっぱり古い。梁には小さなひびが入り、天井の隅には見なかったことにしたい蜘蛛の巣がある。
どうやら、俺は厨房の椅子に座ったまま眠っていたらしい。
身体に、少し重みがあった。
見ると、古い毛布が一枚かけられている。
俺が寝る前に使っていた覚えはない。
「……誰かがかけてくれたのか」
小さく呟いて、身体を起こす。
厨房の中には、まだ昨夜のスープの匂いが少し残っていた。
テーブルの端では、フィリアが器を抱えたまま眠っている。金色の髪が頬にかかり、寝息は静かだ。
窓際ではノエルが椅子に座っていた。
白い髪の少女は目を閉じているが、眠っているのか起きているのか分からない。彼女の周囲だけ、うっすらと霜が降りている。
寒い。
物理的に寒い。
そして厨房の隅では、ミアが木箱をひっくり返して何かを探していた。朝から元気だなと思ったが、目の下には普通にクマがある。
「おはよう、管理人さん」
「まだ正式に管理人になった覚えはない」
「でも昨日、リゼがそういう顔してたよ」
「どんな顔だよ」
「この人なら、何とかしてくれるかもって顔」
ミアはそう言って、にやっと笑った。
その言い方に、少しだけ返事に困った。
何とかしてくれるかも。
それは、期待だ。
期待されるのは嫌いじゃない。
でも、今の俺にできることなんて、本当に限られている。
魔法は使えない。
この世界の常識も知らない。
持っているのはコンビニ制服と、電源の入らないスマホと、少しだけ生活に関する知識。
それだけだ。
けれど、昨日のスープで分かったこともある。
この寮は、少し手を入れるだけで変わる。
少なくとも、熱いものを食べれば、表情が変わる。
「あ、ユーマさん。起きていたんですね」
厨房の扉が開き、リゼロッテが入ってきた。
彼女は両手に薪のようなものを抱えていた。銀色の髪が少し乱れていて、頬が赤い。朝早くから外へ出ていたらしい。
「毛布、リゼロッテが?」
「はい。厨房でそのまま眠っていたので……寒いかと思って」
「助かった。ありがとう」
「いえ」
リゼロッテは少しだけ目を伏せた。
それから、俺の顔を見て小さく笑う。
「でも、ユーマさん。椅子で眠るのは、あまり身体によくないと思います」
「それは間違いない。首が終わってる」
「終わって……?」
「痛いってこと」
「なるほど」
リゼロッテは真面目に頷いた。
こういうところ、少し面白い。
俺は立ち上がり、昨日の鍋を見る。
もちろん、中身は空だ。
あれだけ綺麗に食べてもらえたなら、作った側としては嬉しい。
ただ、毎晩あれだけでは足りない。
朝も問題だ。
冷えたパンをかじる生活を続けていたら、そりゃ魔法どころじゃない。
その時、視界の端に淡い光が浮かんだ。
【生活改善図鑑】
【解放済み報酬:簡易保温鍋の設計図】
【材料候補】
・木箱
・布
・灰
・壊れた鍋蓋
・革紐
【目的:熱を逃がしにくくする】
俺は文字を見て、少し黙った。
なるほど。
保温鍋というより、保温箱に近い。
鍋そのものを魔法でどうこうするわけじゃない。温めた鍋を、熱が逃げにくい状態にしておく。
これなら、今ある道具でできる。
「ミア」
「なに?」
「その木箱、使っていいか?」
「いいよ。たぶん爆発しないやつだから」
「その説明、逆に不安なんだけど」
「昨日まで錬金素材が入ってたけど、軽く煙が出ただけだから大丈夫」
「大丈夫の基準を見直してほしい」
俺は木箱を受け取り、中を確認した。
焦げ跡はあるが、穴は空いていない。
使える。
次に、古い布を何枚か集める。灰も必要だ。かまどの中に残っていた灰を見て、俺は少しだけ安心した。
「ユーマさん、何をするんですか?」
リゼロッテが近づいてくる。
「保温できる箱を作る」
「保温?」
「温かさを残すってこと」
「魔法で、ですか?」
「いや、魔法なしで」
俺がそう言うと、ミアの目が少し輝いた。
「魔法なしで温度を残すの?」
「ああ。熱は勝手に逃げるから、逃げにくくするだけだ」
