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第一話

春になると、父は庭に出る時間が長くなった。


縁側に腰を下ろし、咲き始めた花々を黙って眺めている。

風に揺れる花びらを目で追い、小さく芽吹いた若葉に目を細める。

その姿は穏やかで、時間だけがゆっくりと流れているようだった。


退職して十年。

妻を亡くして三年。

父の暮らしは驚くほど変わらなかった。


毎朝、夜明けとともに起きる。

年季の入った急須で茶を淹れ、湯気の立つ湯呑みを両手で包むように持つ。

そして居間の決まった椅子に腰を下ろし、新聞を広げる。

時計の針まで、その生活に合わせて動いているのではないかと思うほど、父の日々は規則正しかった。

変わらないことだけが、父を支えているようにも見えた。


だが、その日常にも、ひとつだけ静かに崩れていったものがあった。

排尿だった。

最初は「最近、勢いが悪くてな」と苦笑いしていた。


年を取れば誰でもそうなる。

そんなふうに、自分に言い聞かせるような口ぶりだった。


だが月日が過ぎるにつれ、トイレに入る時間は少しずつ長くなっていった。

出そうで出ない。

ようやく出ても、細い糸のような尿が頼りなく続くだけ。


終わったと思って立ち上がれば、また残っているような感覚に襲われる。

父は何度もため息をつき、水を流す音だけが静かな家に響いた。

それでも父は、誰にも弱音を吐かなかった。


庭の花は今年も変わらず咲く。


父もまた、何事もなかったように花を眺めていた。

ただ、その背中だけが、去年より少し小さく見えた。


「歳だな」


父はそう笑ってみせた。

だが、その笑顔はどこか力がなく、冗談で済ませようとしていることは見ていて分かった。


それからしばらくして、父はとうとう病院へ向かった。

白衣の医師は検査結果に目を落とし、穏やかな口調で言った。


「前立腺が少し大きくなっています。年齢を考えれば、決して珍しいことではありません」


父は「そうですか」とだけ答え、ゆっくりとうなずいた。

驚きも、取り乱す様子もなかった。

ただ、その言葉を飲み込むまでにほんの少し時間が必要だった。


前立腺。


その名前を耳にしたのは、おそらく人生で何度目だっただろう。


男として七十年生きてきた。

転び、骨を折り、高熱を出したこともある。

働き盛りには胃を悪くし、血圧を気にした時期もあった。

それでも、自分の身体のその場所について考えたことなど一度もなかった。


人は、失いかけて初めて自分の身体の一部を知る。

尿が出るというごく当たり前だった営みが、こんなにも繊細な仕組みの上に成り立っていたことを父は七十歳になって初めて思い知った。


診察室を出た父は、薬の説明を受けながら何度もうなずいていた。

その横顔はいつもと変わらないようでいて、どこか少しだけ小さく見えた。

 

家へ戻ると、庭の沈丁花が咲いていた。


夕暮れの薄明かりの中、小さな花は控えめな白を灯し、甘くやわらかな香りだけが風に乗って流れてくる。

父は玄関に入る前に立ち止まり、しばらくその香りを吸い込んでいた。

沈丁花は、不思議な花だ。

目を閉じれば、香りだけで遠い春へ連れていく。


母と初めて出会った春。

ぎこちなく並んで歩いた帰り道。

娘が生まれ、病院の窓から見た桜。

まだ小さかった息子と公園で夢中になってキャッチボールをした夕暮れ。


父の人生は、振り返ればいつも春から始まっていた。

花が咲き、誰かと出会い、家族が増え、また新しい季節が巡る。

その繰り返しが、人生というものだった。


その夜の食卓で、父は湯飲みを手にしたままぽつりとつぶやいた。


「人間の身体にも、花が咲くのかもしれんな」


私は箸を止めた。


「花?」


父は少しだけ笑う。


「病気ってのはな……枯れることじゃない」


そう言って、自分の下腹部へ静かに目を落とした。


「身体が『ここを見てくれ』って知らせるために咲かせる花なのかもしれん」


部屋はしんと静まり返った。

時計の秒針だけが、静かに時を刻んでいる。

私は返す言葉が見つからなかった。

病気を花にたとえるなんて、考えたこともなかったからだ。


父は湯飲みを口元へ運び、小さく息を吐いた。

その横顔には年齢相応の深い皺が刻まれていた。

だが、その表情は不思議なくらい穏やかだった。

 

