15.もうひとつの不登校
異変は、その次の日にやって来た。
朝になり、美樹が悠斗を起こそうとすると、悠斗は布団をホールドして離さない。
「悠斗、早く起きて。学校が始まるわよ」
悠斗は布団の下で亀のようにうずくまると、小さな声で言った。
「……行きたくない」
「はあ?」
「学校、行きたくない」
その瞬間、美樹は激高した。
「行きたくない、じゃないわよ!義務教育なんだから、行かなきゃダメッ!」
しかし、悠斗はうずくまったまま動かない。
美樹の怒鳴り声に反応して、武尊が階段を上がって来た。
「お~?朝からどうした?」
「パパ、聞いてよ!悠斗が学校に行きたくないなんて言うのよ!」
「んー?どっか悪いんじゃないのか。病院に連れて行けよ」
その瞬間、美樹は夫につかみかかった。
「ちょっとぉ。この間学級閉鎖になった時は私が有給使ったんだから、次はあなたが休んでこの子を病院へ連れて行きなさいよ!」
「えー?だから引継ぎが大変になるって話、しただろ?」
「いつも私に面倒を押し付けようとするのね。たまには有給使いなさいよ!あなた、いつも年度末に余らせてるじゃない!」
朝から口論が始まってしまった。
すると、布団からぽつりと声がする。
「……面倒?」
美樹はハッとした。
「違うのよ、悠斗。だってパパがね……」
「僕は〝面倒〟なんだ……」
武尊がどこか冷ややかな視線をこちらに投げかけて来る。
美樹は吐き出したい言葉を全部飲み込んで、悠斗に向き直った。
「そうよね、具合が悪い……そんな日もあるわよね」
「……」
「今日は学校お休みでいいわ。また体が治ったら、学校に行きましょうね」
「……」
美樹は息子の部屋の扉を閉めた。
(ま、こんな日もあるわよ。大人だって、会社に行きたくない日があるわけだし)
美樹は自分の心に言い聞かせた。
(ちょっと甘やかせば、また元気になるでしょ)
三階の悠斗の部屋から二階のリビングに戻って来ると、武尊が腹を立てたように言った。
「だめだろ。仮にも母親が、あんな風に言ったら」
美樹は数秒ほどしょげたが、次第に引っかかりを覚える。
「……えっ?私が悪いの?」
「そりゃそうだよ。息子は母親を一番信頼しているわけだから」
「???」
「その信頼を壊すようなことを本人の前で」
「ちょっと待てい!!」
美樹は肩で苦し気に息をした。
「あなただって、父親でしょうよ」
「まあそうだけど、やっぱり父親よりも母親が」
「はあああああああああああ!?」
美樹はどん!っと両手でテーブルを叩いた。
「あなただって、さっき悠斗の看病から逃げようとしたじゃない。父親だって母親と同じよ、息子から信頼されるように、ちっとは看病頑張んなさいよ」
「えー?でも俺は会社に行かないと……」
「こっちだって、毎日会社行かなきゃなんだわっ!」
「まあそうだけど母親は父親より」
「まだ言うかこの口はああああああああ!!」
武尊は様子のおかしくなった妻に引いている。
「何だよ、落ち着けよ」
「落ち着いた方が偉いみたいな空気出すのやめてもらっていい?」
「あーもう、会社の時間が」
「それはこっちだって、そうなの!で、それを前提に話を続けるけど……あなた、今、育児から逃げようとしているわよね?」
武尊は首を左右に振った。
「そんなわけない。だって悠斗を育てるためには俺が仕事を」
「ぎゃー!まだ言ってる!俺の仕事俺の仕事って、それで一生押し通せると思ってるの?私たち、お互いにまだ定年まで20年あるのよ?あと20年、そうやって自分だけお仕事をするおつもりですか?」
美樹は本当に怒りが沸点を越えると、敬語になる。長い結婚生活でそのことを知っている武尊は〝ヤバっ〟という顔をした。
「俺はそんなつもりじゃ……」
「私はあと20年も、あなたの仕事のために自分の仕事を投げ出し続けなきゃいけないの?私のキャリアって何なの?私はあんたのお世話係に生まれたわけじゃありませーん!第二のお財布になったわけじゃありませーん!」
「おいっ、美樹落ち着け……」
「お前が落ち着かせてみせろや!!」
こうなったらもはや手が付けられない。武尊は色んな損得勘定を量子コンピューター並のスピード感で計算し、ついに折れた。
「わ、分かった。今日は俺が休む。お前は会社に行ってこい」
美樹は手負いの獣のように唸っていたが、すんっとした顔に戻ってこう言った。
「分かればよろしい」
武尊は内心、ほっと息をついた。
(ヤバかった……美樹の怒りメーターが久々MAXに振り切ってた)
いつもそうなのだ。
(美樹の怒りスイッチがどこで入るか……十年も一緒に生活してるけど、未だに分かんないんだよなー)
武尊は一年に一度は美樹を猛獣に変える。が、彼は自分にも原因があるとは全く思っていなかった。
(今日は虫の居所が悪かったのかなー?)
武尊は〝情緒が落ち着いている〟ことを特技としているが、それは彼が相手の気持ちを〝まだ余裕があるだろう〟と思い込んで勝手に自分と同一視しているだけなのである。彼は自分と他者のは違う人間であるということが、40代になってもまだ理解出来ていないのだった。
美樹が急いで家を出て行き、武尊が息子に声をかける。
「おい、うるさいのがいなくなったぞ。今日は何する?」
悠斗はどこか父親を軽蔑の視線で見つめながら、のっそりと起き上がった。