「逃げる熱を、閉じ込める……?」
「そんな感じ」
「面白い」
ミアは完全に食いついた。
さすが錬金術科。
爆発するらしいけど、興味の向く方向は技術者っぽい。
俺は木箱の内側に布を敷き、灰を薄く詰め、その上にまた布を重ねる。鍋を包み込めるようにして、最後に壊れた鍋蓋を加工して内蓋代わりにする。
道具が悪いせいで、見た目はかなり雑だ。
でも、理屈としては間違っていない。
保温バッグの原始版みたいなものだ。
「これで、夜に温めたものを少しは朝まで温かく残せる。完全じゃないけど、冷えきるよりはマシだ」
リゼロッテが木箱を覗き込む。
「こんなことで、変わるんですか?」
「大きくは変わらない。でも、少しは変わる」
俺はそう言ってから、少し考えた。
「生活って、たぶんそういうものだろ。少しマシにすることを積み重ねるしかない」
言ってから、自分でも少し偉そうだと思った。
でも、リゼロッテは笑わなかった。
ただ、静かに木箱を見ていた。
まるで、その「少しマシ」という言葉を、思ったより大事に受け取ったみたいに。
その時、また淡い文字が浮かぶ。
【小改善達成:簡易保温】
【灰羽寮 快適度:7 → 8】
【新規診断】
浴室設備の劣化が深刻です。
冷水による身体負担が続いています。
放置した場合、体調不良および魔力循環の悪化が継続します。
【優先改善候補:浴室の修復】
「やっぱり、風呂か」
「ユーマさん?」
リゼロッテが俺を見る。
俺は光る文字から目を離した。
「昨日言ったよな。浴室を見せてくれ」
「……本当に見るんですか?」
「見るだけならできる」
「でも、魔法設備ですよ」
「魔法は分からない。でも、水がどこから来て、どこで温まって、どこから出るのかくらいは見たい」
リゼロッテは少し不安そうだった。
けれど、やがて小さく頷いた。
「分かりました。案内します」
俺たちは厨房を出た。
リゼロッテが先を歩き、俺がその後ろについていく。
途中でミアもついてきた。
「私は見たい。ユーマが魔法設備に何するのか」
「壊すつもりはないぞ」
「壊れてるから大丈夫」
「大丈夫じゃない」
ノエルも、いつの間にか立ち上がっていた。
「私も行きます」
「ノエルも?」
「浴室が直るなら、関係があります」
短い言葉だった。
でも、昨日より少しだけ、自分から関わろうとしている気がした。
フィリアはまだ寝ている。
起こすか迷ったが、リゼロッテがそっと毛布をかけていたので、そのままにした。
廊下を進む。
歩けば歩くほど、灰羽寮の状態が見えてくる。
壁のひび。
浮いた床板。
閉まりきらない窓。
部屋の前に置かれた水桶。
乾ききっていない布。
これは、単に古い建物というだけではない。
生活が回っていない。
誰かが毎日少しずつ直し、整え、補充していれば、ここまで崩れないはずだ。
逆に言えば、灰羽寮にはそれをする人がいなかった。
あるいは、やる余裕がなかった。
「こちらです」
リゼロッテが廊下の突き当たりで足を止めた。
扉には、古い金属のプレートが掛かっている。
文字は読める。
浴室。
リゼロッテが扉に手をかけた瞬間、ぎい、と嫌な音がした。
中に入る。
まず、湿った匂いがした。
使われていない水場の匂いだ。
広さはある。
大きな浴槽が一つ。壁際には洗い場らしき場所。床は石でできていて、ところどころひび割れている。
浴槽は空だった。
底が白く乾いている。
壁には金属の管が走っていた。その管の表面には、細かな文字や模様が刻まれている。たぶん魔法の回路だ。
そして、部屋の奥には、黒く焦げた箱のような装置があった。
「これが給湯用の魔石炉です」
リゼロッテが説明する。
「三ヶ月前、急に煙が出て、それからお湯が出なくなりました」
「煙が出た時、誰か怪我は?」
「ありません。でも、それ以降は怖くて動かしていません」
「正解だな」
俺はしゃがみ込み、魔石炉の周囲を見た。
