10.記憶に残らない日々
美樹は首を横に振った。
「うちはね、正社員の中途採用って今はしていないみたい」
それを聞いて玲はがっかりしたが、
「でも、パートさんから正社員になる道はあるわよ!」
と美樹が続ける。玲は追いすがった。
「そうなの?何年ぐらい働けば」
「だいたい2年以上」
「えっ!2年も……」
思ったよりも正社員の道は遠い。がっかりしている玲に、美樹はぴしゃりと言った。
「会社側は従業員のガッツを見てるわけ。短い時間だけ働いて楽したい人なんて、採用するわけないわ。がむしゃらな人だったら、やっぱり雇いたくなるわよ」
玲はその言葉に、胸の奥をぐさりと貫かれた。
のんびりやって来た今までの人生を否定されたような気がしたのだ。
(がむしゃらじゃなきゃ、生きられないの?)
心が弱っているせいで、全ての言葉を後ろ向きにとらえてしまう。玲は美樹の家に来て、どんどん気力を奪われて行くような気がした。
(私だって、私なりに頑張ったはずなのに……)
結婚相手を間違ったせいでこうなってしまったのだ。玲は自分の運命を呪った。
他方、目の前の美樹は、それこそエネルギーに溢れているように見受けられた。きっと今までがむしゃらに頑張って来たのだろう。その目には強い自信が宿っている。
「いいな、大城さんは」
思わず玲の口から本音が出た。
「私も、もっと頑張っていればよかった」
すると美樹はガハハと笑った。
「何言ってるの!人生まだまだ折り返し地点、これから頑張ればいいじゃない!」
玲の顔は引きつった。
こういったエネルギーに満ち溢れた人というのは、良くも悪くも相手の状態を推し量る能力に欠けているように思う。元気のない人にも「元気を出せ」と言って憚らないのだろう。
玲は段々具合が悪くなって来た。なぜだろう。美樹は人のパワーを吸い取って生きているような気がする。
玲はそれから、ちょっと気まずそうに黙ってしまった。
(多分、これ以上この人と会話をしたら、取り返しのつかないダメージが来る)
急に体がしんどくなる。直也の不倫以降、ずっと気を張っている生活が続いていた。その緊張感が、美樹の発するパワフルなエネルギーで綻びようとしている。
(あ、だめだ)
ぷつん、と玲の中の何かが切れた。
それ以降、玲の耳から美樹の声は全てシャットアウトされた。
夕方になった。
玲は元気な春流を連れ、とぼとぼとタワーマンションへ足を引きずって行く。
自宅に到着すると、どうと布団の上に倒れ込んだ。
(つらい)
もはや語彙力も失ってしまった。
玲は空っぽになったのだ。
(つたいつらいつらい)
夫の不貞、ままならぬ求職活動、輝いているママ友。
(つたいつらいつらいつらい)
まるで、今日をもって自分の価値がなくなってしまったようだ。
心配したのか、息子が寝室を覗きに来る。
「ママぁ、大丈夫?」
その呑気な様子に、玲はイラッとした。
「うるさいっ」
春流はビクッと身を震わせると、逃げるように扉を閉めてしまう。
玲は失神するように眠った。
そこから今日まで、全ての事象は朦朧としている。
スカイツリーで服を馬鹿買いしたのも、すみだ水族館へ行ったのも、目的などはなく、ただ現実を忘れたいだけだった。
あれから様々な正社員の面接へ足を運んだが、どこも不採用である。
玲はタワーマンションから、都営住宅の群れを見下ろした。
あのどこかで、田中頼子が暮らしている。
毎日同じような服を着て、すっぴんで、不登校の子どもを奇妙な時間に連れ歩いている、地味なのに妙に惹かれるモブキャラママ。
玲は、ちょっと頼子のことが気になり始めた。
(今日、なぜかあの人が幸せそうに見えたけど……なんでだろう。都営ってことは貧乏だし、旦那さんは目が見えないらしいし、子どもは不登校なのに)
現在何もかもに敏感になっている玲は、頼子の謎の〝お気楽さ〟を察知していた。
(あの時間に外にいるなら、パートか、無職っぽいけど……?)
現実がままならない時は、どうしても他人のことが気になるものだ。




