社畜、京へ。行先が変わっただけ
本能寺の別室に小姓たちが茶を運びながら、
「御館様より、間もなく夕餉のお召しがございます。
それまでゆるりと、重きものをお脱ぎになりお待ちくださいませ」
小姓たちが下がっていくと、秀満が待ってましたとばかりに寄ってきた。
「父上! 夕餉ですよ、夕餉! あの御館様のお振る舞いです!」
「聞き間違いではないぞ、秀満。あの美食家の御館様のご膳だ、美味くないはずがない!」
そう言いながら、
新調の陣羽織、兜、袖と籠手を外した後、腕を軽く伸ばす。
胴だけは残し、胸元の紐を少し緩めると、ようやく息がつける。
秀満を見ると脱いだ兜を拭きながら、ニマニマと口元を歪めていた。
「何だぁ、その顔は」
返事の代わりに、一瞬だけ口元が引き締まる秀満の口元がまたすぐに歪む。
それが妙に可笑しくて、つられて笑いが出る。
「ふふっ、利三は、間違いなく口を極めて怒っておるな。
だが、わしも本当に通るとは思っておらんかったのだ」
横で具足を整えていた家臣は、
「殿、本当に問題はございませんか?」
「大丈夫だ。先ほど言っただろう。今日の21時に出立する為、準備は出来ておる。行先が京に変更になっただけだ、しかも二十キロの寄り道だ。この遅れは行軍の誤差の範囲。
それより……おい秀満、刀を預かっておけ」
「はっ」
腰の刀を外し、まだ見ぬご馳走に思いを馳せながら、他愛のない話をしていると、
襖の向こうから声がかかった。
「明智光秀公、夕餉をお持ちいたしました」
「おお、ありがたい。入れ」
返事をすると、襖が開き、小姓たちが膳を運び入れてきた。
廊下の向こうからは話し声が聞こえ、ときおり笑い声も混じっている。
茶会はまだ続いているようで、ずいぶんと楽しげな様子だ。
なんとなく、茶会から酒宴へと移ったのだろうと思いつつ、次々と並べられていく膳を眺めているうちに、思わず頬が緩む。
京の初夏を彩る料理に、見たこともない艶やかな色味の料理に、さすがは御館様の膳だと感心した。
「これはまた、随分と豪勢ですな」
「父上、早ういただきましょう」
「そう急くな。せっかくの料理だ、皆もゆっくり味わえばよい。では、いただこう」
「はい!」
待ちきれぬ様子で膳を覗き込んでいた秀満や家臣たちは、嬉しそうに箸を取った。
こうして夕餉まで用意してもらえるとは、嬉しさが止まらない。
「美味いの〜」
「はい!父上、利三さんに怒られる材料を増やしてしまいましたね」
「今は利三の顔は思い出したくないぞ」
「確かにそうですね。あはは」
☆☆☆
日も暮れ、夜の帳が落ちようとしている亀山では、
兵たちが順調に出立しているなか、約一名だけは別の心配をしていた。
(殿の帰りが遅い……何かあったのか?本能寺に誰か飛ばすか?)
「利三様、伝令馬がこちらに向かっております」
「なに?!まさか、殿に何かあったのか?!」
何事が起きたのかと気を揉んでいると、足音が近づいてくる。
「伝令!伝令!明朝までに兵を本能寺へ!」
「……は?」
「…………今、なんと?」
「御館様よりお言葉を頂くため、明朝までに明智軍を本能寺へ!」
「…………」
斎藤利三、停止。
「えっ?あっ?怪我とかではなく?あっ、まさか、朝の話が……真になったのか?
あっ……ま、まずい、これ以上、亀山から兵を出すな!待て、先発隊はどこだ?」
「先発隊は十七時にはすでに出ており、現在も順次出ております」
「知っておるわ!!まず、止めろ!まず、亀山から出すな!」
「はっ!」
「確認しろ、先発隊へ伝令を飛ばせ!あぁー違う、待て待て待て、違う!このアホな話を伝令できる者は、誰だ!?
頼む、誰か俺を助けろ!
俺は総大将じゃない!とのぉぉぉぉぉ!!」
「利三様、老ノ坂までなら、そのまま京へ流せます!だが、それより先へ出ている者はどういた……」
「戻すに決まっているだろうがぁぁぁ!御館様からのお言葉だぞ!