正直、魔法のことは何も分からない。
刻まれた模様も読めない。
ただ、設備として見るなら、多少は分かる。
水の入口。
熱を加える場所。
湯を送る管。
排水。
たぶん、これは魔石を熱源にして水を温める装置だ。
現代日本の給湯器とは違うが、役割は近い。
「この管、水は通るのか?」
「冷水だけなら出ます」
「熱くならないだけ?」
「はい」
「水漏れは?」
「少しあります」
「少し?」
俺は床を見た。
壁際に水染みがある。
カビも出ている。
「これは少しじゃないな」
「……かなりです」
「昨日からそれ多いな」
リゼロッテが申し訳なさそうに小さくなる。
俺は管を目で追った。
魔法回路そのものが壊れているなら、俺には直せない。
でも、水が通るなら、別の方法で温めることはできるかもしれない。
浴槽の横には古い木桶がいくつか積まれている。
金属管もある。
錆びてはいるが、完全に使えないわけではなさそうだ。
ミアが横から覗き込む。
「分かる?」
「魔法部分は分からない」
「だよね」
「でも、全部分からないわけじゃない」
「へえ」
ミアの目がまた輝く。
ノエルは浴槽の前に立っていた。
白い指先で、乾いた浴槽の縁に触れる。
「壊れているものは、たいてい戻りません」
静かな声だった。
その言葉に、リゼロッテが少しだけ目を伏せる。
俺は顔を上げた。
「そうとも限らない」
ノエルがこちらを見る。
「直せると?」
「まだ言わない。見ただけで直せるなんて言ったら、それは嘘だ」
俺は魔石炉の黒く焦げた部分を指さした。
「でも、どこが壊れているかを見つけることはできるかもしれない。元の設備を直せなくても、別のやり方があるかもしれない」
リゼロッテが小さく息を呑んだ。
「無理なら、無理と言ってください」
彼女はそう言った。
声は落ち着いていた。
でも、指先が少しだけ震えている。
「期待してから駄目だった時のほうが、つらいので」
その言葉は、軽くなかった。
三ヶ月。
修理申請を出して。
待って。
後回しにされて。
諦めるしかなくなって。
たぶん、そういうことを何度も繰り返してきたのだろう。
俺は少しだけ黙ってから、言った。
「分かった。約束する」
「約束?」
「直せるとは言わない。無責任なことは言わない」
リゼロッテの青い瞳が、俺を見ている。
「でも、何ができるかは探す」
それを聞いて、リゼロッテは少しだけ表情を緩めた。
ほんの少しだけだ。
でも、さっきよりは顔色が明るくなった。
その時だった。
浴室の外から、硬い足音が近づいてきた。
「リゼロッテ・エーレンベルクさん。こちらにいますか」
低い男の声。
リゼロッテの顔が一瞬で強ばった。
「管理局の方です」
「管理局?」
「学院設備を管理している部署です」
扉が開く。
入ってきたのは、中年の男性だった。
きっちりした制服。整えられた髭。手には書類板を持っている。
俺たちを見ると、男はまずリゼロッテに視線を向け、それから俺を見た。
「……見慣れない方がいますね」
まずい。
完全にまずい。
召喚された人間が勝手に魔法学院の寮をうろついている。
どう考えても説明が難しい。
リゼロッテの肩が固まる。
ミアは少しだけ楽しそうな顔をしている。
ノエルは無表情。
助けろ。誰か助けろ。
リゼロッテは数秒沈黙したあと、なぜか胸を張った。
「彼は……灰羽寮の臨時管理人です」
いや、就職が早すぎる。
俺は心の中で突っ込んだ。
昨日召喚されて、今日もう職に就いている。
異世界の労働市場、スピード感がすごい。
管理局の男は眉をひそめた。
「臨時管理人?」
「はい」
「許可書は?」
リゼロッテが止まった。
俺も止まった。
ミアが小さく「あ」と言った。
空気が死んだ。
男はため息をつく。
「まあ、灰羽寮の内部で雑務を手伝う程度なら、今は見なかったことにしましょう。こちらも余計な報告書は増やしたくありません」
助かった。
いや、助かっているのか?
