最後の采配
天正十年六月三日、明け方。
毛利輝元の陣に、一通の書状が届いた。
使者が差し出した書状を開いた俺は、思わず息を呑んだ。
『羽柴と、よく戦うておる。
毛利、お前は何のために兵を出したのか考えろ。
考えるならば、好きにせよ。
考えぬならば、兵を減らすな。
毛利輝元へ織田信長より』
「なんだこれは?」
命令でも降伏勧告でもない。
文面は短いのに、この目の前にいるような圧を感じる理由が、
墨ではない――血の花押
信長公が血で花押を記す?
しかもこの何とも意味不明な書状に?
俺はしばらく書状を見つめていたが、
「……小早川を呼べ」
「はっ!」
近習が短い返事の後、駆けて行くのを感じながら、
再度書状に視線を落とす。
ただの悪ふざけでは片づけられぬ何かがある。
やがて、陣幕の外から足音が近づき、小早川隆景が本陣に姿を現した。
「殿、お呼びにございますか」
俺は何も言わず、書状を差し出した。
小早川は黙って読み始め、
「これは……」
読み終えたが、すぐには口を開かなかった。
(そうなるよな)
信長公が何を見ているのか、何を言いたいのか全く読めない書状。
「殿、これはこちらへの揺さぶりでしょうか?」
「血で花押を記してまでか?」
「兵の損失を抑えるためとか……ですか?」
「織田からしたらここで何万死のうが関係ない。
昨日までは、羽柴側には援軍が来るという話まで届いていたのだぞ」
俺は血の花押をじっと見つめた。
「本当に……嫌な男だ。何かがあるなら必ず羽柴側から場が設けられるだろうが……」
「話し合いの場ですか」
「あぁそうだ。この数刻でそれが実現したなら、場合によっては……」
「小早川よ、吉川にも伝えておけ。命があるまで絶対に動くなと」
「かしこまりました」
俺はそれだけ言って、書状を畳んだ。
何かが起きる確信はある。
だが――
***
羽柴秀吉の陣に、一通の書状が届いた。
差出人は、織田信長。
御館様からかと何気なく封を切る。
「羽柴。
お前のところに、明智光秀を送れなくなった。
あとは楽しめ 織田信長」
「……?明智殿を……送れなくなった?」
亀山にいる明智の兵は、俺への援軍としてこちらへ来る事は知っている。
ならば、話は単純だ。
「何かあったのか?」
俺は書状をもう一度見る。
角度をつけても匂いを嗅いでも変化はない。
御館様がわざわざ知らせてきたということは、何か事情があるのだろうが、文面にはそれ以上何も書かれていない。
「ふむ……まあ、御館様にも都合というものがあるか」
しかし、遅れて続報が飛び込んでくる。
「殿!」
「なんだ?毛利が動いたか?」
「京より急使です!」
「京?また?しかも京とは?」
「申し上げます!!本能寺にて御館様が、明智の軍勢に襲われましてございます!」
「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。
本能寺。
御館様。
明智。
急使の口から、次々と報が告げられていく。
自分の思考が止まるなどめったにないにのに言葉だけがすり抜けていく
「殿!」
「あっ、御館様は無事か?!」
「申し訳ございません。某にはわかりかねます」
机の上には、先ほどの書状がある。
『お前のところに、明智光秀を送れなくなった』
俺は書状を手に取り、もう一度その文面を追った。
さっきまでは、ただの予定変更だと思っていた。
本能寺で異変が起きた。
御館様が襲われた。
そして、こちらに来るはずの明智光秀が未だに京にいる。
「明智殿が裏切った?いやいや、違う違う。
そんな不穏なやつの傍で御館様が援軍を出す準備などさせぬ。
あの御館様だぞ?
しかもそれが本当なら明智謀反と書く!
文面に囚われるな。考えろ、考えろ」
『あとは楽しめ』
「あぁぁぁ、なるほど。御館様はまたこの私に無茶ぶりを?!」
私が楽しんでいいなら楽しませてもらいますよ。あははは、えぇえぇ、御館様の無茶ぶりには慣れております。愉快だ。
「毛利との講和を急げ!今から直ぐにだ!席を用意しろ!」
「はっ!」
「同時に兵をまとめろ、戦ではない帰還のだ!」
御館様は何も書いていない。
明智が謀反したとも、本能寺が危ないとも。
助けに来いとも、何一つ、だが、
「こんな所でモタモタしてられん」
俺は、御館様の書状を大事に懐に仕舞い込んだ。もう、毛利などに構ってる暇はない。
***
天正十年六月四日 未明
「羽柴殿」
「何でしょうか、毛利殿」
「どうやら、京で何かあったようですな。
もし、早くお帰りになりたいのであれば……さっさと軍を引かれればよい」
秀吉は、わずかに目を細めたが、すぐに笑う。
「京?さて……何のことでございましょうな」
「ほう?」
「私はただ、清水殿お一人を救う為に、これ以上多くの人命を失うのは如何なものかと思っておりまして」
「……」
「何しろ――」秀吉は、そこで一度言葉を切った。
「我が主、織田信長ほどの御方ならばともかく、清水殿お一人のために、これほど多くの兵を死なせるのは、少々勿体ないでしょう」
毛利の表情が、ほんのわずかに動いた。
秀吉は見逃さない……やはり毛利側にも御館様の何らかの情報が届いてるが、まだ確信はない。