治療が始まった。

父は毎朝、食後に薬を飲むようになった。

飲み忘れないよう、食卓の隅には小さな薬箱が置かれている。

塩分を控え、水分を摂る時間にも気を配る。

月に一度は病院へ行き、診察室で変わりありませんかと尋ねられ、そのたびに「ぼちぼちです」と笑う。


生活は少しずつ変わった。

けれど、父は「病人」にはならなかった。

以前のように調子のいい日ばかりではない。

尿意で夜中に何度も目が覚める日もある。

ようやく眠れたと思えば、また一時間もしないうちに起き上がる。

朝になれば、少し眠たそうな顔で湯を沸かし、それでも決まった時間に茶を淹れる。


変わったことを数えればきりがない。

変わらないことを数えれば、それもまたきりがなかった。


父は今日も庭へ出る。


水仙が咲けば足を止める。

黄色い花弁を眺めながら何を思うでもなく風に吹かれる。


梅雨が近づけば、今度は紫陽花がゆっくりと色を深めていく。

青とも紫ともつかない花を見上げ、父はつられるように空を見た。

雲はゆっくり流れ、季節は誰を待つこともなく巡っていく。


「花は急がないからいい」


父はそう言って笑った。


「咲く時期も、散る時期も、自分で決めようとしない。だからきれいなんだろうな」


私は黙ってその横顔を見つめた。


若い頃、身体とは思いどおりに動くものだと思っていた。

走りたければ走れた。

徹夜をしても働けた。

どこか痛くなっても、一晩眠れば治ると信じていた。

身体は、自分の意思に従う乗り物のようなものだった。


だが、歳を重ねるにつれ、その乗り物は少しずつ気まぐれになる。


昨日できたことが、今日はできない。

思うように眠れず、思うように歩けず、思うように排尿さえできなくなる。

いつしか身体は、自分でありながら、自分ではない誰かのようになる。

それでも、その変化を嘆くだけでは、人は前へ進めないのだろう。


父は身体と戦ってはいなかった。

身体の言い分を聞きながら一緒に暮らしていた。

そうやって折り合いをつけながら、一日一日を重ねていく。

 


翌年の春だった。


庭の隅に、見覚えのない花が咲いていた。

背丈は低く、細い茎の先で小さな白い花が静かに揺れている。

うつむくように咲くその姿はどこか控えめで、けれど凛としていた。

春の風が吹くたび、白い花弁が小さく頷くように揺れる。


私は庭に降りその花の前でしゃがみ込んだ。


「これ、植えたの?」


父は如雨露じょうろを持つ手を止め、少し照れくさそうに帽子のつばをかいた。


「ああ。」


短く答えてから、少し笑う。


「病院の帰りにな。花屋で見つけたんだ」


足元には、まだ小さな名札が残っていた。

土で少し汚れた札には、控えめな文字でこう書かれている。


――《スノードロップ》


父はその名をゆっくり口にした。


「身体に咲いた花は困りものだったが……」


そこで一度言葉を切り、白い花へ目を向ける。


「庭に咲く花は悪くない」


そう言って笑った。

その笑顔は、一年前に病院から帰ってきた日のものとは違っていた。


病気が消えたわけではない。

薬は今も飲み続けている。

夜中に目を覚ますこともある。

診察の日が近づけば、少しだけ口数も減る。

それでも父は笑っていた。


病気に勝ったからではない。

病気と一緒に生きることを、少しずつ覚えたからだ。


私は父の横顔を見つめながら、ようやくあの日の言葉の意味を理解した。


「身体にも花が咲く」


あれは、病気を美しく言い換えた言葉ではなかった。

身体が助けを求める声であり、立ち止まる理由であり、生き方を見つめ直す季節の訪れだったのだ。


人は病気と闘うだけでは生きてはいけない。

受け入れ、折り合いをつけ、ともに歩くことでしか見えない景色がある。

父は、その景色の中でもう一度春を好きになった。


白い花は今日もうつむいて咲いている。

けれど、それはうなだれているのではない。

長い冬を越え、誰よりも早く春を知らせるために静かに頭を垂れているのだ。


 寒さを知っているからこそ春を告げられる花。

 下を向いていてもちゃんと咲ける花。


その小さな花に手を添えた父は、穏やかな笑みを浮かべて空を見上げた。

澄み渡る青空の向こうで、新しい季節が静かに始まっていた。


ヒガンバナ科ガランサス属


《スノードロップ》


待雪草マツユキソウとも呼ばれる、その花の花言葉は――

 

 『希望』

 


挿絵(By みてみん)



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