揺れる帝都と王国の密使
リヒト・フォン・エルネスタが去った翌朝、ミュリエ村の空気は静かに、だが確かに引き締まっていた。
帝国の中心に名を連ねる公爵家からの“監視”が始まったという現実は、誰よりもエリス自身が強く理解していた。
「彼は確かに微笑んでいた。でも、心の中では“もしもの時”の選択肢をいくつも想定している」
そう言ったのはクラウスだった。
あれほど冷静で沈着な彼が、珍しく言葉を選ばず警戒を明かした相手――それがリヒト。
しかし、帝国が揺れる一方で、王都エルステリアもまた、密やかに動き出していた。
王都・裏門の塔。
そこは、王宮の正式な記録にも残らない“情報管理室”――
通称、**灰塔**と呼ばれる場所だった。
「エリス・フォン・ベルグランド、そしてクラウス王子……帝国と王国の両方で“民衆の希望”となりかねん芽を摘むには、今が最後の機会だ」
語るのは、王国宰相直属の密使頭領、ヴァルター・クローデン。
灰の使い――王宮が手を汚さず“結果だけ”を望むときに動く、非公式の影部隊。
その長であるヴァルターは、書類の山の中から一枚の地図を取り出した。
「“研究棟の中枢を抑える”。物理的破壊ではない。構造に不備を装い、建材の魔力封じを仕込む。
最悪、魔導薬品の暴走を引き起こせば――“自壊”のように見せかけられる」
隣に立つ若き密使、リーネは眉をしかめた。
「本当にやるのですか? 殿下は、彼女を――」
「王太子殿下の想いなど、政においては一つの駒にすぎん。我々が守るのは、“王都の安定”だ」
そして、ヴァルターは最後にこう付け加えた。
「――もしその手でエリス嬢を殺めることになっても、それは“必要な犠牲”だ」
一方、帝国・アルシア城内。
クラウスの腹心である若き戦術官、フェルナー・カイルスが密かに報告書を読み込んでいた。
「……王都が動いたな。だが、“影”を送るとは思ったよりも早い」
フェルナーはかつて、王国に留学していた経験を持ち、王都内部の“黒さ”を知る数少ない人物でもある。
彼の手にあるのは、帝国軍の監視部隊から届いた警告書。
ミュリエ村周辺に、王国由来の工作員が入り込んでいるという確かな情報だった。
「エリス嬢の命を守るだけでは足りない。あの研究が“国境を越える未来”の鍵になる以上、我々も先手を打つべきだ」
フェルナーはその足でクラウスの元を訪れる。
ミュリエ村、夜――
「王都が動く。密使部隊が村へ潜入を図っている。狙いはおそらく研究棟。最悪、建設中の施設が破壊される」
フェルナーの報告に、クラウスは短く頷いた。
そしてエリスに向き直る。
「選択肢は二つある。施設を一時閉鎖し、王都の動きが落ち着くのを待つか。
あるいは――先手を打ち、“共同声明の第二弾”として、帝国の守護下に研究棟を正式登録するか」
「つまり、これまで以上に公的な場所になるということね」
「王都は手を出せなくなる。ただし、それは“国家の注目”を浴びるという意味でもある」
エリスは静かに目を伏せる。
この数ヶ月、自分が積み上げてきたもの。村の人々、研究者たち、クラウス、アルフ、マリー、リーナ――
守るべきものが多くなった今、それを“さらけ出す”覚悟が求められている。
……そして、エリスは顔を上げた。
「やりましょう。これ以上、誰かの思惑で踏みにじられるのはもう嫌。
だったら、すべてを“陽の下”にさらして、自分たちの力で守るのよ」
その瞳には、迷いがなかった。
その翌日、帝国とミュリエ村の名のもとに、新たな声明が発表された。
《帝国認可研究拠点ミュリエ機関 設立通達》
魔導薬品の研究は、正式に帝国軍と帝都大学の監督下に入り、
施設は“不可侵条約”の対象とされる――すなわち、王国のいかなる諜報・軍事介入も“侵略行為”と見なされる、という内容だった。
これにより、王都は手出しを封じられた。
しかし、同時に“帝国との火種”が、はっきりと芽を出した瞬間でもあった。
夜、研究棟の灯りの下で、エリスは一人呟く。
「……これが、私たちの“覚悟”の証」
そして、微笑む。
「ならば、もう一歩。もっと遠くへ。
“悪役令嬢”ではなく――未来の“指導者”として、私はこの場所を育ててみせる」