「羽柴殿、確かに織田信長公と同列とは行きませんが、清水も我が毛利にとって得難い人材」
「ええ。惜しいでしょうな、わかりますよ」
秀吉は、微笑みながら、
「命というものは、一度失えば戻りませぬ。
ただし、そう言うなら無闇矢鱈と兵に血を流させるのもいかがでしょうか。
兵なら良いと言うものでもないでしょう?」
「なるほど」
「ですから、毛利殿が清水殿を差し出してくださるのであれば、私も無用な戦は避けたい」
「では、羽柴殿はお帰りになられる?」
「さて、私はまだ、帰るとは申しておりませんよ」
「……」
「ただ、戦う理由がなくなるのであれば、兵を死なせる理由も、なくなるでしょうな」
「……」
「……」
互いに、相手の言葉の裏を探っていた。
京で何が起きたのか。
相手は知っているのか。
どこまで知っているのか。
秀吉は笑ったまま。
毛利も笑ったまま。
「毛利殿、一刻だけ、お時間をお渡しします」
「一刻?」
「ええ。一刻です」
秀吉は笑みを浮かべたまま、毛利の目を見る。
「清水殿と、お話しください」
「……」
「その答えによっては、講和より、血での決着でも構いません」
秀吉は、そこで初めて笑みを消した。
空気が張り詰める。
「少々、こちらも悠長に構えてはいられない事情がございましてな」
「京のことですかな?」
「さて。何のことでしょう」
秀吉はさらりと返した。
「ただ、一刻です」
「……」
「それ以上は、お待ちできません」
***
天正十年六月四日 朝
清水は、差し出された文を見つめていた。
織田信長の花押が墨ではない。血。
乾いた血で記されていた。
「……これは」
清水は、思考が纏まらない。
殿が来てくださったが、言葉もなく渡された、この文。
「清水よ、羽柴の方の動きが撤退の準備に入ってるようにも見えるが」
「……そ、それは」
ごくりと喉が鳴るが、そのとき、外から声が響いた。
「申し上げます!」
駆け込んできた兵が、息を整える間もなく頭を下げる。
「織田信長公が……本能寺にて、お討たれになったとのことです!」
「……えっ?」
声が漏れ、静かになった。
2人はすぐには言葉を続けられない。
あの、織田信長が死んだ。
「その話は真か?敵の戯れ言では?」
「京は現在混乱中ではございますが、織田信長公の首級に関して不明なれど、お討たれになったのは真でございます」
そのあまりにも唐突な事実だけが、部屋の中に重く残った。
毛利も清水も、しばらく血の花押を見つめていた。
「この事を伝えていたのか。時節が変わる」
毛利の呟きを黙って聞いていた清水は、
「殿」
「なんだ」
「私で良ければお使いください」
毛利は清水を見たまましばらく、何も言わなかった。いや、言えなかった。
「無駄にはせぬ」
「はい。これで私の首も、無駄ではございません」
「どんな事があっても無駄にはせぬ。すまぬ」
伝う涙を拭うこともせず、ただひたすら清水を見て静かに頭を下げた。
清水は、静かに部屋を出ていった。
四日午前、清水宗治切腹。
講和成立・秀吉撤退開始。
***
「先輩泣かせないでください!可哀想!清水さん!可哀想!
なんで先輩はさっきから殺すの?!
もぅ、IFなら藁でいいですよね?!こっそり逃がすとか!!」
「こ、後輩、落ち着け!」
「先輩、この毛利なら、先輩の嫌いなトロッコ毛利ではないですよね?
清水さんの死が無駄にならない」
僕はハンカチで涙を拭きながら言った。
「あぁ、まぁーな」
「ですよね!じゃないと……清水さんがぁぁ」
「戦国だしな。清水には辛いだろうが……
毛利っていう大きな山を守るためなら、まぁ、武士ってやつはそういうもんだろ?」
「……」
「それに、清水だって分かってて残ったんだ。誰かに押しつけられたわけじゃねぇと思いたい」
「はい」
「だから、これは『万の兵を助けるために一人を突き落としました』って話じゃねぇよ」
「トロッコ問題にするな、と」
「そういうこと」
「先輩、トロッコ嫌いすぎません?」
「うるせぇ、あの思考問題嫌いなんだよ」
「何が好きなんですか?」
「テセウスの船とかかな?」
「ふーん」
「ふーんってなら何故聞いた」
「何となく?でもこれで全部が綺麗に繋がりましたね!」
「大方な。かなり綺麗なIF物語だろ〜俺の地動説(冤罪)」
「ですよね、なんか誰も謀反を起こそうとしてない。ただ織田信長っていう太陽の存在が大きすぎた。んー明智光秀さん単純に巻き込まれた……めっちゃ可哀想!ずっと冤罪なんて」
先輩は少し笑った。
「まぁー少しでもまさかって思ってくれるきっかけにでもなってくれたら嬉しいけどな。
謎が多いなら謀反という色眼鏡を外して人の行動を考え、合理的に考えたらこうなるんだよ」
「先輩が単純にひねくれた人なのかも?」
「なんでだよ(笑)面白いだろ?」
「歴史を疑え!僕の名言です」
「……?」
「先輩?」
「それ多分普通にありふれてるぞ?」
「もうパクられていたのか」
「さてと……お前そろそろ終わるか?残業」
「もう少しです……と、言うより!先輩、最後黒幕は誰なんですか?僕、黒幕気になります」
「俺が考えてる黒幕は、状況からしてこいつしかいないんだよな――」




