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第四話 

その老人ホームには、昔から一つの噂があった。


夜中の二時。

館内が最も静まり返る時刻になると、廊下の奥に誰かが立っているという。

夜勤の職員が見た。

入居者が見た。

清掃員と一緒に掃除していた、なんて噂もあった。

だが、誰も顔を覚えていない。


頭には古びたシルクハット。

黒い外套のようなものをまとい、人の形をしている。

それなのに人ではない。

輪郭が曖昧なのだ。

闇が、そのまま人の姿になったようだった。

夜そのものが廊下に立っている。

そう思わせる影だった。

そして。

その右手には大きな鎌が握られていているという……。


最初にその話を聞いた新人職員は吹き出した。


「なんです、それ」


一人分の笑い声だけが夜勤の休憩室に響いた。

 

「死神じゃあるまいし」


誰も笑い返さなかった。

湯呑みを手にしていた古株の職員が、静かに首を横へ振る。


「違うよ」


その声は妙に落ち着いていた。


「死神じゃない」


新人は首をかしげる。


「じゃあ、何なんです?」


古株は少しだけ廊下の奥へ目を向けた。

誰もいない。

それでも、声を潜める。


「あれは──」


短い沈黙。

時計の秒針が進む音がカチ、カチと静かに響く。


「花を見る人だよ」


休憩室の空気が、わずかに冷えた気がした。

新人はその意味を知らなかった。


 ◇


影法師を見た老人は、数日以内に亡くなる。

最初は偶然だと思われていた。

高齢者ばかりが暮らす場所だ。

今日まで元気だった人が、翌朝には静かに息を引き取ることも珍しくない。

だが、偶然にしては出来すぎていた。

影法師を見た老人は、誰一人として例外なく、数日のうちに旅立っていく。

それでも、この話を恐れる老人はいなかった。


「昨夜、会ったよ」


そう打ち明ける老人がいれば職員はただ静かに頷く。

隣の部屋の老人は、


「そうか」


と微笑み、お茶をすすった。

誰も嘆かず、誰も取り乱さない。

むしろ不思議なことに。


「ようやく会えた」


そう言って穏やかに笑う者さえいた。

 

ある夜。

百歳を迎えた女性の部屋を、影法師は静かに訪れた。

時計の針は午前二時を指している。

窓の外では、風に揺れた木々がかすかに葉を鳴らしていた。

扉は閉まっている。

それでも、気づけば影法師は部屋の中に立っていた。


女性はゆっくりと目を開ける。

驚いた様子はそこにはない。

待っていた人にようやく会えたような穏やかな表情だった。


「とうとう来たのね」


影法師は静かに頷き、シルクハットのつばを少し下げる。


「ええ」


さらりとした声で答えた。


「見せてもらいに参りました」


女性は小さく笑う。

深い皺が刻まれた頬が、柔らかく緩んだ。


「どうかしら?」


その問いに、影法師はすぐには答えない。

しばらく女性を見つめる。

いや、その女性自身を見るというよりは身体のずっと奥を見透かすように。

やがて、ほぅ、と息を吐き、静かに口を開く。


「見事な花です」


そう言うと、影法師はそのぼんやりとした顔を近づけ、もう一度。


「長い冬を越えた花ですね」


女性は目を閉じた。

その言葉を抱きしめるように、静かに微笑む。


影法師には見えていた。

胸の奥で、小さな光が揺れている。

その中心に咲く、一輪の花。

人の目には決して映らない。

その人が生きた時間、そのすべてを咲かせた花だった。


 ◇

 

夜勤の合間、新人職員は眠気を覚まそうと中庭へ出た。

冷えた夜風が頬を撫で、虫の声が静かな庭に響いている。


ふと視線を上げた、そのときだった。

庭の片隅に、人影が立っていることに気づく。


黒いシルクハット。

輪郭の曖昧な黒い身体。

右手には大きな鎌。


風に吹かれているわけでもないのに、その影はゆらゆらと揺れていた。

新人の背筋に冷たいものが走り、思わず息をのむ。


——影法師!


休憩室で聞いた噂が、脳裏によみがえった。


逃げなければ。

そう思うのに足が動かない。


影法師は何も言わない。

ただ、ゆらゆらと揺れながら、庭の花壇へ視線を落としていた。

 

――花を……見ているのか?


