第二話
「先生……花が咲いているんです」
診察室にエアコンの送風音だけが響いていた。
男は膝の上で両手を固く握り締めている。
四十二歳。
スーツ姿の会社員。
左手の薬指には、擦り減った結婚指輪。
精神科を紹介される前に泌尿器科へ来たらしい。
「どこにですか?」
医師は穏やかな口調で尋ねた。
男は少しだけ視線を落とし、自分の腹へ手を当てる。
「前立腺です」
診察室に短い沈黙が落ちた。
医師は口元だけで小さく笑う。
「そうですか」
異常のない検査結果。
これまでにも似た患者は何人か診てきた。
現実と夢の境界が曖昧になることは、決して珍しくない。
そう思っていた。
「見えるんです」
男は続けた。
「毎晩、夢の中で」
医師はペンを走らせる。
男の声だけが、静かな診察室に矢継ぎ早に響く。
「眠ると、自分の身体が透明になるんです」
「皮膚が消えて、骨が見えて……」
「その奥を血管が流れていて」
「膀胱の下に小さな蕾があるんです」
男は目を閉じた。
まるで今、その光景を見ているかのように。
「最初は白かったんです」
「雪みたいに、小さくて」
「次の日には赤くなっていました」
「一週間後には……花弁が開いていた」
そこまで話して男はゆっくりと息を吸う。
「最初は一枚でした」
男は膝の上で両手を握り締めたまま話を続ける。
「次の日には、もう一枚」
「昨日で四枚目……」
そこで言葉が途切れた。
診察室は静まり返る。
男はゆっくりと顔を上げた。
表情を見て一目でわかる、怯え切っていると。
「今はもう……匂いまで分かるんです」
医師はペンを置いた。
精神科的な幻覚。あるいは強いストレスによる夢。
そう考えるのが妥当だった。
カルテには、簡潔に記された。
《妄想の可能性》
血液検査、尿検査、MRI。
異常なし。
男は薬も処方されないまま帰宅した。
三日後。
自宅で死亡しているのが発見された。
死因は急性心停止。
外傷なし。中毒反応なし。
解剖所見――異常なし。
解剖医がメスを置く。
「終了だ」
その時、助手を務めていた若い助手が、小さく息を呑んだ。
「先生……」
返事はない。
助手は視線を動かさないまま、もう一度口を開く。
「見えませんか?」
解剖医は眉をひそめる。
「何がだ」
助手は震える指先を、遺体の腹部へ向けた。
「今、一瞬だけ……」
解剖医がその先を見る。
膀胱の裏側。前立腺のあたり。
何か白いものがふわりと揺れた。
それはまるで……。
執刀医は無言でライトの角度を変える。
光に当たった時にはすでに跡形もなかった。
見間違いか、そう片づけるには十分な出来事。
もちろん、写真には何一つ写ってはいなかった。
◇
それから一年。
同じ症状を訴える患者が現れた。
一人、二人と増え、その数はやがて九人となった。
年齢も職業も違う。
互いに面識もない。
ただ、一つだけ共通していた。
全員、男性だった。
そして全員が、診察室で同じ話をする。
「花が、一枚ずつ開いていくんです」
語る内容は、不気味なほど一致していた。
夢の中で身体が透明になること。
腹の奥に小さな花が咲いていること。
そして、その花が一夜ごとに花弁を増やしていくこと。
記録を照らし合わせるうちに、一つの法則が浮かび上がる。
五枚目。
患者は、自分を呼ぶ声を聞き始める。
六枚目。
鏡の中に、自分ではない誰かが立っている。
七枚目。
患者は必ず死ぬ。
原因は分からない。例外は……一人としていなかった。
◇
病院ではこの話は禁句になった。
花の話を口にする者はいない。
カルテは処分され、電子データも削除された。
担当医は異動。
症例は最初から存在しなかったことになった。
誰も話さない。
だが、なくならなかった。
夜勤中。
泌尿器科病棟の廊下を歩いていると、ときどき花の香りがする。
消毒液の匂いに混じって漂う甘い香り。
春先の庭を思わせるようなどこか懐かしい匂いだった。
決まってトイレの前で香りは強くなる。
誰かが個室へ入る。
鍵の閉まる音。
それを最後に、物音は途絶える。
数分後。
不審に思った看護師が扉を叩く。
返事はない。
鍵を開ける。
中には誰もいない。
窓は閉まっている。
換気口も人が通れる大きさではない。
床だけが濡れていた。
まるで、一輪の花が咲いたような形で。
◇
十年後。
私はその病院へ赴任した。
着任初日、歓迎会で誰かがあの噂を口にした。
前立腺に花が咲く男の話。
七枚目で死ぬという、古い院内怪談。
誰かが笑い、誰かが話題を変えた。
それきりだった。
よくある都市伝説。
その程度の認識だった。
翌朝。
画像診断室でMRIを確認していた私は、一枚の画像に目を留めた。
前立腺肥大の経過観察。
よくある検査。
モニターには骨盤部の断面が映し出されている。
膀胱。
直腸。
そして、その下、前立腺。
私は無意識にマウスを止めた。
中心部に、小さな丸い陰影がある。
嚢胞だろうか。
そう思い、画像を拡大する。
倍率を一段。
さらに一段。
輪郭が鮮明になる。
私は息を止めた。
そこにあったのは――花だった。
四枚の花弁を持つ、小さな白い花。
MRI画像の中で、まるでそこだけが生きているように静かに咲いていた。
ノイズかもしれない。
画像処理のエラーかもしれない。
そう思い、もう一度拡大する。
花は確かにそこにあった。
さっきと寸分違わぬ姿で。
まるで、私が気づくのを待っていたかのように。
私は慌てて画像を閉じようとマウスを握る。
その瞬間、脳裏へ知らない景色が雪崩れ込んできた。
『湿った石垣に古い井戸』『空襲の夜。炎に染まる街を逃げ惑う人々』
『黄色い紙札。墨で書かれた中国語』『縄でつながれた七体の地蔵』
『何か小さな包みを抱き、声にならない叫びをあげる女』『洞窟の奥。黒く煤けた祭壇』
そして――『頭蓋骨の左の眼窩から咲く、小さくて白い一輪の花』
「うわああああぁぁああ!!」
椅子を倒し私は振り返った。
誰もいない。
それなのに、消毒液の匂いは消え、部屋いっぱいに甘い花の香りが満ちていた。
私は恐る恐る自分の腹へ手を当てた。
(何もない……はずだ)
それでも、その手を離すことができなかった。
その夜。
私は夢を見た。
自分の身体が透明になっている。
肋骨。
血管。
ゆっくりと脈打つ臓器。
そのさらに奥。
膀胱の下。
前立腺の中心に小さな蕾があった。
まだ固く閉じた白い蕾。
生き物のように、心臓とは違うリズムで静かに脈打っている。
夢は毎夜続いた。
そして朝を迎えるたび、蕾は少しずつ形を変えていく。
最初の花弁が開いた。
翌朝にはもう一枚。
その翌朝にはさらにもう一枚。
夢の中だけで起きていることのはずだった。
私は……そう信じようとしていた。
《スノードロップ》
花言葉は『希望』。それともう一つ――『あなたの死を望む』。




