第三話
世界樹の根は、人間の身体にも伸びている。
誰もそのことを知らない。
いや、知る者は皆、口を閉ざしてしまう。
王国には「臓花師」と呼ばれる魔術師がいた。
彼らは人の内臓に咲く花を診る。
肺には白百合。
ひとたび花弁が曇れば、息は冬のように冷えてゆく。
心臓には紅薔薇。
激しく咲くほど、その者は情熱に生きる。
脳には蒼い睡蓮。
静かな水面に浮かぶその花は、知恵と夢を宿していた。
人は皆、身体のどこかに花を持って生まれる。
それは病を告げ、才能を示し、ときに運命そのものを映し出す。
そして、男だけが持つ小さな器官――前立腺には、名もなき花が咲く。
その花は決して外からは見えない。
腹の奥深く、血肉よりもなお深い場所で音もなく根を張る。
誰にも、本人にさえ気づかれることなくその一輪の花は育っていく。
その養分となるのは血ではない。
愛した者を守れなかった後悔。
胸の奥へ沈めたまま、二度と口にできなかった言葉。
王になれなかった願い。
剣を折ってなお捨てられなかった騎士であることへの誇り。
喜びでは咲かず、また、栄光では花は開かない。
誰にも見せることなく抱え続けた想いだけが、その花を咲かせる。
◇
若き騎士ペンドラゴンが王宮へ召喚されたのは、初陣から三日後のことだった。
玉座の間ではなく、王宮の最奥――臓花師だけが立ち入ることを許された白い診療室。
薬草とも花ともつかない香りが漂う部屋で、一人の老人が静かに目を閉じていた。
初陣で騎士長の傍らにいた老人。
王宮筆頭臓花師。
その皺だらけの手が、ペンドラゴンの腹へとかざされる。
長い沈黙が流れた。
やがて老人の肩が、小さく震える。
「ありえ……ぬ……」
その声がかすれる。
「だが……やはり……」
老人は一歩、二歩と後ずさる。
まるで目の前に人ではなく、災厄そのものを見たように。
「お前の花は……災いを呼ぶ」
部屋の空気が凍りつく。
「花弁が七枚になれば、《花王》が目覚める」
その言葉に、居並ぶ宮廷魔術師たちも息を呑んだ。
《花王》
神話にしか登場しない、世界樹の根を支配する王。
その名を口にすることすら禁忌とされている存在。
王は静かに命じた。
「ペンドラゴンよ、旅へ出よ」
「花が咲き切る前に、その意味を知れ」
沈黙の中でただ一人。
ペンドラゴンだけが吹き出した。
「……股間に咲く花で世界が滅ぶ?」
肩をすくめ、呆れたように笑う。
「冗談だろ」
その日、若き騎士は半ば追放されるように王都を旅立つこととなる。
手には門番兵から渡された路銀の入った革袋。
その中を見つめ、王国への不満を言いながら。
だが、最初の魔物を斬り伏せた夜だった。
腹の奥が熱い。
焚き火に近づきすぎたような熱ではない。
身体の中心で、何かがゆっくりと開く感覚。
臓花師の言葉が脳裏をよぎる。
――花弁が七枚になれば。
ペニドラゴンは苦笑して首を振った。
「気のせいだ」
そう言い聞かせ、再び剣を振るう。
しかし魔物を倒すたび、魔力を使うたび、熱は少しずつ強くなっていく。
胸ではない、心臓でもない。
もっと深い……腹の奥底。
誰にも見えない一輪の花が、静かに花弁を開いていた。
それは身体ではなく、魂のいちばん深い場所で育っていった。
◇
長い旅の果てに。
若き騎士ペンドラゴンは、世界樹の地下神殿へ辿り着いた。
そこは地の底でありながら、空よりも広かった。
天井は見えず、無数の根が星空のように闇を走り、淡い黄金色の光を脈打たせている。
その中心に、それはあった。
一本の花。
あまりにも巨大な一輪の花。
花弁は王国ひとつを包み込めるほどに広がり、黄金の雄しべは神殿の天を貫いていた。
幾千万もの根がその足元から伸び、世界中へと枝分かれしている。
ペニドラゴンは息を呑んだ。
覚醒しつつある今ならわかる。
その根は山を越え、海を越え、人々の腹の奥の魂へと繋がっていると。
