第10話 温かな朝と静かなる前兆
港町を旅立つ日の朝。
屋敷の面前で、清之介が一行を見送るために待っていた。
「清之介さん、色々世話になったな。
それと、この石をしばらくの間、俺に預からせてくれないか?」
「こちらこそ、皆さんと過ごした時間はとても楽しかったです。
石は……ええ、もちろん構いませんが、どうかお気をつけください。何か得体の知れない因縁がありそうですから」
錬はうなずき、不穏な影を落とす黒い石を懐にしまった。
清之介は渚の姿を見て、穏やかな笑みを浮かべて話しかけた。
「渚さん……何度も申し訳ありません。
ですが、昨日のあなたの凛々しいお姿を見て、改めて私の想いが本物だと気づきました。
私の気持ちは変わりません。もし旅の果てに心変わりすることがあれば、いつでも私の元へ来てください。全力であなたを支えましょう」
真っ直ぐな好意を告げる清之介に、渚は申し訳なさそうに、けれどしっかりと頭を下げた。
「清之介さん、温かいお言葉……本当に嬉しいです。でも、私の行く道はもう決まっていますから」
「そうですか……それは残念だ。
しかし、あなたのような素晴らしい女性を惹きつけるその旅が、幸多きものであるよう祈っています。
……そういえば、お役に立つかは分かりませんが、山を二つ越えた村に『物知りな占い師』がいるという噂を昔聞いたことがあります。
もしかしたら、あの黒い石の手がかりになるかもしれません」
一行が深く頭を下げると、清之介は爽やかに一礼し、待たせていた馬車に乗り込んで去っていった。
その後ろ姿を見送る渚の横顔には、一点の曇りもなかった。
――波打ち際の白い砂浜。
出発の準備が整うまでの間、渚が一人で海を眺めていると、背後から足音が近づいてきた。
「……渚」
「錬さん」
振り返った渚に、錬は少しバツが悪そうに頭を掻きながら歩み寄る。
「その……清之介さんのこと、さ。行くなら止めないけどさ……後悔してないかい? あんなに優しくて、立派な人だったし……」
錬の言葉の途中で、渚は小さく微笑んだ。その透き通った瞳が、真っ直ぐに錬を見つめる。
「錬さんは……私に、行ってほしいのですか?」
「え……?」
不意を突かれた質問に、錬は言葉に詰まった。
そして小さく呟いた。
「……嫌、だ……」
「ふふ。……なら、私はずっとここにいます」
潮風が渚の黒髪を優しく揺らす。
「ちょっと! 二人していい雰囲気になってるんじゃないわよ!」
「錬ちゃんと渚ちゃんはずっと圭と一緒だもん!」
砂丘の陰から、灯と圭がものすごい勢いで飛び出してきた。
「私だって! 錬に、行くなって言われたいですわ!」
「よー色男!
ところで腹が減った!干し芋を食べさせろ」
その後ろから楓とコマが呆れた顔で歩いてくる。
仲間たちの賑やかな笑い声が、青空と潮騒のなかに溶けていく。
誰か一人を選ぶなんて錬にはできないし、そもそもそんな器用な真似はできない。
けれど、ずっと一人だった錬は、このかけがえのない、温かすぎる居場所を、心の底から愛おしく思っていた。
再び五人と一匹の旅路が、笑い声とともに動き出すのだった。
――だが、
その温かな背中を、すぐ近くの切り立った高台の上から冷ややかに見据える影があった。
鋭い眼光を光らせたその人物は、一瞬で消えていった。
◇ ◇ ◇
その頃――絢爛たる都では……。
気品ある奥女中たちが、回廊の陰でそっと頬を赤らめながら、うっとりと噂話に花を咲かせていた。
「ねえ、聞いたわ。月形様、今日も本当にお優しかったとか……」
「そうなの! 廊下で私が重い文箱を落としてしまったとき、わざわざ拾い上げて、『お怪我はありませんか』って。
あの穏やかな微笑みで声をかけてくださったの……。
あんなに高潔で偉い方なのに、私たちにも分け隔てなく優しくしてくださるなんて……」
「本当に。今日の月形様、いつにも増して素敵だったわねぇ……」
「……ただ、廊下には私しか居なかったはずなのに、突然お見えになられて、お礼を申し上げようとしたら、月形様はすでにいらっしゃらなくて……」
「もしかして、瞬間移動とか……?」
「あの、忍びしか使えないって噂の……?」
「……そういう神秘的な所も良いわよねぇ……」
女性たちの胸をときめかせる月形景時は、都においても誰もが慕う、優しく紳士的な存在であった。
誰もがその温かな人柄を信じ、彼の裏の顔など知る由もなかった。
――その紳士的な仮面の下で、巨大な陰謀を抱いていたとは――。
静まり返った自室の縁側で、景時は密かな笑みを浮かべながら、
「ついに石を手に入れたか……」と小さな声で呟いた。
◇ ◇ ◇
その夜、錬は冷たい悪夢の中にいた。
――幼い自分が、逃げ場のない部屋で膝を抱えて座っている。
目の前には、冷徹な光をたたえた誰かが立っていた。その人物が冷ややかな声音で告げる。
「――その身に宿るすべてを、ここに封じる」
「嫌だ……!」
幼い自分が必死に叫び、手を伸ばすが、容赦なく冷たい呪縛が身体を覆っていく。
恐怖と絶望感が錬の胸を締め付けた。
「やめろ――っ!!」
叫び声を上げながら、錬はガバッと上体を起こした。
ハアハアと荒い息を繰り返す胸の動きが激しく波打ち、額からは冷や汗が滝のように流れ落ちている。
(……いまのは……一体……?)
錬は恐怖に怯えるように辺りを見回した。
すると、布団のすぐ隣で、丸くなってすやすやと穏やかな寝息を立てているコマの姿が目に入った。
のんびりと無防備に眠るその愛らしい姿を見た瞬間、強張っていた錬の心は、スッと嘘のように解きほぐされていく。
「……よかった……夢だ……」
錬は小さく息をつき、隣で眠るコマの背中にそっと手を伸ばした。その確かな温もりに触れたことで、ようやく現実に戻ったような強い安心感に包まれる。
だが、静まり返った闇のなか、錬の胸の奥底――ずっと奥の深層で、見えないはずの何かが小さく脈打った。
それはまるで、近づきつつある破滅の足音に呼応するかのように……。
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