影法師は鎌を構えているわけでも、新人を見つめているわけでもなかった。

そのぼんやりとした横顔は、ただ花壇に咲く花へ向けられている。

まるで、長い旅の途中で見つけた一輪を愛でているかのように。


その姿を見ているうちに、新人の胸を締めつけていた恐怖は不思議と少しだけ薄らいでいった。

代わりに湧き上がってきたのは、恐怖ではなく好奇心だった。

休憩室で聞いた、あの言葉が脳裏をよぎる。


 『花を見る人だよ。』


気づけば口が動いていた。


「……あの」


影法師がゆっくりと顔を向ける。


「あなたの言う花って……何なんですか」


すると、意外なことに返事はすぐに返ってきた。


「あの花はね」


影法師は静かな声で言った。


「身体の中に咲くんです」


新人は思わず聞き返す。


「……身体の中?」


影法師はゆっくりと頷いた。


「ええ」


「どこに?」


その問いに、影法師はシルクハットのつばへ指先を添え、ほんの少しだけ帽子を下げる。


「男性なら……前立腺です」


一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


「前立腺?」


思わず聞き返す。

影法師は何もおかしなことは言っていない、とでもいうように静かに頷いた。

そして、花壇に咲く一輪へ目を向けたまま静かに語り始めた。


「花は、その人が生きた時間で育ちます」

「喜びも、悲しみも」

「誰かを愛したことも、何かを失ったことも」

「口にできなかった言葉も、叶わなかった願いも」

「すべてが、花の養分になるのです」


夜風が吹き、花壇の花が小さく揺れる。


「だから、同じ花は一つとしてありません」

「百年を生きた人の花には、百年分の色があります」

「誰かを深く傷つけた人の花には、消えない染みが残ることもある」


少しだけ目を細める。

その声は責めるわけでもなく、憐れむようでもなかった。

ただ、咲いた花をありのまま見つめる者の声だった。


「それでも――」


影法師は穏やかに微笑む。


「どんな花にも、その人が生きた証が刻まれているのです」 




だが、すべての花が美しいわけではなかった。


ある夜。

影法師は、一人の老人の部屋を訪れた。

いつものように身体の奥を見つめる。

しかし、その夜は違った。


影法師は、長いあいだ何も言わなかった。

沈黙に耐えきれなくなった老人が、小さく笑う。


「……そんなに酷い花なのか」


影法師は答えない。

ただ静かに、その花を見つめ続けていた。

そこに咲いていたのは、一輪の巨大な花だった。


美しい。いや、それは派手という方がふさわしい。


幾重にも重なる花弁。

あふれんばかりの色彩。

誰の目も奪うほど鮮やかなのに、どこか息苦しい。


欲望。

執着。

誰かを傷つけてもなお、手放せなかったもの。


そのすべてを吸い上げるように、花は際限なく咲き続けていた。

咲きすぎた花は、自らの重みに耐えきれない。

裂けた茎から黒い汁が滲み、

根元は、静かに腐り始めていた。


影法師は、静かに鎌を持ち上げた。

その瞬間、月明かりに照らされた部屋の中へ、


リィィン――


澄みきった鈴の音が、一筋流れる。

老人は小さく笑った。


「……そうか」


その声に悔いはない。

ゆっくりと目を閉じる。


影法師は何も言わない。

静寂が部屋を満たしていた。

その静けさを裂くことなく、鎌は振るわれた。


風が一度だけ、部屋の中を静かに吹き抜けた。

月明かりが、揺れたカーテンを淡く照らす。

それだけだった。


翌朝。

老人は穏やかな顔で眠るように息を引き取っていた。


 ◇

 

影法師の噂は、いつから始まったのか。

気になった職員たちは、空いた時間を見つけて調べ始めた。


倉庫の奥に眠っていた古い記録。

黄ばんだ新聞の切り抜き。

色褪せたアルバム。

埃をかぶった戦前の写真。


調べれば調べるほど、不思議なことが分かった。

どの時代にも、同じ影が写っていた。

写真は白黒からカラーへ変わっても、その姿は少しも変わらなかった。


黒いシルクハット。

黒い外套。

右手には、大きな鎌。

そして、その足元には、まもなくこの世を去る老人の姿。


時代は変わる。

建物も、人も、職員も変わる。

それでも、その影だけは変わらない。

まるで百年ものあいだ、同じ仕事を続けてきたかのように。


その中で一枚だけ。

誰もが手を止めた写真があった。

何十年も前に撮られた、老人ホームの集合写真。

庭には季節の花が咲き、職員たちは笑顔で並んでいる。

何気ない一枚。

最初は誰もすぐには気づかなかった。


写真の隅。

植え込みの影に黒い人影。


古びたシルクハット。

輪郭の曖昧な黒い身体。

右手で大きな鎌を抱えるように持っている。


そして、もう片方の手には小さな花束が握られていた。


 ◇

 

ある日の夜。

新人職員は、ずっと胸に残っていた疑問を口にした。


「……結局、あの人は何なんでしょう」


休憩室には、夜勤の小さな明かりだけが灯っている。

古株の職員はしばらく黙っていた。

やがて、湯呑みを机へ置く。


「さあね」


いつものように、穏やかな声。


「私にも分からないよ」


そう言ってから、少しだけ間を置く。


「でも……ひとつだけ、分かっていることがある」


新人が顔を上げる。

古株は窓の外へ視線を向けた。


夜の庭。

風に揺れる花々。

その向こうに続く――誰もいない廊下。


「花を見てもらった人はね、みんな最後には笑うんだ」


新人は首を傾げる。


「どうしてですか」


古株は、しばらく庭を眺めていた。

そして、静かに答えた。


「自分の人生が……ちゃんと咲いていたって、分かるからじゃないかね」


その夜。

老人ホームの長い廊下の奥に、黒い影が立っていた。

月明かりが、窓から細く差し込んでいる。


黒いシルクハット。

手には大きな鎌。


誰もいない廊下を、影法師はゆっくりと歩いていく。


やがて、一つの部屋の前で足を止めた。

中では、一人の老人が静かな寝息を立てている。


影法師は扉越しに、その奥にあるものを見つめた。

しばらくの沈黙。

そして、小さく呟く。


「……美しい花だ」


その声には、長い年月を生き抜いた一輪を称えるような響きがあった。


翌朝。

その老人は、眠るように亡くなっていた。

けれど、その顔には不思議なほど穏やかな表情が浮かんでいた。

それは人によって違った。


満面の笑顔を浮かべる者。

涙の跡を残しながら、それでも微笑む者。

遠い昔の記憶を思い出したような顔をする者。


そして――


誰にも言えなかった秘密を。

長い間抱えていたものを。

ようやく手放したような、安らかな顔をする者。



老人ホームでは今も語られている。

夜中の廊下の奥に、黒い影が現れると。


もし、出会ってしまったなら。

聞いてみるといい。


「私の花はどうでしたか」


影法師はきっとこう答える。


「あなたが思っているより……ずっと美しい花ですよ」


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