すべての男。生きる者にも、死してなお名を残した英雄たちにも。
一本残らず。
「……ようやく来たか」
声が響く。
神殿に人影はない。
語りかけてきたのは――花だ。
花弁がわずかに揺れる。
それだけで、大地そのものが呼吸した。
「長く待った。お前たちは私を多くの名で呼んだ」
「生命の花」
「始祖の花」
「世界樹の心臓」
「だが今、お前にだけ真の名を教えよう」
黄金の花が、ゆっくりと開く。
「――私は《前立花》」
その名が告げられた瞬間、世界中を巡る根が一斉に脈動した。
ペンドラゴンの腹の奥もまた、熱を帯びる。
花は静かに続ける。
「私は、命を生み出そうと願った者たちの想いが集まり、生まれた」
「人は前立腺をただの器官だと思っている」
「違う」
「それは命を未来へ託そうとする意志を納める器」
「誰かを愛し、守り、受け継ぎ、生きた証」
「その願いは花となり、私へ還る」
ペンドラゴンは無言で魔剣を抜いた。
澄み切った刀身が黄金の花を映す。
「なら、お前を倒せば終わる」
花は笑った。
嘲るようではない。
幼子を見守る老人のようなどこか懐かしい笑み。
「違う」
ただ一言。
だが、その一声だけで剣先がわずかに震える。
「私を斬れば、人は未来を願えなくなる」
「英雄は剣を振るえなくなる」
「父は子を抱けなくなる」
「老人は若者へ夢を託せなくなる」
「そして、誰一人として――明日を望まなくなる」
神殿は静まり返った。
世界樹の鼓動だけが、ゆっくりと響いていた。
その瞬間だった。
ペンドラゴンの視界は光に満たされる。
世界樹の根が脈打つ。
黄金の光は一本の筋となって彼の身体を貫き、世界中へと広がっていく。
ペンドラゴンは見た。
そこに名も知らぬ英雄たちの姿を。
竜を討った王。
国境を守り抜いた騎士。
誰にも知られぬまま村を救い、歴史に名を残さなかった男。
彼らの腹の奥には、それぞれ一輪の花が咲いていた。
戦場で父を失い、それでも剣を握り続けた少年。
やがて父となり、我が子の頭を不器用に撫でる男。
老いてなお、孫の未来を願い続ける老人。
子を望みながらも、その願いが叶わなかった者。
誰もがそれぞれの痛みを抱えていた。
誰もがそれぞれの願いを抱えていた。
花は、そのすべてを知っていた。
紅く燃える花。
雪のように白い花。
夜空のように蒼い花。
まだ蕾の花。
散りかけた花。
形も色も違う。
宿した願いも違う。
だが、それでも――どの花も美しかった。
ペンドラゴンの頬を、一筋の涙が伝う。
いつの間にか、魔剣を握るその手から力を失っていた。
追放された騎士は静かに剣を鞘へ納める。
刃はもう向けるべき敵を失っていた。
代わりに、自らの腹へそっと手を添える。
鼓動が聞こえた。
心臓ではない。
もっと深い魂の奥底で。
ゆっくりと七枚目の花弁が開いていく。
その瞬間。
世界樹の根が歓喜するように震えた。
遥か遠い海の向こうで。
雪に閉ざされた北の大地で。
灼熱の砂漠で。
生まれたばかりの赤子の父も。
老いて歩みの遅くなった男も。
敗北に膝をついた戦士も。
愛する者を抱き締める恋人も。
世界中の男たちの腹の奥で、無数の花が一斉に咲いた。
それは災厄の目覚めではない。
命を未来へ託そうと願う者だけに許された、小さな奇跡だった。
その日から王国では。
男が誰かを守り抜いたとき。
己の夢を諦めず立ち上がったとき。
未来のために涙をこらえたとき。
人々は最大の敬意を込めて、こう讃えるようになった。
「――お前の前立腺には、美しい花が咲いている」
その言葉を聞いた男は、決して照れ笑いを浮かべたりはしない。
ただ静かに胸を張る。
腹の奥に宿る、誰にも見えない一輪の花へ恥じぬように。
そして今日もまた、世界樹の根は誰かの願いを養分に新しい花を咲かせ続けるのだった。




