死の主導権
六月二日 午前六時前後
一頭の馬が騒がしい本能寺をひっそりと出立し、ひたすら東へ走っていた。
空はすでに明るく視界は良好。
しかし馬上にいる男は、白小袖の上に羽織を着込み、さらに外套を重ね家紋は隠し、脇腹には鉄砲傷。
出血も続いている。
「……ふん」
男は手綱を握り直し、遥か後ろで燃えている本能寺には既に興味なく、考えるのは何者が火を放ち、何者かが兵を動かした。
考えなければならないことは多いものの、時々思考が止まりかけるが、馬を止める理由はない。
とりあえずあと少し、瀬田まで行けばいい。
やがて、前方に橋が見えた。
速度を緩めず、そのまま橋を渡る。
渡り切りそれでも馬を進めると瀬田城があり、門が見えた。
そこで初めて、手綱を握る指から力が抜けた。
馬はゆっくりと足を止めた、落ちることすら許さぬように、鞍へ身体を預けているが、そこで身体が大きく傾いた。
「――誰だ!」
門番が駆け寄る。
馬上から崩れかけた男を支えようと手を伸ばしたところで、外套がずれその下から覗いた羽織に、織田家の家紋が見えた。
白い着物は絹で上質であるが、多くの血を含んでおり、
門番の顔から血の気が引いた。
「……な……だ、誰だ」
「……山岡を、呼べ」
端的な言葉と君主を呼び捨てする男。
しかし、なぜか逆らえない気配に圧倒されていると、男は再び目を閉じ、手綱を握っていた手が力なく滑り落ちる。
「と、と、とりあえず、殿に話を」
門内が一気に騒がしくなった。
*
山岡景隆は、穏やかな朝の静けさを満喫していたが、
鳥の声に混じり、遠くから人の声が聞こえてくる。
穏やかだった朝の静けさが、次第にざわめきへと変わっていった。
「外が騒がしいが何事だ?」
家臣から報告があがる。
「殿、門前に血だらけの男が!織田家の家紋を身に着けております!」
「何?織田家の家紋?」
「馬から落ちかけておりました。今、小姓たちが庭へ運んでおります!」
答えを聞くより先に、庭へ向かった。
そこには、血にまみれた男が横たわっている。
駆け寄った瞬間、その顔が目に入った。
「御館様!」
「耳元で騒ぐな」
「御館様、何があったのです!」
「騒ぐなと言っておる。誰の絵図だ……明智は……どうなった」
「明智?御館様、何が――」
「……」
ぐっしょりと濡れている着物に無数の傷跡。
共廻りが一人もいない状態。
御館様の青白い顔を見て、思わず、
「御館様!死なないでください」
「……まだ、死んではおらん」
「はい!」
「だから……」
「申し訳ございません。急ぎ御館様を奥へ。医者を呼べ。信頼できる者だけを集めろ。
それ以外には誰にも何も知らせるな。急げ!」
「はっ!」
家臣たちが一斉に動き出した。
*
日が高くなり暖かい日が差し込む頃には、医者が呼ばれ、傷を確認する。
医者は、何度も眉をひそめながら脇腹を調べ、出血を抑える処置を続けた。
「御館様は、鉄砲傷が深うございます。出血も多く、かなり危うい状態です」
「助かるか?」
「手を尽くします。ただ、傷そのものだけではなく、
これほどの出血をして長時間馬を走らせたことが……」
「助けろ!御館様だぞ?何が京で起こっている。とりあえず助けろ」
「はっ」
医者は応急用の薬を調え、傷の処置を続けた。その後必要になる薬を調合すると言い部屋を出ていたった。
その間にも御館様が意識を失っている時間が増えていく。
顔色が戻らない。
それでも完全に途切れることはなく、ときおり目を開けては、誰かを確認するように視線を動かしていた。
「蘭丸……らん……山岡」
「ここにおります」
「本能寺は」
「燃えております」
「そうか」
「明智は?」
「まだ、何も分かっておりませぬ」
「明智は助からん。謀反など起こしておらぬ」
「……はい」
「だが利用はされる」
「はい」
俺は一言一句聞き漏らさぬように、全神経を耳に集めた。
「……俺は利用される気はない!」
「御館様!」
「俺の死を、誰にも渡すな。誰にも確かなものとさせるな」
「御館様、死ぬなど!御館様、あと少しで天下泰平の世です。御館様が天下人でございます」
「山岡……」
「はい!」
「戯れ言は後にしろ、いいか俺は利用されん」
「はい、すいません」
「殺せ。俺がここにいることを知ってるものを全員殺れ」
「御館様……」
それだけ言うと御館様はまた眠りについた。
*
御館様の言葉がグルグル回る。
言いたい事がわかるが、全員?
