20.厄日
「私は家庭のことを放りっぱなしにしてしまったんですね。詳しいお話は出来ないのですが、その後親権は私という条件で離婚しました」
そう言った駒崎の顔が妙にスッキリしていることに、むしろ美樹はぞっとした。何と声をかけたらいいのかは分からないが──
(きっとこれは駒崎さんからの忠告なんだわ)
同じ世代を生きるものからの忠告。そして、店長職から脱落するという現在の状況。
(今一度、自分を立て直せという天からのメッセージかもしれない)
美樹は普段スピリチュアル的なものを信じていないしうっすら馬鹿にしていたのだが、自分に困難が降りかかって来ると途端にそんなことを思ったりする。
「家庭……そう言えば息子も学校に行きたがらなくなってるんです」
「親の負担はもうひとりの親ではなく、子どもに行きますからね」
「本当に、そうですね……」
「変な話、閑職になった今なら育児を立て直せると思いますよ」
美樹は珍しく、じっと黙って考えた。
美樹が家に帰ると、武尊が何か言いたげにやって来た。
「聞いてくれよ~!今日、公園でさぁ……」
美樹はその甘ったれた声をぶった切る。
「私、店長を下ろされる」
「……えっ!?」
「降格よ」
武尊は言いたかった言葉を一旦全部引き上げた。
「うっそ……マジで?」
「そうよ。だから塾の話は、一旦ナシで」
「降格されたとして、今度は何になるんだよ?」
美樹はいらついて答えた。
「分からない。でも給料は減るでしょうね」
「うわー」
「しばらくは本社へ研修を受けに行くわ。完全な定時上がりになるから、悠斗は私がお迎えに行く」
「助かるよ」
美樹はカチンと来たが、もう吠える気力はなくなっていた。
「……ご飯は?」
「今日は時間があったから、豚の角煮を煮込んでるところ。悠斗も卵を剥くの手伝ってくれたんだ」
「……そう」
「まあ、美樹の減った給料は俺の昇進分で補填できるから」
「……そうね」
美樹は更に階段を上がって行く。
「悠斗」
美樹が扉をノックすると、悠斗が現れた。
「何?」
「この間の、塾の話だけど」
「うん」
「行かなくていい。私が迎えに行くから」
悠斗はじっと考えている。
「ああ、そう……でも、何で?」
「私の仕事時間がちょっと減らされることになったの。だから私が迎えに行ける」
「あのさあ……」
悠斗はため息をつくと、呆れたように言った。
「そういうのが嫌なんだよ。僕の時間はパパとママのものじゃない」
美樹はぐさりと胸を刺された気がした。
しかし、と美樹は思い直す。
(まだ悠斗はこちらと話し合おうとしている。心を閉ざされたら、それこそ不登校一直線だわ)
駒崎の言う通り、今が立て直しの最後のチャンスなのかもしれない。
美樹は言った。
「そうよね、ごめんなさい。悠斗、何かやりたいことない?ママしばらく暇になるから、土日も家にいられるわ。どっか遊びにでも行きましょうよ」
悠斗はしばらく考え、こう言った。
「僕、また友達と遊ぼうかな」
「あら。春流くんと?」
「ううん」
悠斗ははっきりとこう言った。
「田中陣と。今日、公園で会ったんだ」
美樹はぞっとした。あの子も不登校児ではないか。
「悠斗。陣君は学校に行ってないんだから、遊ぶのは……」
「えー?何で?陣はいいやつだよ」
「友達は選びなさい悠斗。陣君と遊んでたら、悠斗も学校行けなくなっちゃうじゃないの」
すると悠斗は目をすがめ、母を呆れた顔で見上げた。
「マジで言ってんの?それ」
扉がバタン、と閉められた。
「あれ?悠斗……」
「ご飯いらない」
「悠斗!」
「もー、あっち行ってよ」
美樹は動揺した。今日は厄日だ。階段を駆け下り、調理中の夫にとびつく。
「ちょっとちょっと、武尊!」
「わっ!何だよ急に……」
「悠斗がおかしくなっちゃった!今日、田中陣君と会ったんだって?」
「あ、ああ……」
「詳しく教えてよ。きっと、おかしな話を吹き込まれたに違いないわ!」
武尊は困惑気味に頭を掻くと、今日あった出来事を話し出した。
「……というわけで、陣君は結構不思議な家庭環境で暮らしてるみたいだな」
「確かに、ちょっと変わったご家庭ね」
しかしいざ話を聞いてみると、美樹の不安感は薄まって行った。
田中頼子は在宅ワークをしているから時間にルーズなのだ。息子は起きられないし、夫は目が見えない。そんな中働いているのだから、さぞかし忙しく暮らしていることだろう。
この世界を生きる人間は、みんな形は違えど等しく大変な生活を送っているのだ。
聞いてみないと分からないことは沢山ある。
「悠斗も、そういう友達を見て安心したってのはあると思うよ。俺も、ちょっと田中さん苦手だけど……常識が通じない気がして。でもそういう人を見て、悠斗が自分が許されるような感覚になるのも分かるんだ」
「分かるわ。多分、あの人たちは私たちと生きて来た場所が違うのよ。でも悠斗の目には、それが魅力的に映ったってことよね」
角煮の香りがリビングに充満して来ている。
香りにつられて、悠斗は案外すぐに階段を下りて来た。




