敵影
火は、勢いが強くすでに一ヶ所だけでは済まなかった。
軒から軒へ、風にあおられるように炎が走り渡る。
「水を持て!」
兵たちが叫び、皆が水桶を運ぶ。
だが、消しても消しても、炎はまるで建物の中を知っているかのように広がっていく。
「……おかしい」
「殿?」
「火の回りが早すぎる」
「火の手は一つではない可能性が?まさか、敵襲ですか?」
「わからぬ。とにかく火を消せ!!」
別の家臣が息を切らしながら、
「報告!別棟からも火が上がっております」
「別棟だと?」
「はい!」
光秀は周囲を見回した。
本能寺には、まだ明智軍の半分ほどしか到着していない。
残る兵たちは、外で状況も分からぬまま、後続の隊列を整えている。
中は火。
姿の見えない何者かが、
そして、寝所には御館様がいる。
低い声で命じる。
「門を固めろ」
「はっ!」
「承知!」
「水を運べ!御館様の寝所へ火を近づけるな!」
「それから、曲者を探せ。火をつけた者が、この騒ぎに紛れているはずだ」
「やはり敵襲でございますか?」
家臣のつぶやきが聞こえたとき、煙の向こうで、何かが動いた。
人影!
瞬時に刀の鍔に手をかけ、
「何者だ」
影は、煙の中へ消えたが、代わるように煙の向こうから御館様が姿を現した。
白い着物の上に衣を重ね、刀を手にしている。
森蘭丸と近習たちも刀や鉄砲を持ち、その周囲を囲んでいた。
「御館様、危険でございます!奥へお戻りを!」
御館様は燃え広がる炎を見つめた。
「明智、状況は?」
「火の回りが早すぎます。それ以外は、まだ不明でございます。
曲者の姿も確認できておりませぬ」
「そうか」
家臣が「殿!」と言いながら駆け寄ってくるのと同時に、
蘭丸が一歩前へ出て警戒をしている。
「申し上げます!我が軍の多くが門外に到着しております!後続も続々と参ります!ご指示を!」
光秀は信長へ向き直った。
「御館様、我が軍が到着しております。開門のお許しを頂きたく申し上げます」
「御館様、お待ちくださいませ。私は昨日の御館様と明智殿のご会談、承知しております。
明智殿が兵を呼ぶことを御館様が許可をされていることも、されど――」
森蘭丸がこの状況をみろと言わんばかりに、
「この火の手が上がった直後に、門を開けるのは危険にございます」
近習たちは、御館様を守るように、立ち位置は明確だが、誰も刀を抜いてはいない。
しかし、全員の手は柄にかかっている。
一瞬疑われていると思うが、違う。
「森よ、分かっている。だからこそ、外にいる我が兵を入れたい。
この火のまわりは意図的だと判断せざるを得ないが、火を消すにも、曲者を探すにも、人手が要る」
「だからこそです。外の兵が、すべて味方だと?」
「御館様のお許しを得て呼んだ、我が兵だ」
「それは存じておりますが、あえて言います。すべて味方だと?
火が上がった今この瞬間、誰を入れるかは別の話にございます」
炎がさらに燃え広がり、煙が庭へ流れてくる。
もう一度判断を仰ぐべく、御館様に頭を下げる。
森が警戒していることは理解できるが、
「御館様。開門の許しを」
「開けよ」
「御館様!!」
「火を消さねばならぬ」
蘭丸はすぐに俺へ向き直り、
「明智殿。急ぎ、兵に符丁を伝えてください」
「符丁?」
「以前、安土で使ったものを」
「あれか!」
「敵に聞かれても、すぐには分かりますまい」
「あい、分かった!御館様、御前失礼いたします」
「いいか、兵には必ず安土の符丁のことを伝えよ!
秀満!利三はおらぬか!二人にも伝えろ!
安土で使った符丁だ!忘れるな!」
「はっ!」
「味方を斬るな!顔がわからぬ者には、必ず符丁を確認させろ!」
「承知!」
「急げ!」
「延焼を防げ!火を消せ!」
「厳命だ!安土で使った符丁を使え!!」
「門番に伝えろ!符丁を知らぬ者はいれるな!」
待機していた明智兵たちが、次々と本能寺へ駆け込んでいく。
本能寺にいる織田方は少ないとはいえ、戦える者が多く御館様の側近である。
一方、我が軍は全員が顔を知っているなどありえぬ。
だからこそ、符丁で味方を見分けるが、すべてを拾い上げることなど叶わぬ。
伝達から漏れる者、符丁を思い出せぬ者がいたとしても、それはもう仕方がない。
その時は賊として切る。
御館様を守るためならば、目の前にいる者を確実に見極めねば
「火を消せ!曲者を探せ!
御館様の御前へ、許しなく近づくな!近づく者は切れ!」
昨夜までなら、ただの出立前の集結だったのが、今は違う。
火の手が上がった瞬間から、本能寺にいる者は、互いの動きを警戒していた。
織田信長・明智光秀・森蘭丸・明智軍・小姓や家臣たち。
誰が味方で、誰が敵なのかは、誰にも分からず、
誰もが判断を誤らぬまま、四つ目の歯車の歯が欠け、全てが壊れた。
史料や後世の記録、通説では、総大将である明智光秀自身が本能寺の現場に赴いたと伝えられている。
『信長公記』や明智軍の本城惣右衛門の『覚書』などから、
光秀とその軍勢が本能寺の現場で指揮・戦闘に関わったことが語られてきた。
長年の歴史家の一部でも攻撃軍の総指揮官として見れば不自然にも見えるという見解もある。
IFでは、光秀が信長に一人で会いに訪問後、軍勢への京への立ち入り許可を貰い、本能寺にそのままいたなら、その位置は自然に説明できる。
総大将が前線にいたからこそ、護衛と襲撃の境目に巻き込まれたのであって、
総大将が前線にいたから謀反の主犯とはならない。