俺はどうしたらいいのだ?今御館様が死んだとなったら、またか、また戦乱の世が始まるのか?
やっとやっと天下泰平の入口が見えてるこの時に?
何故?誰だ!こんな時勢を読めぬ阿呆は!
あぁー俺はどうしたらいいんだ!
「景隆様」廊下から声がかかる。
「なんだ?」
「御館様に合わせた薬を調合して参りました」
「あぁ、頼む」
しばらくすると、
「景隆様、かなり危険な状態でございます。もう長くは――」
「薬は?これ以上何も出来ぬのか?」
「痛みを抑えるものを調えておりますが、血が流れ過ぎております」
「そうか、なら眠りをいざなうものは有るか?」
「はい、ございますが?何方に?」
「俺だよ」
「かしこまりました。調合をして参り……」
「いや、ここで出来ぬか?」
医者が不思議そうに俺を見る。
「少し、色々と考えたいが……今、一人だとなんと言うか……前に調合を見たことがあるがその時不思議な感じがしたのでな」
「かしこまりました」
医者は薬種をいくつか取り出し、ひとつずつ並べ始めた。小姓は邪魔にならないように、作業の補助をしていた。
俺は、それを黙って見つめる
薬種を量り、器へ入れる。
すり合わせるように混ぜ、別のものを加える。
同じ動作を何度も何度も繰り返す。
ただ、それを見ていた。
何を考えるでもなく、ただ医者の手元を追っていくと頭の中にあったものが、少しずつ整理されていく。
御館様。
死。
利用
乱世
誰が味方で誰が敵か
そして、これから起こること。
一つずつ、頭の中に浮かんでは消えていく。
医者は何も言わず、ただ薬を調えている。
俺も何も言わず、それを見ていた。
やがて、薬が出来上がる。
「こちらでございます」
「見事だ」
「ありがとうございます」
「今回の調合や、御館様のことを知っている者は?」
「私と、そこの小姓にございます」
「そうか、この眠りをいざなうのは強いか?」
「はい」
「量は?俺もしばらくは眠れなくなるだろうからな」
「大丈夫でございます。10包ほど、必要になればまた調合致します」
次の瞬間、医者が何かを言うより先に、刃が走る。
小姓が息を呑むが、続けざまもう一度、刃が走る。
部屋には静けさだけが残った。
鼻につく血の匂いに、不快感を感じながらも目を閉じ、ゆっくりと障子を閉める。
乱世の世にだけは戻さん、ならば御館様と言う太陽――いや、重りは必要だ。
廊下には家臣が頭を下げ待機していた。
「御館様のことを知る者を集めろ」
***
本能寺の火は、すでに京の町中に知れ渡っている。瀬田にも、次々と報告が入る。
「京、織田信忠様の生存確認不明」
「本能寺は焼け落ちました」
「明智軍が動いているようです」
山岡は黙って報告を聞いていた。
そこへ使者が来た。
「殿!」
「何だ」
「明智光秀公より御言葉にございます」
「申せ」
「人質出だし、明智と同心仕り候へとのことにございます」
(明智は、御館様がここにいることを知っているのか?
御館様の言葉は聞いた。明智はここで終ると。
明智軍が本能寺を囲んだと情報は入っているが、御館様は、『明智は謀反を起こしてない』と言い切った。
囲んだという情報ひとつにしても、既に第三者から見た言い分が入っている。
そして利用されると、もう既に利用されている?
