京に広まる噂
時同じくし、妙覚寺から様子見で来ていた村井親子は、本能寺から離れ妙覚寺へ戻るため走っていた。
「父上……先ほどの明智兵、やはり不審ではございませんか」
「あぁ」
「なぜ明智兵が?確か亀山に向かい全軍出ている時刻では?」
「知っておる。だが今は京におる。なぜだ?しかも符丁とはどういうことだ?」
貞勝は走りながら、先ほどの光景を思い返した。
本能寺へ入っていく兵がいる一方で、門から弾かれ、外へ回っていく兵もいた。
その兵たちから聞こえたのは、
「符丁など知らぬわ!」
「教えてくれてもよかろうが!」
「符丁……」
戦場で使うものなら、敵味方を見分けるためのものだ。
だが、なぜ明智の兵同士で、それが必要になる?
「中で、何か起きているのでは?」
「分からぬ。だが、あの兵の分け方を見る限り、何かを警戒しているのは間違いない」
貞勝は、本能寺から立ち上る炎を振り返った。
二人はしばらく黙って走った。
火の手は、まだ収まっていない。
明智軍は本能寺へ入り続けているが、入れぬ兵は一定数いる
「明智殿は、何を警戒しているのでしょう」
「それが分かれば苦労はせぬわ」
貞勝はそう答えたものの、胸の中には一つの疑念が残った。
もし、本能寺の中で織田方と明智方が防衛しているのであれば……
だが、それならば、なぜ明智の兵を選別する必要がある?
しかもなぜ今日いる?
考えれば考えるほど、分からなくなる。
それでも、今の状況で最悪の可能性を捨てることはできなかった。
「急ぐぞ」
「はい!」
二人は妙覚寺へ向かって、さらに足を速めた。
妙覚寺では、信忠が近習たちとともにいた。
まだ甲冑を身につけておらず、刀だけを手にし、
本能寺で何が起きたのかを確かめようとしていた。
そこへ、村井親子が駆け込んでくる。
「三位中将様!」
「村井か!何があった」
貞勝は息を整えながら、頭を下げた。
「本能寺に火の手が上がり、明智の兵が集まっております」
「明智が?」
「はい。ただ……様子がおかしゅうございます」
「何がおかしい」
貞勝は、見たままを話した。
明智の兵が本能寺へ入っていること。
その一方で、門から弾かれて外へ回っている兵がいること。
そして、弾かれた兵たちが「符丁を知らない」と口にしていたこと。
信忠は黙して聞き入った。
「……符丁を?」
「はい」
「明智の兵を、敵味方で分けているのか」
「そのようにも見えました」
信忠はしばらく考える。
本能寺からは煙が立ちのぼり火も見え、町も騒がしくなり始めている。
そんな中、本来いないはずの明智軍がいる。
そして、その明智軍自身が何かを警戒し、兵を選別している。
「父上は?」
「それが……まだ、御無事かどうか確認できておりませぬ」
「ならば、確かめる。本能寺へ行くぞ」
「三位中将様、まず二条へ」
「なぜだ、村井」
「本能寺の状況が分からぬ以上、ここに留まるのは危険にございます。二条ならば守りを固められます」
信忠は本能寺の方角を見る。
父がいる、あそこに。
それだけは確かだ。
そして今、自分たちが持っている情報では、何が起きているのか判断できない。
万が一があるとすれば――
「……分かった。二条へ移る」
近習たちが動き始める。
まだ甲冑を身につけていない者もいる。
それでも、誰もが急いで支度を始めた。
信忠は妙覚寺を出る前に、もう一度だけ本能寺の方角を見た。
炎だけが、夜空を赤く染めている。
「父上」
何が起きているのか。
そして、明智光秀は何をしているのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
二条御所へ入った信忠は、使者を立てることにした。
「秀勝一つ頼みがある」
「はっ、殿!」
「お主は本能寺へ参れ、そして父信長様の無事並びに……わかるじゃろ、行け!
ただし、織田家の者であることが分かるよう、大旗を掲げよ。馬は駆けさせるな」
「承知いたしました。必ずや」
「頼む……危険だが」
「信忠様のお心受け取りました。一刻を争います。御前失礼致します」
「頼んだぞ」
福富秀勝は大旗を掲げ、二条御所を出た。
馬は駆けず、ゆっくりと歩みを進めながら、福富秀勝は大きく声を張った。
「織田家家臣、福富秀勝である!三位中将信忠様の使者として、本能寺へ参る!」
その声は、朝を迎えた京の町へ響いた。
戸を閉めた家々からも、耳を澄ます気配が伝わってくる。
「三位中将信忠様の使者だってよ」
「本能寺へ向かっているらしいぞ」
「京で戦か?まさか謀反とか?」
「煙や火の手がすごいな」
誰も外へ出ようとはしないが、馬上からの声を聞かない者はいなかった。
《史料と伝承》
本能寺と妙覚寺の距離:おおよそ2キロ
本能寺とイエズス会の距離:110メートル
史実のルイス・フロイスの『日本史』(História do Japão)において、
イエズス会に、教会の近くで騒音。人々は最初「また町衆の喧嘩か、あるいは馬のいさかいか」程度に思っていました。しかし、その直後に慌てて駆け込んできた別の使いの者が、青ざめた顔でこう告げました。
"O Xunago se sublevou! Akechi cometeu traição!"
(上方様=信長公に対し、明智が謀反を起こした!)
太田牛一自筆本『信長公記』:「三位中将信忠、此の由きかせられ、信長と御一手に御なり候はんとおぼしめされ」以下省略