半分なら、今残っている兵だけでいいが、お言葉を貰えなかった兵はどうする!不満に繋がらないか?」
「いや、しかし今から全軍はいささか厳しいかと……」
「わかっておる!あっ、そうか!殿は、殿は何と言っておった?半軍などの指示は?人数の指示は?」
そっと目を逸らす伝令の仕草さえ、イラッとしながらも、
「それがしが殿より命を受けたのは、『明朝までに兵をこちらへ寄越せ、御館様がお声をかけてくださる!』だけでございます!」
「あっ、終わった……」
「利三様!お気を確かに」
二十時ごろ、亀山から約五キロ地点、老ノ坂付近を歩く隊の中にいた本城惣右衛門の耳へ、
「京へ」という言葉が届く。
「京へ?」
兵から兵へ、言葉が渡っていく。
「なんかあったんかな」
本城にも、それが何を意味するのかまでは分からない。
ただ、羽柴秀吉公の援軍として亀山を出たが、変わったのは、行き先だけだ。
羽柴様の援軍として向かうはずだったものが、京へ向かうことになった。
「まぁ、命令なら、行くしかないか」
この瞬間、三つ目の歯車が欠けた。
本来なら五時間ほどで着く道のりも、夜の行軍の遅さがある。
先行を任された部隊ほど、道を確かめながら慎重に進むしかなかった。
先行部隊が本能寺へ到着したのは、夜中の二時から三時頃。
山道ではない京の夜中ゆえ、明智軍は無駄口を叩かず静かに京入り、
本能寺では大門を開けさせることもなく寺の脇にある小さな勝手口から、静かに中へ入る。
「明智軍、到着」
門の脇に控えていた者は、明智軍に小声で、
「先着、何名ほどだ」
「まずは三百ほど。後続もすぐ参ります」
「声を立てるな。御館様はお休みだ、あとは周りに配置し、夜中だ静かに待て」
「承知」
伝言は、次の者へ渡された。
「到着致しました。約三百」
「後続、続々到着」
「確認。声や音を立てるな、御館様はお休みだ」
門をくぐった一部の兵たちは、庭の隅や建物の陰へ静かに散っていく。
槍を立て、馬を引き、後から来る部隊のために場所を空ける。
本能寺の周囲にも兵が散り、四方で静かに待機していた。
やがて、本能寺の中では朝餉の支度がひそやかに始まり、
釜から湯気が立ち、近習たちが水を運びながら、朝の時間が始まる。
庭の白石にも、ほんのりと朝の薄明かりで見え始めるころ、
「後続はどのあたりだ?」
「まだ半分ほどかと」
「急がせすぎるな。隊列を崩すなよ」
「はっ」
報告を聴きながら、俺は本能寺の奥へ目を向けた。
もう少し揃い、朝餉が始まる前に御館様にお目通りを願おうかなど考えていたら、
本能寺の1ヶ所から白い煙が上がるのが見えた。
直後、何かが弾ける音と共に建物から赤い火の手が上がった。
「何だ……?」
ざわつきが波紋のように広がるなか、またもや弾ける音がした。
騒然となり明智軍が、いっせいに立ち上がる。
「火事か!」
「どこだ!」
「奥だ!奥から火が出ている!」
「何事だ?」
「水だ!火を消せ」
「味方を入れろ、急がせろ!」
「門を、閉めろ!」
(あの弾ける音はなんだったのだ?発破?まさかな、多分何か事故であろう)
「落ち着け!火を消すことを考えろ」
「はっ!」
「曲者の姿はあったのか?」
「不明でございます」
「門を固めろ!火を消せ!建物の周りを見ろ!味方同士で声をかけ合え!」
念のためそのまま本能寺の奥へ走り、御館様の寝所へ向かうと
廊の前には信長の近習たちが控えていた。
その中に、森蘭丸の姿を見つけた。
蘭丸は俺を見るなり、鍔に手をかけたが、
「明智殿」
「御館様は?」
「お休み中です」
「御館様!」
「騒がしいな」
「火の手が上がっております。御無事ですか」
「問題ない」
その言葉を聞き、御館様はご無事でよかった。
「御館様は、皆様でお守りください」
「承知」
「私は外を収めてまいります」
「相分かり申した」
寝所を背にして駆け出し、広場へ向かいながら、
「利三!秀満!誰かおるか!利三、秀満!」
「父上!」
「火を消せ!御館様のもとへは、許しなく近づくな、皆に徹底させろ!」
「はっ!」
明智軍は状況も分からぬまま、外と内へ散っていく。
明智光秀にとっては、長い夜の始まりであり、後世に伝わる本能寺の変の始まりであった。
史料において、現在有力なのは、明智軍一万三千が丹波亀山城を出発したのは、
六月一日・夜九時(二十一時)である。
そして翌六月二日の未明(4時~)本能寺に到着し、あの「変」が起こったとされている。
後世の歴史家たちは首をかしげ続けた。
「なぜ、一万三千もの大軍が、誰一人裏切ることもなく、誰一人『謀反だ』と騒ぐこともなく、
深夜の行軍を整然と行えたのか?」
IFでの答えは極めてシンプル、「社畜心理」である。
また史料からの逆算で、六月一日、朝十時
光秀、亀山城を出発。「軍装自慢&お言葉をもらう」という平和な目的で本能寺へ。
丹波亀山から本能寺までは約二十キロ。
重さ二十キロを超える自慢の甲冑を傷つけぬよう、
馬にて片道四時間弱の移動は計算上では無理ではない。
十四時
光秀、本能寺に到着。
「明朝、兵を連れてこい」
十五時過ぎ
光秀、早馬を飛ばす
十八時。
早馬、亀山着。
早馬の速度計算の結果、約二時間である。
ただし夕暮れから夜に入るため若干の誤差はあるが、
時間の流れは大まかに上記の通りで、史料等よりIF移動した際のシミュレーションを記載しました。