男は浴室を見回した。
「浴室の件ですね」
「はい。修理申請を出してから三ヶ月経っています」
リゼロッテの声は、さっきより少し固かった。
「状況は把握しています」
「では、いつ修理を」
「未定です」
男は書類板を見ながら、淡々と言った。
「主棟の暖房回路、第一寮の温室、貴族寮の給湯設備が優先です。灰羽寮は現在、月末考査の結果次第で廃寮の可能性があります。限られた魔石と技師を、廃寮予定の建物に回すわけにはいきません」
言い方は丁寧だった。
でも、内容は冷たい。
修理する価値がない。
遠回しに、そう言っている。
リゼロッテは唇を噛んだ。
ミアは黙った。
ノエルの周囲の空気が、少し冷たくなる。
男は俺を見た。
「それと、臨時管理人の方」
「俺ですか」
「魔法学院の設備は、素人が触れてよいものではありません。特に給湯回路は魔石炉と接続されています。誤って動かせば、火傷や魔力暴走の危険があります」
「分かりました」
「本当に分かっていますか?」
「少なくとも、分からないものを勝手にいじる危険性は分かっています」
男は少し意外そうな顔をした。
俺が食い下がると思ったのかもしれない。
でも、そこは認める。
分からないものを適当に触るのは危ない。
コンビニでも、業者しか触ってはいけない設備はあった。冷凍ケースの裏とか、電気配線とか、勝手にいじったら普通に怒られる。
魔法設備ならなおさらだ。
男は軽く頷いた。
「なら結構。修理の順番が来れば連絡します」
「それは、いつ頃ですか?」
リゼロッテが聞いた。
男は少しだけ間を置いてから答えた。
「月末考査のあとになるでしょう」
「それでは……」
「灰羽寮が存続すれば、再検討します」
それだけ言うと、男は書類板を閉じた。
「では、失礼します」
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
浴室には、しばらく誰の声もなかった。
リゼロッテは俯いている。
ミアは唇を尖らせていた。
ノエルは浴槽の縁から手を離し、静かに言った。
「予想通りです」
「ノエル」
「期待しないほうが楽です」
その言葉に、リゼロッテは何も返せなかった。
俺は壊れた魔石炉を見た。
確かに、元の設備を直すのは無理かもしれない。
少なくとも、俺一人では無理だ。
魔法回路が読めない。
魔石炉の構造も分からない。
下手に触れば危ない。
なら、どうする?
元の給湯設備に頼らない。
別の熱源を使う。
浴槽に直接湯を張れなくても、桶に湯を作ることはできる。
大量のお湯は無理でも、身体を拭くための温水なら。
あるいは、小さな簡易湯沸かし装置なら。
俺は浴室の隅に積まれた古い木桶を見た。
錆びた金属管。
割れた鍋。
火の魔石の欠片。
ミアの錬金道具。
昨日の保温箱。
それぞれ単体では、たいしたものではない。
でも、組み合わせれば。
「ミア」
「なに?」
「壊れた金属管とか、熱に強い容器とか、そういうのはあるか?」
「あるよ。いっぱいある。失敗作なら」
「失敗作でいい。水を通せる管と、火にかけても割れない容器が欲しい」
ミアの目が一気に輝いた。
「何か作るの?」
「ああ」
リゼロッテが顔を上げる。
「ユーマさん?」
俺は魔石炉を指さした。
「元の設備を直すのは無理かもしれない」
ノエルがこちらを見る。
俺は続けた。
「でも、別の方法でお湯を作ることはできるかもしれない」
リゼロッテが息を止めた。
「別の方法……?」
「浴室全部を直すんじゃない。まずは、身体を温められるだけのお湯を作る。少しずつでいい。桶一杯でもいい。冷たい水で身体を拭くより、ずっとマシなはずだ」
ミアが両手を合わせた。
「面白い。すごく面白い。魔石炉を直さずに、お湯だけ作るんだ」
「危ないことはしないぞ」
「危なくない範囲で爆発しよう」
「爆発はしない」
「ちぇ」
「今、ちぇって言ったな」
ミアは笑っていた。
でも、その目は真剣だった。
ノエルが静かに聞く。
「本当に、温かい水が出ますか?」
俺は彼女を見た。
白い髪。
冷たい瞳。
けれど、その声には、ほんの少しだけ熱があった。
俺は簡単に頷けなかった。
できる、と言い切るのは簡単だ。
でも、それで失敗したら、リゼロッテが言った通り、期待した分だけつらくなる。
「やってみないと分からない」
だから、正直に言った。
「でも、三ヶ月待つよりは早い」
ノエルはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「なら、見ています」
「手伝ってくれないのか?」
「近づくと凍ります」
「そうだった」
「でも、必要なら水は冷やせます」
「お湯を作りたいんだけどな」
「熱すぎた時に」
「それは助かるかもしれない」
リゼロッテが少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも、さっきまでの重い空気が、わずかに動いた。
俺は浴槽を見た。
三ヶ月使われていない浴室。
冷えた石の床。
乾いた浴槽。
壊れた魔石炉。
たぶん、俺一人で全部を元通りにはできない。
けれど、元通りにすることだけが、解決ではない。
今あるもので、今日より少しマシにする。
それが俺にできることだ。
灰羽寮の浴室は、三ヶ月前に止まったままだった。
だったら。
俺がここで最初に直すべきなのは、魔法じゃない。
この寮の、冷えきった毎日だ。