御館様の命令は、存在を隠せ。例外はないなら明智へは知らせることは出来ない)
「……断る」
「しかし、明智光秀公は――」
「伝えろ。今は何も分からん。ちょっと待て、と」
「かしこまりました」
使者が去ろうとしたところで、俺は呼び止めた。
「待て」
「はっ」
「信長公御厚恩浅からず、忝きの間、中々同心申すまじき、と伝えろ」
「承知いたしました」
使者が去っていく
「明智、……察しろ。お前は瀬田に来た。なら判れ。そして我らの別れだ」
*
やがて、御館様のことを知る門番や家臣たちが一室に集められた。
何のために呼ばれたのか分からぬのだろう、皆、落ち着かない様子で互いの顔を小さく見ている。
しばしその様子を眺め、口を開いた。
「皆、今日はご苦労であった」
「はっ!」
「だが、まだやることは多くあるが、このことは多くの家臣には話せん。それは何となく分かるであろう?」
「はい」
「そこでだ。お前たちには、そのまま動いてもらいたい」
「お任せください!」
威勢のいい返事に、口元を緩ませ、ならば、と傍らに置いてあった酒を取り、皆の前に差し出す。
「よし、ならまずは一杯だ。話はそれからだ」
「ありがとうございます!」
俺自ら一人ずつに酒を注いでやると、滅多にないことに皆の緊張は解けぬまでも、どこか嬉しそうな顔を見せた。
御館様のことを知る者たちだけを集めたのだ。そこには、いつもとは違う奇妙な連帯感も生まれていた。
こうして酒を酌み交わし――
一人が、ふらりと身体を揺らした。
声を掛けるより早く、その身体が崩れ落ちる。
「おい……?」
何が起きたのか分からぬまま、別の男も盃を手にしたまま膝をついた。
言葉が続かなかった。
つい先ほどまで笑っていた男たちの顔から、次々と力が抜けていく。
盃だけが、音もなく畳の上に転がった。
静寂が落ちるなか、止めを刺していく。
「天下の織田信長と一緒だ。一緒に焼かれるんだ。悪くはないだろう……いや、言い訳か。何を言っても言い訳だな」
「すまぬ」
***
昼すぎ、御館様の浅い息はか細くなるばかりで、もう目を開けることはほとんどなかった。
御館様のそばに居ると、かすかな声が聞こえた。
「……山岡」
「はい」
「そろそろ終わる」
「御館様?」
「起こせ」
「無理でございます。起こすなど」
だが、死に人同然なのに、にらみつけられた目に逆らうことなどできず、
脇の下から手を入れ柱を支えに御館様を座らせた。
「山岡、俺の死を……不明にしろ」
「御館様、ご安心ください。命は守ります」
「俺は誰の道具にもならん。いいか隠せ。徹底的にだ。この俺の死を、この俺を誰にも利用させるな」
「はい」
「誰であろうがだ、朝廷だろうが羽柴だろうが織田の誰であろうが、許さん。たとえお前でもだ。いいな、例外は無い」
「はい御館様、山岡しかと命を受け遂行致します」
「あぁ、それでいい」
「山岡……」
「はい」
「楽しめ」
「え?」
「潮目が変わる……楽しめ」
「御館様……?」
御館様の身体から、ゆっくりと力が抜け落ち、
その後、二度と返事が返ってくることはなかった。
俺はしばらく動かなかった。いや動きたくなかった。
やがて、静かに頭を下げると、冷たい物が目から落ち、
「しょ、しょ……承知、い、いたしました!」
御館様のお言葉必ずやお守りします。
でも、今は、今だけは許してください。
徹底的に隠すなら、俺が情報源になってはダメなのは知っています。
御館様!
御館様!
御館様!
ただただ、涙が畳に染み込んでいく中で、
遠くで、鐘が聞こえた。
鐘の音が消えていくにつれて、少しずつ周囲の音が戻ってくる。
俺は何回も静かに息を吐き、深呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと動き、御館様の周りに念入りに油をまいていく。
***
瀬田城全体に、火をつける準備を終えた頃には、瀬田橋も燃え始めていた。
「火を放て」
「殿、本当にでございますか?」
「あぁ、城も橋も焼けとの命令が来たからな」
「いきなりでございますか?」
「俺も知らんよ」
「京が相当騒がしくなっております。確認をもう一度された方が」
その言葉に、ちらりと顔を見る。
こいつはダメだな。後から消そう。邪魔だ。
「命令に背いて怒られるより余程いいだろ?
火を放て!」
「はっ!」
やがて、瀬田城から火の手が上がった。
煙が空へ伸びていく。
燃え始めた城を見つめながら、これでいい。
御館様の死は、不明になる。
少なくとも、誰にも確かなことは分からない。
やがて、城を焼く炎が大きくなる。
「橋は」
「まもなく火が回り崩れ落ちるかと」
「よし」
橋を渡る者がいなくなったことを確認すると、家臣たちへ向き直り、
「行くぞ」
「殿、どちらへ?」
「甲賀へ向かう」
***
その背後で、瀬田の城と橋が、夕暮れの空を赤く染めていた。
そして、山岡景隆は家臣たちとともに山中へ、
時同じく、京から瀬田へ向かっていた明智光秀の目に、燃え上がる瀬田橋が映ることになる。
橋は、まだ完全には落ちていなかった。
だが、渡ることはできなかった。
天正十年六月二日 午後十六時




